決着 2
「岸上君、起きろよ」
目を瞑った俺の顔の上で、懐かしい根尾の声がした。
少し高めの優しい声。
さっき別れたばかりだというのに、久し振りに聞いたような気がした。
不思議な事に見えない方の目には、俺を見下ろす根尾の姿がはっきり見える。
もしかしたら、夢を見てるんだろうか。
それとも、俺は既に死んでいるのか。
ああ、もう・・・何でもいい。
最後に根尾に会えて良かった。
照れ臭くて一度も言えなかった台詞を言う機会を、神様が与えてくれたに違いない。
俺は薄れる意識を必死に手繰り寄せ、見える方の右目を開けようと試みる。
そこには確かに根尾がいた。
感覚のなくなった血まみれの俺の右手を取って、じっと俺を見つめている。
いつもの白い顔に一見穏やかな緑がかった黒い瞳。
柔らかい栗色の髪が額にかかって、少年みたいな雰囲気だ。
俺はこの人が好きだった。
気ままで常識がなくて、子供みたいな無邪気さと残酷さを持ち合わせた変った男。
俺を求めてくれた初めての人だった。
俺は力を振り絞って、最後の告白をした。
「ね、根尾さん・・・ごめん。俺、できなかった・・・あんたにも、しずかちゃんにも人殺しさせたくなかったんだ・・・あの子を、ウサギを逃がしちゃった。裏切ってすまない」
「・・・ああ」
「俺、B型だから・・・あんたの奥さんに俺の心臓使って・・・肺はしずかちゃんの娘に・・・ダメだったら太平洋に水葬してよ。俺、ここの海好きなんだ」
「・・・ああ、分かった」
「俺ね、嬉しかったんだ。初めて人に求められて。こんな顔なのに綺麗だって言ってもらえて・・・すごく嬉しかったよ。俺、あんたのこと好きだった。だから、絶対に止めさせなくちゃって思ったんだ」
「・・・分かってるよ」
根尾は、そこで初めて表情を緩めて笑みを浮かべた。
反対に、今際の際にベラベラと告白を続ける俺は、感情の高ぶりを抑えられず、ポロポロ涙が出てきた。
セックスの最中にも泣いてしまうほど涙腺が弱い俺は、これが最期と恥をかなぐり捨て、根尾の前で形振り構わずベソをかき始める。
根尾は優しく見下ろして、俺の頬に手を添えると、顔についた砂をそっと払ってくれた。
「根尾さん、俺、先に逝くけど、あんたのこと守ってやるよ。だから・・・死ぬまで抱いててくれないかな・・・俺、死ぬのが少し怖いんだ・・・最期にあんたが抱いててくれたら、もう悔いはないから・・・」
「・・・君は死なないよ」
泣きながら一世一代の告白をしていた俺の言葉を遮って、根尾はプっと吹き出した。
クスクス笑いながら、握っていた俺の右手を見せる。
「もう血は止まってるよ。このナイフで死ぬ気なら、睡眠薬を酒で飲んでから、血が止まらないように水の中に手を突っ込んでおくんだな」
・・・何だって?
根尾の言葉に俺はギョっとして、思わず起き上がった。
最初だけ大量出血したかに思えた右手は、今見ると確かに出血は止まっていて、手を濡らしていた血液は既に乾いていた。
「あ、あれ? だって、さっき意識がなくなってきて、あのまま出血多量で死ぬかと思ったんだよ?」
「眠かったんじゃないのか? もしくは血を見て貧血を起こしたんだよ。男は血に弱いヤツが多いからね。献血にきた巨漢が自分の血を見てぶっ倒れるなんてよくある話だ。そもそも、切り口が動脈に当たっていない。これじゃ、死なないよ」
可笑しそうにクスクス笑う根尾を、俺はしばし唖然として見ていた。
同時に、今、告白したことが頭をよぎって、俺は穴があったら入りたい程、恥ずかしくなった。
根尾は自分の履いてたスラックスの革ベルトを外すと、俺の血糊のついた右腕に器用に巻きつける。
応急処置で止血してくれたらしい。
「・・・君に裏切られたのは残念だったけど、誠意は受け止めたよ。病院に戻ろう。血は止まってても、砂の中に傷口が埋まってたからな。消毒してから何針か縫うから覚悟しとけよ」
根尾は立ち上がってさっぱりした表情で、砂の中に座り込んだままの俺を見下ろした。
ヤツの差し出した手を俺はしっかり握り締め、それを支えに立ち上がる。
立った瞬間に眩暈がして座り込みそうになった所を、根尾の力強い腕が俺の肩をグイっと支えた。
細いのに逞しい腕で俺をしっかり支えながら、根尾はゆっくりと歩き始めた。
「・・・病院に戻っていいのか? 俺、あんた達を裏切ったのに・・・」
「もう、いいんだよ。計画は終了だ」
「え?」
根尾の言葉に、俺は思わず立ち竦む。
根尾は弱弱しく笑みを見せて言った。
「ちょうど君がアルファードで飛び出した後、病院から連絡があったんだ。瑞希は昨日夜七時に死亡した。僕たちの計画は間に合わなかったんだよ」
根尾の言葉に、俺は衝撃を受けて、その場に硬直した。
7時って言えば、あのレストランで皆が集まってた頃だ。
俺が目を覚まして、ゲロゲロ吐いてた時間ということになる。
あの時、あの寝たきりの少女は死んでしまったというのか・・・?
根尾は最期に彼女と会えなかったんだ・・・。
俺の目から再び涙がポロポロ零れ落ちた。
俺がウサギを逃がさなければ、もしかして助かってたのかもしれない。
もう少し早ければ・・・。
「ごめん・・・根尾さん、ごめん」
「いいよ。僕もね、思ったんだ。彼女は僕の凶行を自らの死をもって止めてくれたんじゃないかって。僕が手を汚すのを本当は嫌がってたんじゃないかってね。麻酔が効いてる筈の君が起きてきたのには驚いたよ。これも彼女の仕業かもな」
悲しみでおかしくなるかと思いきや、意外にも吹っ切れた顔で、根尾はサバサバと答えた。
「あ、じゃあ、院長は・・・?」
「君が逃げた後、僕らは連絡を受けて病院に戻ってたんだ。彼はそのまま残ってる。あの人も可哀相な人だよ」
根尾はふと表情を曇らせて、俺を支える腕に力を込めた。
しばし沈黙があった後、やがて彼はポツリと低い声で俺の耳元に囁いた。
「今から言うことは、夢だと思って聞いて欲しい。瑞希はね、本当は僕の娘なんだよ」