決着 1
運転席に再び戻った俺は、助手席でまっすぐ前を見て座っているしずかちゃんの横顔を見た。
どこから見てもやっぱり綺麗だ。
横顔が綺麗な人は本物の美人だって、誰かが言ってたのを思い出す。
すっと通った鼻筋に形のいい唇が連なり、シャープな顎のラインに続く細い首。
唇を噛んだまま決意を固めたその顔は、テコでも動かないと言わんばかりだ。
俺は降参するしかなかった。
「しずかちゃん、降りないなら一緒に連れてくよ。早くここから離れないと、根尾さんがウサギさんを取り返しに来るかもしれないからね」
「そうして下さい」
「俺、一応、死ぬ予定なんだけど」
「構いません。一緒に行きます」
「じゃ、俺が死に切れなかったら、介錯してくれる?」
「お断りします!」
キっと切れ長の目を吊り上げて、彼女は俺を睨んだ。
こんなに激しく感情を見せてくれるしずかちゃんは初めてだった。
そして、彼女をこんなに愛しく感じたのも。
激しい口調でしずかちゃんは続けた。
「約束して下さい! 死ぬなんて言わないで。あなただけに罪を被らせる訳にはいきません。あなたが死ぬ気なら、私達も同罪です」
「でも、誰かが被らないと、それこそ一蓮托生、全員逮捕されるかもしれないよ」
「それでもいいの! 約束して! 私を置いていかないで!」
涙を溜めて懇願するしずかちゃんを見て、不覚にも目頭が熱くなってくる。
俺は観念して、笑みを見せて言った。
「・・・分かった。死なないよ。しずかちゃんを置いていけないしね」
便宜上、口から出た俺の言葉に、しずかちゃんはやっと落ち着いて、柔らかい表情で笑った。
ああ、死にたくないな・・・。
この人と離れたくない。
あってはならない思いが頭をよぎる。
せっかく固まっていた決心がブレ始めて、俺は思いを振り切るように前方を向いてエンジンをかけた。
見えないのが左目で良かった。
助手席にいる彼女の泣き顔が、俺の視界に入らないことがありがたかった。
◇◇◇◇
ナビの液晶のデジタル時計は、深夜3時になっていた。
俺は今来た道をひたすら戻って海を目指していた。
さすがに片目での夜道の運転はこたえる。
そうでなくても、前日の5時に出発して名古屋まで往復していた。
俺にいたっては、ウサギに海に突き飛ばされ、根尾に半殺しにされた後、麻酔をかけられ体もガタガタだ。
疲れてない筈がない。
しずかちゃんも半分目を閉じて、窓に頭をもたれて必死で睡魔と闘っている。
俺が突然バックレなかったら、今頃どうなってただろう。
もしかして、詩織ちゃんと瑞穂ちゃん両方にウサギの臓器が適合して、いきなり計画は終了、ハッピーエンドになってたかもしれない。
俺はやっぱり悪い事したんだろうか?
派出所のソファでスヤスヤ眠っていたウサギの顔が頭をよぎった。
少なくとも、俺は彼女を助けた。
自分が呼び出して、ここまで連れてきたっていうのに、俺はウサギを死なせないで済んだことには満足していた。
ただ、この落とし前は自分でつけなければ。
根尾としずかちゃんに迷惑が掛かる前に。
やがて、車は『海浜公園』と書かれた大きな看板がある駐車場に到着した。
ナビで確認すると、その駐車場の向こうは海岸になっている。
俺達が滞在していたホテルの前の海岸と繋がっている筈だ。
ただ、あの海岸からは、電車の一駅分くらいの距離はありそうだった。
松の木の並んだガードレール沿いの駐車場に車を停車させ、エンジンを切ると、突然、静寂が戻ってきた。
夏とは言え、明け方の海岸は寒いくらいで、エアコンがなくても車内は快適だった。
緊張の糸が切れたしずかちゃんは、完全に眠りに入っていた。
俺が死なないって言ったのが、彼女を安堵させたんだろう。
彫刻のような白い顔は、しっかり目を閉じて死んだようにピクリとも動かない。
俺は、その白い頬に触ろうと手を伸ばして、そこで諦めて再び引っ込めた。
「さよなら、しずかちゃん」
彼女を起こさないように、俺は聞こえないくらい小さな声でお別れを言った。
そして、音を立てないようにそっとドアを開けて、俺はキーを挿したまま車を離れた。
外に出ると、涼しい潮風が顔を撫でていった。
空は少し明るくなてきたものの、まだ一面、星が瞬いている。
波の音を頼りに俺は浜に向って、伸びをしながらゆっくり歩いていった。
まだ光を放っている月に明かりに照らされた海は、幻想的だった。
砂利の混ざった砂浜を踏みしめて、波打ち際まで歩いていく。
あまり海に近いと、根尾に発見される前に流されてしまう危険がある。
早過ぎて死後硬直が始まってから発見されても意味がないし、遅すぎると、起きてきたしずかちゃんに止められるかもしれない。
俺はあれこれシミュレーションしながら、文字通り死に場所を求めて海岸をウロウロ歩き回った。
その時。
背中の肩甲骨の間の皮膚が、僅かに振動したのを感じた。
本当にマイクロチップが埋め込まれているなら、何かに反応したのかもしれない。
俺は、さっき車を止めた駐車場の方を見た。
微かだが、車がこちらに近づいてくるエンジン音が聞こえる。
間違いない。
根尾がここに向って来てる。
完全に野生のカンだったが、その時は神がかり的に確信を持ってヤツを感じた。
ジャストタイミングだ。
今やれば、ヤツがここに来た時には俺は半死半生、三途の川を渡る寸前くらいだろう。
俺は砂浜に空を仰いで大の字になって、寝転がった。
波の音を聞きながら、振ってくるような星空の下で俺は逝く。
なかなかできない贅沢だ。
ポケットに突っ込んでおいた木製の果物ナイフの鞘を外して、俺はまだ痺れの残る右手の手首に刃を押し当てた。
意外に切れ味のいい果物ナイフは、スパっと手首の皮を切り裂いた。
勢いよく血が流れてきたのを確認して、俺は手を下ろして砂浜に大の字になったまま目を閉じた。
脱臼したお陰でまだ痺れている右手は痛みは感じなかったけど、生暖かい血が腕を伝ってダラダラ流れていくのは分かって、血に弱い俺はそれを直視することができなかった。
目を閉じて潮騒の音に耳を傾けていると、急激に睡魔が襲ってきた。
同時にだんだん頭がクラクラしてくる。
そろそろお迎えが来るのかな・・・?
そんなことを考え始めた頃。
俺の見えない筈の左目に、こっちに向って歩いてくる根尾の姿が鮮明に映った。