奪回 1
◇◇◇◇
夢を見ていた。
俺は名古屋の実家にいた。
夕方目覚めて、暗くなってからノロノロと出勤する俺を母親がチラリと横目で睨んで溜息をつく。
親父は新聞で顔を隠して、こっちを振り向きもしない。
入れ違いに里帰りしていた弟が、明るい顔で玄関から入ってくる。
ただいま~なんて、デカイ声出しやがって。
呼ばれても返事もしない長男と、対照的すぎるだろ。
一緒についてきた彼女が俺を見て、恐々会釈する。
出て行く俺の背中に、弟と彼女を囲んで母親の笑い声が響いてくる。
何に不自由してた訳でもなく、虐待されてきた訳でもない。
それなりに親としての勤めは果たしてくれた。
でも、いつも俺はとてつもなく孤独だっだ。
家を出た俺の前に一本の道があった。
道の反対側の家から、俺と同じように出てきた女がいる。
冴えない顔で溜息をつきながら、背中を丸めてノロノロ歩いてくる。
ああ、こいつも居場所がないんだな。
何故か俺はその女を知っている。
なんだっけ。
この女の名前・・・。
俺はすごく大事なことをしなければならない筈だったのに・・・・。
不思議な事に俺はそこで目覚めた。
薄目を開いて、しばらくぼんやり天井を眺めていたが、思考回路が働かない。
真っ暗になった部屋のベッドで、俺は素っ裸のまま眠っていたようだ。
体が異常に重くて、起き上がろうにも手足がまず動かなかった。
手が動かないのは両腕を縛り上げているネクタイのせいだったことはすぐに気が付いた。
落ち着け・・・。
思い出せ、俺。
俺にはするべき事があった筈だ。
靄のかかった頭から必死で記憶の断片をかき集めようと、俺は試みていた。
両手を拘束しているネクタイの結び目を歯を使って緩めると、意外にもあっさり解けた。
体を起こそうと、自由になった右手をマットについた時、すごい激痛が走って、俺は再びベッドに崩れ落ちる。
力が入らないところを見ると、肘が脱臼しているらしい。
左手で支えながら、肘から下を何度か上下させて、やっと定位置に戻した。
靭帯が伸びてるかもしれないが、取り合えず、これで動くことはできる。
幸か不幸か、この激痛のお陰で、俺の頭は急激に働き始めた。
それと同時に襲ってくる酷い頭痛と吐き気に、俺は我慢できなくなり、よろめきながらベッドを下りて洗面所に向った。
とにかく頭が痛い。
動く度に吐き気を伴う強烈な痛みに、俺は何度も洗面所のシンクに向って嘔吐を続けた。
胃の中の物が殆んど外に出て、胃液が出始めた頃、俺の頭の中を覆っていた靄が少しづつ晴れていった。
水道の水で顔と口を洗い、手ですくいながらその水を飲むと、空っぽになった胃の中に冷たい水がどんどん流れ込んでくる。
体の中から、やっと薬が抜けたのを感じた。
・・・俺は根尾に殴られて、マイクロチップと一緒に薬を打たれて、ここに放置されて・・。
そうだ、ヤツを止めなければ・・・!
やっと、大事な事を思い出して、俺は時計を見た。
既に8時になっている。
確か、レストランに集合は7時だった筈だ。
下手すりゃ、処刑は執行されてるかもしれない。
俺は真っ青になって、洗面所をよろめきながら後にした。
いくらなんでも裸で出て行く訳にはいかなくて、まず、部屋の隅に纏めて放置したあった俺のスポーツバッグのもとに行く。
少ない俺の手荷物の中から、下着とTシャツとジーンズを引っ張り出して、脱臼した腕を庇いながら、できる限り慌てて着込んだ。
部屋を出る前に、俺はキッチンに入って木製の鞘のついた果物ナイフを拝借した。
根尾と直接対決になった時、素手では敵わない事は思い知らされたし、第一、あのスタンガンを携帯されたら俺に勝ち目はない。
このくらいのハンデは認めてもらってもいいだろう。
そして、まだ床に散らばっている俺の海で濡れた服。
ポケットの中をさばくってみると、濡れたタバコの箱と一緒に、朝、運転してきたアルファードのキーがそのまま入っている。
これは必ず必要になるだろう。
思いがけない幸運に、俺は少し自信を持った。
神様がウサギを助ける為に応援してくれているに違いない。
何としても根尾を止める。
気合を入れるため、俺は深呼吸してから部屋を出た。
◇◇◇◇
エレベーターで地下一階まで一気に下降して、ドアが開くと同時に外に飛び出した。
自分では飛び出したつもりだったけど、まだ薬の副作用が残る体はコントロールできなくて、実際にはよろめきながら転がるようにエレベーターから降りた。
俺も集合する予定だった純和風のレストランに辿り着いた時、中から根尾の声が聞こえた。
かなりボリュームの上がった声の調子で、アイツがアルコールに手を出したんだとすぐ分かる。
「いいじゃない?最期に若いもの同士、いい思い出作ってから逝くのも。彼は来るもの拒まずな感じに見えるけど?」
・・・何だと?
来るものは拒まないけど、テキトーなこと言いやがって。
俺がいないと思って言いたい放題言ってる根尾に、カチンときた。
そこにテンションの上がったウサギの声が響いてくる。
「な、何の話ですか!私はそんなに軽い女じゃありません!」
「ハハハ・・・かわいいな、ウサギさん。あなたに誘われたら、死神クン大喜びですよ。彼、案外イケメンなんだよ」
・・・案外って言ったな、あのやろう・・・。
誘われたら大喜びって、飢えた非モテ男扱いしやがって。
何気に悪口を言われているのはともかく、ウサギがまだ絶好調で飲み会を楽しんでるのが聞き取れて、俺はほっとした。
きっと、これから車で練炭自殺に誘導するに違いない。
先回りして、駐車場で待ち伏せした方がチャンスがある。
そう思った俺がくるりと方向転換した時、再び根尾の声がした。
「ウサギさん・・・ウサギさん・・・?」
問いかける根尾の声にウサギの返答はなかった。
事態が急変したのを察知して、俺はレストランの中に飛び込んだ。
そこには真っ赤な顔で、薄目をゆっくり閉じていくウサギが横たわっていた。