反逆 1
グッショリ濡れたTシャツを再び被って、俺はウサギと一緒にホテルのロビーに入った。
フロントのいつもの女が濡れ鼠になった俺を露骨に嫌な顔で睨んでいる。
気が付いたら、俺の歩いた後には点々と水溜りができていて、誰か掃除するのか考えたらちょっと気の毒な状況だ。
男と一緒にホテルに入るのを見られるのが恥ずかしいのか、ウサギはノロノロついていく俺を振り返りもせず、エレベーターに向って突進していく。
フロントの女がこちらをじっと見ているのが、気になって仕方ないんだろう。
ラブホじゃないんだから、気にしなくてもいいのに。
でも、これがこのウサギの生真面目さなんだろうと思うと、俺はまた可笑しくなった。
エレベーターが三階に来た所で、俺達は降りた。
ウサギはキョロキョロ辺りを見回しながら、部屋に向って歩いていく。
俺もその後を、濡れた靴でベタベタ足音を立てながらついて行った。
半ば、強引に部屋まで押しかける事になったものの、何をするという訳でもない。
強いて言えば、このウサギの意志を確かめたかったのだ。
もし、こいつがはっきりと「死にたくない」って言ったら、俺は行動に移すつもりだった。
それは、根尾にとっては「反逆」になる行為になるのは勿論、自覚していた。
ウサギが部屋のドアを開けるや否や、俺は中に飛び込み、クローゼットを勝手に開けると、浴衣を引っ張り出してバスルームに直行した。
このホテルに滞在期間の長い俺は、内部の構造をあらかた理解していた。
尤も、宿泊しているのはスイートで、一般の部屋とは違ったけど、基本構造は似たようなものだ。
シャワーを浴びて、勝手に拝借した浴衣で部屋に出てみると、ウサギはソファにもたれてボンヤリと海を眺めていた。
昔のことを考えて、たそがれてる顔だ。
濡れた頭をガシガシ拭いていると、俺に気が付いた彼女が振り返った。
目が合った途端に慌てて視線を逸らしたのを見て、俺は先に言ってやる。
「怖いモノ見たさだろ? 見たけりゃ見れば?」
意地悪のつもりで言ったセリフだったのに、ウサギは本当にまじまじと俺を見つめた。
その真剣な表情に、言った俺の方が恥ずかしくなる。
黒目勝ちな瞳で真っ直ぐに見つめるウサギは、案外かわいくて、俺は少し動揺した。
照れ隠しに、彼女の座ってる反対側のソファに腰を下ろすと、俺はこれからの予定を聞いてみた。
何にもしなさそうなのは、分かっていたけどリップサービスだ。
「・・・何もしないよ。ここで海見てる。他の人たちも自分の部屋に篭っちゃったんでしょ?なんか、集団で来た意味がなかったわ」
案の定、つまらなさそうにウサギは溜息交じりに言った。
・・・なるほど。
集団自殺に団結力を求めてるのか。
次回があったら、これは参考にするべきだ。
皆が引き篭ったら、志願者がつまらなくて帰ってしまう可能性は高いってことだ。
今後の参考に、俺はもう一つ、個人的に疑問を持っていることを聞いてみる。
「・・・そうだね。どうして一人で死ななかったの?」
俺の問いかけに、彼女は少し黙って考え込んだ。
しばしの沈黙の後、ゆっくり口を開いた。
まるで、自分でも今、気付いたかのように。
「死んだ事ないから自殺するのが怖かった、と思う。きっと、私と同じ思いの人が一緒にいれば、心強いと思って・・・。でも、ちょっと後悔してる。これから死ぬ人たちと今更仲良くなったって、意味がないことに気が付いた」
「・・・そう。でも、ちょっと遅かったね」
「・・・遅いよね。」
「そうだね。生きたくなった?」
俺は最後の質問をしてから、ウサギの答えを待った。
こいつの口から、直接聞きたかった。
一言だけ、『生きたい』って。
俺が根尾の信頼を裏切る価値があるのかどうか、彼女の口からその言葉を聞きたかった。
ウサギは黙ったまま、返事をしない。
生きたいけど、彼女には生きて帰る場所がないんだろう。
だからと言って死ぬのはあまりにも短絡的だ。
でも、俺の口からそこまでは、この時点では言う訳にはいかなかった。
「・・・夕食は7時から地下のレストランで。時間厳守でお願いしますね、うさぎさん」
黙ったまま俯いてるウサギに、俺はそれだけ言うとソファから立ち上がった。
どうして一言、生きたいって言えねえんだよ・・・!
