旅立ち 1
「・・・いてて」
まだ時々痛む胸の傷跡を抑えて、呻きながら俺は布団を担いだ。
明日は、しずかちゃんの娘の詩織ちゃんが退院してここに帰ってくる。
ここと言うのは言うまでもなく、しずかちゃんの自宅だ。
俺達が滞在していたホテルから車で10分程の所に彼女は自宅を持っていて、そこから病院に通勤していた。
戸籍上、父親になった俺は、帰ってくる彼女の為にできることを探している内に、突然、布団を干す事を思いついたのだった。
片目が見えない上に、肺も半分無くなって、胸と手首にはツギハギの縫った痕が残るし、根尾にぶっ飛ばされた時に外れた肘は靭帯が伸びていた。
背中のどっかに埋め込まれているマイクロチップも、外されることなくそのまま放置されている。
殺人事件にせずに済んだものの、あの計画のお陰で、俺の体はかなり踏んだり蹴ったりな状態になっていた。
それにも勝る大きな幸せは、しずかちゃんと入籍したことか。
ベランダに出ると、二月の風が肌を差すようだった。
空はどんより曇って、雪でも降りそうな勢いだ。
せっかく担いできた布団のやり場に困って、俺はベランダにもたれて空を仰いだ。
しずかちゃんは、朝からウサギに懺悔すると言って名古屋に出掛けていた。
「私がウサギさんに訴えられて刑務所に入ったら、詩織の事、宜しくお願いしますね」
涙ながらに言って、しずかちゃんは俺をギュっと抱き締めた。
ウサギがそんな事をするヤツじゃないことは確信があったので、俺は、ハイハイと曖昧な返事をしておいた。
あいつはバカで行き当たりバッタリな女だけど、今更、後ろ向きな事は絶対しない。
俺にはそう思えた。
思い返せば、あの事件から既に半年が経っている。
根尾の奥さん、いや、娘さんの葬儀は親族だけでしめやかに行われたらしい。
俺としずかちゃんが葬式に呼ばれなかったのは当然だとしても、根尾さえも呼んでもらえなかったのには驚いた。
「院長の奥さんが来るんだから僕が呼ばれる訳ないよ。これでこの病院とは何の関係もない人間になったんだからね。葬式で元旦那をお披露目して、跡継ぎ問題になるのが嫌なんだろ」
根尾は負け惜しみみたいに言って笑ったが、さすがに辛そうだった。
その様子は多少は気になっていたけど、俺達はする事が沢山有り過ぎて、考えている暇はなかった。
まず、彼女の住民登録があるこの街の役所で俺達は婚姻届を出した。
プロポーズも何もない。
移植手術の為だけの便宜上の結婚だった。
それでも提出する時は緊張したし、嬉しかった。
結婚は二度目の彼女はさすがに落ち着いていたけど、俺が顔を見ると慌てて目元を手で擦った。
女って何度結婚しても感動するらしい。
それを見た涙脆い俺も、やっぱり感動して涙を抑えることができなかった。
移植手術は楽園会グループではなく、生体移植専門の外科医がいる名古屋の病院で行われた。
俺も1ヶ月程の入院を余儀なくされたが、何もしないでいる事には慣れているので、苦痛ではなかった。
人生、何でもやっておくものだ。
詩織ちゃんには、俺がしずかちゃんと結婚した事や、ドナーになる事は伏せておいた。
「女の子はデリケートだから、要らないとか言い出したら困るでしょ?」
見かけによらず毒舌なしずかちゃんにそう言われて、俺は苦笑いするしかなかった。
「俺の肺じゃ嫌、とか?」
「・・・まあ、そういう心配もあるってことです。詩織がもっと物事が分かる年になったら、ゆっくり説明したいの。」
「でも、退院して、自宅に俺が一緒に住んでたら変だろ?」
「それは大丈夫です。海賊さんがママを守る為に船を下りたので、住む所がないって言ってあります。あなたが同居する事については、詩織はとっても喜んでるわ」
船を降りたホームレスの海賊を装って同居することについては、いささか疑問を感じたけど、事なかれ 主義の俺は「嘘も方便」が座右の銘だったから、結果オーライなら何でも良かった。
ぼんやりと今までの事を反芻している内に、鼻の先に冷たいものがフワリと落ちてきた。
これに続いて、暗い雲からハラハラと粉雪が落ちてくる。
寒いと思ったら、とうとう降り出した。
俺は慌てて担いできた布団を、家の中に引き摺り込んだ。
◇◇◇◇
2LDKの小さなマンションは、しずかちゃんと詩織ちゃんが二人で住むには丁度いい大きさだった。
几帳面な彼女らしく、床はいつも磨かれていて、壁に傷の一つもない。
男ばっかり3人兄弟の岸上家では、常に壁や襖に穴が開いていて落書きだらけだったというのに、やっぱり女の子は大人しいんだろう。
カントリー調のローチェストの上に、しずかちゃんと詩織ちゃんが仲良く抱き合って写っている写真が置いてあって、さすがに女の部屋だと感心した。
正直言って、俺がしずかちゃんと詩織ちゃんと一緒にいていいのか、自分でも分からなかった。
ここにいたら詩織ちゃんが、海賊を匿ってるっ言われて学校で苛められたりしないだろうか?
