経緯 2
その病院は「医療法人 楽園会グループ」に属する総合病院だった。
その名も「楽園会病院」。
病院に「楽園」とはシャレにもならない、悪趣味なセンスだ。
初めて聞いた時、俺は思わず吹き出したけど、この病院の成り立ちを聞いてから納得した。
高齢化社会の到来を予見していた貧乏な町医者が、いち早く老人ホームやらグループホームやら、所謂老人産業に手を出して、大きくグループ化したのが始まりらしい。
今では本業の総合病院の他に、老人向け施設やヘルパー派遣、デイサービス、リゾートホテルまで経営してるって言うマルチぶりだ。
その原点となった最初の老人施設の名前が「楽園」だったらしい。
余生を静かに過ごす年寄り達が集まる場所としては、これ以上相応しい名前はないだろう。
とにもかくにも、俺はその楽園会病院で、3ヶ月のモニタリングのバイトをする事になった。
もちろん、人体に影響のある薬の人体実験だったら絶対断わる。
俺だって、人生投げてるとは言え、死にたい訳じゃない。
サプリメントを毎日飲んで、ごろごろしてるだけだから、と言われて、やっと応じた。
だが、それは本当に退屈なバイトだった。
何しろ、外気に触れてはいけないので、隔離された病棟の中から出して貰えないのだ。
シャバに出て風邪でも引かれたら、サプリメントのモニタリングにならないからと言われ、俺は承諾するしかなかった。
病棟には当然、売店も本屋もなかった。
必要なものがあれば看護婦に言えば調達してきてくれるんだけど、まさかエロ本買ってきてくれなんて言えないだろう。
ゲームの類はモニタリングに影響を与えるという理由で禁止されていた。
俺を毎日測定する看護婦が身の回りのことも相談に乗ってくれるんだけど、そいつが美人なのに堅物で俺はどうも苦手だった。
「これから三ヶ月、あなたの身体検査と生活のケアを担当します皆本静香です。宜しくお願いします」
サラサラの黒髪のボブが細面の白い顔によく似合っているその看護婦は、俺相手に頭をペコっと下げて堅っ苦しい挨拶をした。
生真面目で仕事ができる看護婦なのは、見ただけでよく分かった。
でも、こいつに「エロ本買ってきて」なんて言える男がいるだろうか。
真面目な顔で「どんなジャンルが希望ですか?」って聞き返されるかもしれない。
しょうがないから、俺は無難に巷で流行りの海賊マンガ全巻を所望した。
60冊くらい出てるこのマンガを全部読み終わる頃には、三ヶ月も終わってる筈だ。
朝、起きて食事をしてから、指定された薬を飲み、入社試験に提出する程度の身体検査をする。
昼飯の後、軽い運動。
夕食後に再び指定された薬を飲んで、もう一度身体検査。
これだけで俺の一日は終わる。
後は自由時間なんだから、暇でしょうがない。
この手のバイトがこんなに苦痛だとは思わなかった。
話し相手はこの生真面目看護婦しずかちゃんと、担当医だけだった。
◇◇◇◇
「君、目が悪いんだね。不便じゃないの?」
医者らしく、開口一番にそいつは人が言いにくい事をズバっと聞いてきた。
普通の人は俺を直視しないように顔を背けるのに、そいつは好奇心丸出しで俺の顔を見つめてくる。
医者として、俺の白濁した左目に興味があるんだろう。
そのダイレクトな態度には、俺はむしろ好感を持った。
「子供の頃からこうなんで、慣れてます。生活には支障ありません」
「そりゃ、残念だね。支障があれば障害年金で楽に暮らせたのに」
そいつはニコニコしながら、医者にあるまじき暴言を吐いた。
目が見えてて残念だって言ったのはこいつが初めてだった。
普通の人間は、「まあ、片目だけでも見えてて良かったわね」なんて当たり障りのないことを言うのに。
でも、こいつの言った事こそ正論だった。
なまじ見えると、障害者として認定されないのだ。
認定されれば、いろいろな特典があることは知っていた。
弱者に優しいこの国にいる限り、俺には最低限の生活は保障される筈だった。
「残念ですよ。でも、自分ではどうすることもできない。治してくれますか?」
「無理だね。それ、治んないよ。移植でもすれば別だけど」
俺の切実な質問に、そいつは顔色も変えずサラっと言ってのけた。
患者の希望の芽を踏みにじりやがって・・・!
長年の希望をあっさり否定されて、俺は思わずムっとして舌打ちした。
「いいですよ、別に期待もしてませんから。治らないって分かってんなら、この目の事はほっといて下さい」
「・・・君、面白いね。君がもう一つバイトを掛け持ちしてくれるなら、治せないこともないんだけど」
俺の担当医、根尾正和はそう言って、銀縁メガネの奥の瞳をイタズラっぽく細めた。