苛立ちを隠せなかった俺は、その時、冷たい言い方をしていたに違いない。
濡れた自分の服をかき集めて、俺はドアに手をかける。
ウサギはすがる様な目で、部屋を出て行く俺を見つめていた。
◇◇◇◇
ウサギの部屋から拝借した浴衣姿のまま、俺はバタバタと最上階へ向った。
そこには根尾が待機している筈だ。
新しい部屋の鍵を渡したのは、ウサギと院長としずかちゃんだけで、根尾にはいつものスイートルームの鍵を渡していたのだ。
万が一、ウサギが長期滞在しているスイートの存在に気が付いたらマズイって俺は反対したけど、根尾は準備するものがあると言って、どうしても自宅兼のスイートに戻りたがったのだ。
今となっては、着替えを取りに帰れるという特典があったので、認めざるを得ないけど。
今朝、根尾と連れ立って出てきたスイートルームの前で、俺はインターホンを押した。
「開いてるよ」
中から根尾の声がしたのを確認して、俺はドアをそっと開ける。
海が見える窓際のテラスに設置してあるソファとテーブル。
いつもはしずかちゃんの特等席のその場所で、根尾は銀色のケースに入った医療器具を出したり仕舞ったりしている所だった。
ビンに入った怪しげな液体は、俺には毒薬としか思えない。
この人はもう後戻りするつもりはないんだ。
いつもと同じ飄々とした顔で注射針なんかをチェックしている根尾に、俺は背筋が寒くなった。
俺がこれからしようとしている事に対しての疾しさが、寒気に拍車をかけていることは自覚していた。
俺が浴衣姿で、バカみたいにドアの前で突っ立てるのを見て、根尾は眼鏡の奥の目を細めた。
いつもと同じ、呑気な根尾に見えた。
ヤツはニヤっと笑って、俺の全身を嘗め回すように見つめる。
何を勘違いしたのかは、俺にもすぐに分かった。
「最後の思い出を作ってあげたのか、死神クン?」
「・・・言うと思った。でも、違うよ。海で服濡らしたから、浴衣借りただけだ」
「・・・ふーん。でも、結構、親密になってるじゃないか。まんざらでもないんだろう?」
「・・・よせよ、バカバカしい」
一応、反論はしたけど、根尾はニヤニヤしながら俺を眺めている。
俺が何か言いたげなのを、察知しているに違いない。
いや、根尾が何かを言いたいのか・・・。
常識外れのクセに妙に察しがいい男だ。
こいつに隠し立てはできない事が分かっていた俺は、観念して両手を上げた。
根尾も、俺に応えるかのように手に持っていた器具をケースに戻すと、腕を組んで俺を見据えた。
彫りの深い顔立ちに緑がかった瞳が、今、まっすぐ俺を見つめている。
スラリとした立ち姿の根尾が正面から俺を見ると、ちょうど視線が同じ位置でぶつかる。
気迫負けしそうで、俺の心臓がバクバク音を立て始めた。
こいつをこんなに怖いと思ったのは、初めてだ。
しばらく睨みあった後、俺は意を決して口を開いた。
「根尾さん、あの子はダメだ。俺はあの子を殺したくない・・・!」