覚悟 2
この前入った、詩織ちゃんの病室とは格段に大きさの違う部屋だった。
その部屋の中央に設置されたベッドに体中にチューブを張り巡らされた少女が眠っていた。
先日見たしずかちゃんの娘が8歳だった。
今ここで眠っている根尾の妻は、贔屓目に見ても小学校高学年だ。
ロリコンにもほどがあるんじゃないか。
俺は固まったまま、ベッドの少女と背後にいる根尾を振り返って見比べた。
根尾の本当の年齢は聞いてないけど、どう見ても30代後半か、ヘタすりゃ40代だ。
本当にこの子と結婚してるんだろうか。
「若い奥さんで羨ましいだろ?岸上君。紹介するよ、妻の根尾瑞希。若く見えるけど、心臓の病気で成長してないんだ。長いこと寝たきりだしね。これでも16歳だよ。もう結婚できる年齢だから犯罪じゃないって」
俺はポカンと口を開けた。
まだ16、だろ?
確かに16歳なら法律上は結婚できるだろうけど、そういう問題ではない。
俺の表情から何を言わんとしているのか分かったようで、根尾は笑った。
「彼女が10歳の時、僕は名古屋の楽園会グループの病院で入院していた彼女の担当医になったんだよ。
その頃は、まだ起きてる時間も長かった。けなげに一生懸命、機能しない心臓で生きてきたんだよ。
僕にとっては娘みたいだったけど、不完全な彼女があんまり綺麗だったからね。
彼女にお嫁さんになりたいって言われた時、いいよって言って籍入れたんだよ。
僕は女性とは結婚できないって最初は断わったんだけど、だったら尚更、籍くらいはこの子にあげようって思ってね。
見て分かるだろうけど、籍を入れたところで何が変る訳じゃない。彼女はここから出れないし、一緒に暮らす時間もない。移植できなければ、もう長くないんだ」
根尾はベッドに近づき、彼女の髪を撫でた。
人形のように硬いその顔は青白くて、申し訳ないけど、俺には生きてるかどうかの区別もつかなかった。
その頬を根尾は愛しげに触る。
頬に触れ、唇に触れながら、彼の表情が急に引き締まった。
「この子を初めて診た時から、僕は絶対に治してやるって約束したんだ。必ず治すよ。でも、タイムリミットは近いんだ。だから、僕はどうしてもドナーが欲しい・・・一日も早く・・・!」
根尾の本気の顔を、その時、初めて見た。
生死を彷徨うこの少女と全身で向き合ってきた根尾には、男女の愛なんて甘いモンじゃない、ずっと確固で切実な愛情があるに違いない。
なんだか、俺は自分が恥ずかしくなってきた。
この計画に対して俺だけ何となく他人事みたいで覚悟がないのは、俺が欲しいのは自分自身のパーツだからに違いない。
根尾もしずかちゃんも、覚悟は自分の為ではなく、愛する人の為なんだ。
しかも二人には時間制限がある。
早くしなければ、大事な人を失ってしまう。
俺にも時間制限はないわけじゃないけど、失明するのは俺だけだ。
誰かの為じゃない。
きっと人間って、誰かを守ろうと思う時のみ最大の力を発揮できるんだろう。
残念ながら、今までの人生で俺は守ってやるべき人間には巡り会えなかった。
ちょっと寂しいけど。
「根尾君、入るよ」
ドアの方から低い渋めの声が聞こえて、俺はギクっとして振り向いた。
そこには根尾と同じように医者の白衣を纏った、還暦くらいの恰幅のいい男性が現われた。
角ばった顔に刻まれた皺が人生経験の豊富さを示しているかのような、硬い表情。
明らかに俺とは別の人種で、俺も一瞬身構えた。
根尾はベッドから離れて、ゆっくり突っ立っている俺の横にきた。
「院長先生、彼が、話をしました協力者です。三ヶ月のモニタリングのアルバイトで、信頼できる人物なのは立証済みです。岸上君、この方はこの楽園会グループの創立者で小笠原院長先生だ。そして、彼女の実のお父さんで、つまり僕の義理のお父さん。ベテラン外科医でもあるんだ」
「あ、初めまして。岸上といいます」
根尾に肘で突っつかれ、俺はしどろもどろに名乗った。
ダンディな根尾の舅は、恰幅のいい、堂々としたその姿からは百戦錬磨の創立者のオーラが出まくっている。
この人には敵わないと、俺は野生の勘で察知した。
「ああ、君が岸上君か。初めまして、だな。私はここの院長で、彼女の父親だ。私達が何をしようとしてるかは、分かってるだろうな? 娘の為に君はリスクを犯してくれるのか?」
低いドスの利いた声で、小笠原院長は俺のことを眉間に更に深い皺を寄せて睨んだ。
その横柄な口の利き方に、俺も無意識に眉間に皺を寄せる。
嫌な圧迫感だ。
間違いなく、俺は信用されてない。
ボサボサの長髪に真っ黒いTシャツにジーンズの今の俺は、多分、ニートにしか見えないだろうから無理もないけど。
「悪いけど、あなたの娘さんの為じゃないです。俺は目を治してくれるって言われて乗ったんですよ」
ゴタゴタ言い訳しても逆効果だろうから、俺は本音を言って髪を掻きあげてみせた。
ビー玉みたいな白い左目が顕わになったのに、さすがは外科医だ。
小笠原は顔色一つ変えずに、俺に近づいてきた。
俺より身長が低い為、小笠原は俺を見上げて左目を観察する。
そして、ああ・・・、と納得したように呟いて、俺に右手を差し出した。
「君の目は角膜さえあれば治るかもしれない。私が執刀してもいい。そういう事ならお互い同じ目的を持った同志と言うわけだ。私もこの計画には協力を惜しまない。だから君も娘の分まで協力してくれ。頼む」
俺の右手を握った手は力強く、娘を助けようとする父親の涙が目に溢れた。
ああ、この人も・・・。
大事な人のために、何でもする覚悟だ。
そんな相手がいない俺は少し羨ましく、少し自分が寂しくなったけど、この人たちの為に俺は何でもやろうと思った。
彼らに比べたら、ちっぽけな覚悟だったけど。
とにもかくにも、この日、役者は揃った。
娘の詩織ちゃんの為に肺が欲しいしずかちゃん。
妻の瑞希さんの為に心臓が欲しい根尾に、その父親で院長の小笠原。
そして、角膜が必要な俺。
この時を待っていたかのように、事態はこの日の夜から急展開していった。