ただでさえ外見に問題がある俺がしずかちゃんと一緒にいたら、彼女が悪く言われたりしないだろうか?
タバコを求めてポケットに手を突っ込んでいるのに気が付いて、俺は苦笑する。
そうだ、もうタバコは一生吸えないんだっけ。
ドナーになって一番辛かったのは、その事だった。
俺は布団を抱き締めたまま、しずかちゃんと一緒に寝ているダブルベッドに仰向けで寝転がった。
根尾はどうしているんだろう。
不安になる時、いつも思い出すのはアイツの悪びれない飄々とした顔だ。
俺はしずかちゃんが大好きだけど、同時に根尾のことも好きだった。
彼女を何度抱いても、何かが足りない。
俺を求める執拗な愛撫。
左目を見つめる異常なまでのあの執着。
俺よりもか弱く見えて、組み伏せられると身動きさえ取れない力強さ。
メチャクチャにされたい。
この不安な気持ちごと、アイツにぶち壊されたかった。
「ただいま、岸上さん」
突然、玄関からしずかちゃんの声がして、俺はびっくりして飛び起きた。
コートを脱いで、バタバタと粉雪を叩き落としている彼女の姿が見える。
雪に降られたんだろう。
寒さで顔が真っ赤になっている。
子供みたいに真っ赤なホッペをして手を擦り合わせてハーっと息を吹きかける、そんな仕草もまたかわいくて、思わず表情が緩んでしまう。
俺が寝転がっているベッドに腰を下ろすと、しずかちゃんは冷たい手を俺の頬に当てた。
その手をそっと掴んで、俺はお姫様にするみたいにキスした。
「・・・ウサギさん、どうだった? 元気だった? 今更、怒ってなかっただろ?」
「ええ、正直に話して許して貰いました。彼女、結婚するんですって。幸せそうでしたよ」
何?・・・結婚だと?
俺は思わず、ガバっと起き上がった。
あのウサギに男ができるなんて、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったものだ。
まあ、よく見りゃそれなりにかわいかったし、蓼食う虫も好き好きだしな。
本当にあの時、殺さなくて良かった。
ブツブツ独り言を呟いている俺の前に、彼女は黙って、持ってきた紙袋を差し出した。
意味が分からずに中を覗くと、そこには見覚えのあるノートパソコンが入っている。
俺がブログの管理をしていたあのパソコンだ。
「これ、根尾さんの・・・?」
俺はしずかちゃんの顔を見上げた。
彼女は深く頷いて言った。
「帰る前に、名古屋の根尾先生の自宅マンションに寄りました。これをあなたに渡すようにって言われて預かってきたの。先生、楽園会病院を退職したんです。明日にはマンションも引き払うそうです。行き先は教えて貰えませんでした・・・」
根尾がいなくなる・・・?
心臓が掴まれる様な不安に、俺は思わずパソコンを抱き締めた。