逃走 1
急発進したアルファードは後部座席に座っていたしずかちゃんを横倒しにして、駐車場を飛び出した。
ミラー越しに、駐車場に取り残された根尾と院長の姿が見えたが、いきなり走り出した車に驚いたのか、二人はただ立ち竦んでいた。
逃げるなら今の内に距離を稼いでおかなければ。
根尾が、まず自分の車のキーとノートパソコンを取りに部屋まで戻ることを、俺は想定していた。
せっかく人の体に埋め込んだマイクロチップをヤツが使わない筈はない。
それを目印にヤツラはすぐに追いかけてくるだろう。
捕まる前に、この街を出てウサギを解放しなければ。
「き、岸上くん? どういうこと!? どうしてここにいるんですか!?」
運転席のシートにしがみ付きながら、しずかちゃんが俺の背中に悲鳴のような声で叫んだ。
ミラーでチラリと見ると、不安を隠せない顔のしずかちゃんと目が合った。
結果的に俺は彼女も裏切った事になるんだ。
でも、その時、俺には新たなる覚悟ができていた。
この計画を終わらせ、根尾の奥さんもしずかちゃんの娘も助かって、ウサギも解放する唯一の方法を、俺は実行しようとしていた。
「ごめん、しずかちゃん。俺はやっぱりできない。今からこのウサギを街中まで連れて行って解放する。その時、しずかちゃんも一緒に降りてもらう」
「ど、どうして? 今更、急に怖くなったの?」
しずかちゃんは責めるような口振りで問いかける。
無理もない。
いきなり初回で俺がリタイアしたら、今までの準備も苦労も水の泡だ。
それについては、俺は素直に悪いと思った。
「・・・謝るよ。俺が甘かった。でも、怖くなったのは殺す事だけじゃないんだ。殺された人間の臓器を移植される詩織ちゃんが可哀相だと思ったのと、あとは、しずかちゃんと根尾さんに犯罪者になって欲しくないんだ」
俺の言葉にしずかちゃんは黙り込んだ。
自分の気持ちを伝えるのは苦手だったけど、俺は彼女だけには理解して欲しくて懸命に言葉を探した。
「・・・根尾さんにね、俺にはあなたたちの気持ちは分からないって言われたんだ。自分を提供するほど大切な人間がいないからだって。でも、俺ね、大切な人いたんだよ。しずかちゃんと根尾さんの為なら、俺はどうなってもいいくらい、二人が大切なんだ」
「何言ってるの?」
しずかちゃんの声が少し高くなった。
今すぐ彼女の細い体を抱き締めたい衝動に駆られながら、俺はハンドルを握り締める。
「・・・しずかちゃんが娘の為に殺人までできるように、俺もしずかちゃんの為に、どんなことをしてもこの計画を止める。詩織ちゃんを残して刑務所入りたくないだろ?」
「そ、そんなこと、とっくに考えてます!そのくらいの覚悟があったから私達は始めたのよ!」
「でも、詩織ちゃんは望んでない。俺だって、しずかちゃんが手を汚すくらいなら、目なんか要らないよ」
ミラー越しに見るしずかちゃんは激昂して、既に泣き顔になっていた。
女の涙に弱い俺の胸がギュっと締め付けられる。
「じゃ、じゃあ、あの子がこのまま弱って死ぬのを待ってろって言うの? 私は弱っていくあの子をもう見ていられないから、この方法を選んだのよ! あなたに私の気持ちが分かるの?」
「・・・だからさ、詩織ちゃんには俺の使ってよ」
「え?」
車は、朝来る時に通った畑の一本道をひた走っている。
あと、15分も走れば住宅地に出る筈だ。
しずかちゃんが乗ってきたことは誤算だったが、こうなって寧ろ都合が良くなった。
俺は軽く深呼吸して、話を続けた。
「これから住宅地に出たら、最初に見つけた交番にしずかちゃんとウサギさんを置いていくよ。
そこで、自殺サイトに応募したら主催者の死神っていう男にクスリ飲まされて、強姦されかけて逃げてきたって言って欲しい。今回のウサギの誘拐は俺の単独犯行にして欲しいんだ。勿論、根尾も楽園会も関係ない。名古屋在住の岸上っていうフリーターが、自殺サイトで女を釣ってヤろうとしてた。
それだけのことだ」
「一人で罪を被るつもり? その後、あなたはどうするの?」
本気で心配してくれてるしずかちゃんがミラーに映って、思わず表情が緩んでしまう。
この人に会えて本当に良かった。
愛してもらえて良かった。
そう思って、俺の胸が少し温かくなった。
「俺の体にね、マイクロチップが入ってるんだ。根尾さんは俺がどこにいてもすぐに駆けつけてくれる筈だ。だから心配しなくていいよ。万が一、行方が分からなくなっても、腕に刺青のある死体が俺だ。探しやすいだろ?」
的を得ない俺の回答に、しずかちゃんは半ばパニックになってヒステリックに叫んだ。
「意味が分からない!何なの?マイクロチップって・・・岸上君、何するつもりなの?ちゃんと説明して!」
俺の計画を今、彼女に言うべきかどうか分からなくて、俺は唇を噛んだ。
その間に、彼女は細い体を利用してサイドブレーキを跨いで乗り越え、助手席に乗り移ってきた。
勢いのまま俺の腕にしがみ付いてきて、文字通りハンドルを取られた俺は慌てて急ブレーキをかける。
アルファードは農道に頭を突っ込んで急停車した。
「・・・っぶねえなあ!横転したらどうするんだよ!」
「構いません! 私だって今更、自分が死ぬことなんて怖くありません。だから、話して下さい」
思わず怒鳴った俺に、しずかちゃんは動じもせず、真っ直ぐな瞳で俺を見つめ返した。
敵わないな、この人には。
仕方ない。
惚れた弱みだ。
俺は苦笑して、サイドブレーキを引いた。
「根尾さんは、浜辺で死んだばっかりの刺青のある死体を見つけることになる。そいつは自殺サイトの管理人で強姦未遂で逃走中の犯罪者だ。B型だから、すぐに病院に運んで検査して欲しい。うまく適合したら詩織ちゃんと瑞穂さんに移植して。これで事件は解決、計画は成功、全てが丸く収まる筈だ」
これが俺にできる最良の方法だと思われた。
そこまで言った途端、しずかちゃんの両腕が俺の首に巻きつき、彼女の柔らかい唇で次の言葉が遮られた。