夢 2
その日の昼、トイレの下駄を履いて、警官の貸してくれた2000円だけを頼りに、私は名古屋駅に戻ってきた。
「携帯番号、教えてよ。家に帰ったら電話するから。ちゃんと利子つけて返すからね」
駅まで送ってくれた警官に、私はぶっきらぼうにそう言った。
一つは照れ隠し、もう一つは別れがちょっとだけ寂しかったからだ。
警官は笑ってポケットからメモ帳とペンを取り出すと、サラサラっと殴り書きして、パトカーの窓越しに手渡した。
田島義之
090-xxxx-xxxx
そこで初めて私は彼の名前を知った。
よくある昭和の雰囲気の名前だ。
「よくある名前ですね」
思わず出た言葉に彼は苦笑した。
「あんたもね。じゃ、気をつけて帰れよ」
ピンと伸ばした右手を額に当てて敬礼すると、窓が閉まって、彼は車を走らせ去って行った。
名古屋駅からトイレの下駄履きのまま市バスに乗って、私はノコノコと実家に戻って来た。
私が失踪して大騒動になっているかと思いきや、玄関を開けたら皆の靴がなくって、どこかに出掛けているみたいだった。
無職になってから、二日間くらい部屋から出ず、平気で引き篭ってた私だ。
一日いなかったくらいでは、誰も気が付かないだろう。
幸か不幸か分からないが、とにかく自殺計画に失敗した今、この件については誰にも知られたくなかったので、家族が気が付いていないのは都合が良かった。
死ぬつもりで出掛けたのが、おめおめと帰ってきたんだから、これ以上恥をかきたくなかった。
結局、私はあそこまで行ったものの、死ぬほどの覚悟もなく後悔しまくって、お酒を飲んで、他の参加者に呆れられて、始末に困ったもんだからあの駐在所に置き去りにされたんだろう。
ネオさんや、あの美人の奥様、それとミナミのドンはエデンに逝ってしまったんだろうか・・・?
今頃、もうこの世にはいないんだろうか。
主催者の死神さんは、あの後、どこに行ったんだろう。
半分、夢だったような気までしていた。
でも、今でもハッキリ目に浮かぶことが一つだけあった。
首を傾げて見つめる死神さんの瞳。
見えない方の目も衝撃だったけど、私にはあの射抜くような紅茶色の瞳が忘れられなかった。
もう二度と会うことはないだろう。
それだけは、何故か確信があった。
◇◇◇◇
その夜、ケータイまでバッグと一緒に置いてきてしまった私は、自宅の電話から警官・田島義之に連絡をした。
「もしもし、田島です」
受話器の向こうで落ち着いた低い声が聞こえて、私は再び鼓動が速くなるのを感じた。
「あ、宇佐美です。あの、色々言ってしまったけれど、今日はありがとうございました。返金させて頂きたいので、銀行口座教えて貰えますか? 下駄の弁償代と合わせて振り込みますので・・・」
今までの営業職のクセで、電話の対応は常に業務的になってしまう。
堅苦しい話振りに、受話器の向こうから笑い声が聞こえてきた。
「いーよ、そんな固くなんなくて。俺、今自宅だし。本気で返してくれるの?」
「返します。約束ですから」
「だったらさ、俺、名古屋まで回収に行くよ。手渡しで返してくれる?」
思いもよらないその言葉に、私は完全にテンパった。
それはつまり、どーいう意味なの???
「な、名古屋まで来ると高速代とガソリン代で2000円越えると思いますけど。それ、する意味あるんですか?」
既に胸はドキドキ、久々のトキメキで弾けそうなのに、何故か、かわいくないことを言ってしまう。
こんなだから今まで結婚できなかったんだ。
分かってるのに再び同じ過ちを繰り返している自分に嫌気が差す。
「もちろん、それに見合う事は期待してるよ。あんたと話したい。来るなってんなら行かないけど」
私のトゲトゲしい口調を気にする風もなく、彼はさっぱりした口調で言った。
さっきは「小さい男」って言っちゃったけど、意外と器量の大きい男なのかもしれない。
ここでつまらない意地を張ったら、一生後悔するかも。
もう、後悔はしたくない。
昨日、あれだけ後悔して、どういう訳だか分からないけど一命を取り留めたんだ。
意地張ってる場合じゃない。
この命は楽しい方向に使わなければ。
「・・・来て下さい。私も逢いたいです」
思い切って言った私の言葉を待っていたかのように、電話口で彼の笑い声が聞こえた。
「了解! よかったあ! 断わられたら自殺モンだったよ。あー、緊張した・・・」
私達は電話越しに笑い合った。
◇◇◇◇
それを期に、私達は付き合い出した。
車もお金も仕事もない私を気遣って、会う時はもっぱら彼が名古屋まで車で来てくれた。
定期的な休みが取れない彼にとって、無職で時間だけは膨大にある私が都合が良かったみたいだ。
どちらかと言うと、ずんぐりムックリな体型で顔もイケてるとは言い難い田島だったが、彼といると不思議と落ち着いた。
肝が据わってるというか、私のヒステリーにも全く同じることなく、常に同じ態度で接してくれる大きさがあった。
「どうして今まで彼女いなかったの?」
付き合って半年ほどした頃だろうか。
名古屋港を二人でブラブラ歩いていた時、私はふと彼に聞いた。
そう聞いた私に、彼は赤くなって頭を掻きながら言った。
「ルックスがイケてないのはともかく、一つは職場に女性がいなくて出会いがない。あと、俺ね、転勤多いんだ。でもって、実家は農家なの。お見合いコンパで、プロフィールの『相手に対する希望』に、農家の嫁とか、転勤族の嫁って書いたら、大抵相手にされないよ。あんたはどう思う?」
「・・・は?」
「転勤族もしくは農家の嫁って興味あるかな? よければ、その・・・」
「ねえ、それってプロポーズのつもり?」
聞き捨てならないその言葉にしがみ付き、私は彼に詰め寄る。
更にガリガリと頭を掻きながら、田島クンは降参したように言った。
「あー、もう!もっとカッコよく言おうと思ってたのに。付き合って半年しか経ってないのに早すぎだろ!」
襟首を掴んで必死に詰め寄る私を、彼は太い腕で抱き締めた。
幸せだった。
やっと私も大切な人ができた。
あの時、死ななくて本当に良かった。
夢かと思うほどの幸福感を私が味わっていた頃、機種だけ変えた新しいケータイに見知らぬ番号からメールがあった。
メールアドレスはなくて、番号だけのショートメールで送信されてきた。
090-xxxx-xxxx
件名 死神より
本文 お返ししたいものがあります。
明日朝10時、名古屋駅前の待ち合わせ場所だったバス停留所にてお待ちしています。
見た途端、私は蒼白になってケータイを握り締めた。