奪回 2
ウサギがゴロンとこっちを向いて倒れているのを、俺は半分空いた襖から見ていた。
閉じかけてた目がこっちを確かに見てて、視線が合ったような気がした。
幸い、他のメンバーからは俺の位置は死角になっていて、まだ気付かれていない。
俺は襖に身を隠しながら、中の様子を伺った。
ひっくり返っているウサギが真っ赤な顔をしている所を見ると、アルコールの中にクスリを混ぜたに違いない。
人道的モラルの全くない根尾らしい手段だ。
攻撃仕様の改造スタンガンやら、罪人用マイクロチップやら、医者とは思えないコレクションの数々を身をもって体験した俺には何の不思議もなかった。
根尾ってそういうヤツだ。
そこが俺は結構好きだったんだけど。
やがて、根尾の声が襖の向こうから聞こえてきて、俺は慌てて耳をそばだてる。
「院長、これで彼女は明日まで昏睡状態です。このまま病棟に搬入して適合検査をします。いい結果であったら、そのまま瑞穂の手術に入りますので」
「分かった。だが、このまま運ぶ訳にはいかないだろう。病棟まで運ぶのに担架を持ってこないと・・・」
「確か、非常用担架が非常口付近に常備されてる筈ですよ」
「じゃ、そこから始めよう。やれやれ、岸上君がいればな・・・彼、案外肉体労働者なんだよ。運ぶの手伝って貰いたかったな」
「・・・岸上君はもう来ないんですか?」
「今日はね。彼にも同じ睡眠薬を打っておいたから、多分、明日までダウンしてる筈だ・・・」
襖の向こうでヤツラが立ち上がる気配を感じて、俺は慌ててレストランを飛び出した。
さっきの会話によると、ウサギはまだ死んではいない。
根尾はやっぱり、生きたまま移植に踏み切るつもりだ。
自殺するまで待つなんて器用なマネ、せっかちな根尾にできるわけない。
そうでなくても、ヤツの奥さんの命のタイムリミットは刻一刻と迫っている。
悠長なことをしている余裕は無い筈だ。
体は大分動くようになってきたものの、そうなると今度は今まで感じなかった痛みが全身に広がり始めた。
特に脱臼して無理矢理嵌め直した腕の関節は、歩く度にグラグラして力が入らない。
最初のパンチを食らった顔の左半分も熱を持ち始めて、見えない左目と合わせて四谷怪談みたいになってるに違いない。
俺はヤツラに気付かれないように、敢えて非常階段でフロントのある一階まで歩いて昇って行った。
だだっ広いホテルのロビーには人っ子一人いなかった。
いつもフロントで澄ましている女も人払いされているのか、姿が見えない。
ガランとしたロビーを俺は足早に抜けて、ホテルの外に出た。
外は既に真っ暗で、出た途端に潮の香りが鼻をつく。
海鳴りが遠くで響いて、満点の星空が広がっている。
いい夜だ。
俺の人生最期の思い出を作るのには申し分ないシチュエーションに思えた。
ホテルのエントランスを囲むように南国系の樹木とツツジが等間隔に植えられている花壇があって、俺はその茂みに身を隠して座り込んだ。
あいつら、絶対、ウサギを担架に乗せてここまでやってくる。
チャンスはそこしかない。
俺は祈るような気持ちで、星が瞬く空を見上げた。
◇◇◇◇
どのくらい待っただろうか。
長かったような、短かったような。
時計を持ってなかったので実際には分からないが、体中負傷している俺には長い時間に思えた。
しゃがみ込んだ姿勢にも疲れてきた頃、ホテルの中から人が歩いてくる気配がした。
先頭を歩く根尾の姿がエントランスに見えた時、俺は息をひそめて茂みの中で体を丸めた。
根尾が先頭で、その後ろを担架の反対側を支える小笠原院長が続く。
下方にボコっと膨らんだ担架の中身は横たわっているウサギに間違いない。
その担架に付き添うように、しずかちゃんが並んで歩いていく。
奇妙な行列が俺の目の前を過ぎる時、ヤツラの話し声が聞こえた。
「このまま、病院まで歩きましょう。アルファードのキーは、部屋で寝てる岸上君が持ってるんですよ」
「キーなら私がスペアを持っている。ここから病棟まで500mはあるだろう。結構、窓から外を見ている入院患者は多いんだ。見られるとまずい事になる。車で運ぶぞ」
「さすが、院長!じゃ、そうしましょう。僕は、肉体労働に向いていませんしね」
根尾がヘラヘラ笑いながら調子のいい事を言ってるのが聞こえて、俺は呆れた。
さっきは、体育会系だって言ってたクセに。
だが、俺に追い風が吹いてきたのは間違いない。
俺は、担架を御神輿みたいに運んでいく三人の後について歩き出した。
アルファードは朝、俺が止めたのと同じ位置で止まっていた。
ヤツラは後部座席を開けて、ウサギを押し込もうと三人で担ぎ上げている。
俺はその間に、運転席側の車の陰に身を潜めた。
三人とも慣れない仕事でテンパッているに違いない。
ウサギの搬入に集中するあまり、車の反対側にまで気が回らないんだろう。
やがて、三人はウサギを二列目座席に寝かすことに成功した。
そこに付き添うように、しずかちゃんが車に乗り込む。
根尾が運転して、院長が助手席に座るつもりだったんだろう。
しずかちゃんが乗ったところで、根尾は後部座席のドアをゆっくり閉めた。
俺が待っていたのはこの瞬間だった。
後部座席のドアが閉まると同時に、俺は渾身の力で運転席のドアを開けて素早く飛び乗る。
ハンドルを握り締め、既に手に用意していたキーを差込み反転させると、アクセルを思いっきり踏み込んだ。