迷い 1
裸でホテルのロビーに入る訳にもいかないので、死神さんはもう一度絞り直したTシャツに仕方なく袖を通した。
海水が滴り落ちるジーンズに、ベッタリ張り付いたTシャツが痛々しい。
「うあぁ・・・、気持ち悪・・・うわ、ワカメ付いてる!早くシャワー浴びよう・・・あ、タバコも濡れちゃった! あーあ・・・」
一人でブツブツ言っている彼を背に、私はホテルに向ってズンズン歩いていく。
自業自得だ。
子供みたいに彼は私の後をベッタンベッタン追いかけてくる。
朝見た暗闇のような不吉な死神は、今は影を潜めている。
この死神さんの不可解なキャラを私はまだ把握し兼ねていた。
己の身体、いや、人生さえとっくに捨ててる妙な潔さ。
人を小バカにするようなおちゃらけた態度の裏で、社会を敵だと思ってるみたいな、時々現われる毒舌と皮肉。
全てはこのガラスみたいな左目のせいなんだろうか。
白い眼帯は彼の隠された心の闇を覆っているようだった。
ロビーに入った私達は、レセプションの女性に露骨に嫌な顔をされながら、エレベーターに向った。
私の後ろには、海水をジーンズの裾からボタボタ滴らせている死神さんが突っ立っている。
彼が歩いた後には水溜りが点々と続いていて、レセプションの女性はそれを見て、白々しく溜息をついた。
さっき彼に渡された部屋の鍵は302号室だった。
エレベーターが三階に着いたところで、私達は降りた。
その時、私は妙な違和感を感じていた。
長らく会社勤めをしていない私でも、今日が日曜日だったことは覚えている。
いくら時代錯誤のリゾートホテルと言っても、週末にこんなに客がいないものだろうか。
ロビーに入った時から、従業員以外に客らしい人を見ないのだ。
ドアがずらりと並ぶホテルの廊下にはやはり人影は見当たらなかった。
本当に潰れかけてるんじゃないかしら・・・?
誰もいない廊下をキョロキョロ見回して、私は部屋に向って進んでいった。
後ろから、水に濡れた彼の足音がベッタンベッタンと聞こえてくる。
こんな男でも、一人じゃないのは心強い。
一人だったら、死ぬ前に逃げ出していたかもしれない。
死ぬ為に来たのに、その前に逃げるというのもおかしな話だけど。
302号室のドアを開けると、思ったより小奇麗なオーシャンビューの洋室が現われた。
ワンルームマンションみたいな部屋にはユニットバスに、かわいい薄いピンクのベッド、大きな花柄の カーテンの後ろは太平洋が広がっている。
ベッドが少し大きいのを見ると、ここは二人部屋みたいだ。
私は、濡れたジーンズから必死で足を引っ張り出している彼を振り返った。
どうして、人生最期の日にこんな素敵な部屋で、この人と一緒にいるのか・・・。
本当に人生分からない。
勝手知ったる仕草で、彼は造りつけのクローゼットを開くと、私の了承も得ずに、中に用意されていたバスタオルと浴衣を掴んで、ユニットバスに立て篭もった。
中からシャワーの水音が聞こえてきて、手持ちぶたさに私はソファに座った。
ポットに入っていた冷たい麦茶を飲みながら、ユニットバスから聞こえてくる水音に耳を傾ける。
何故か、昔の彼とラブホテルで過ごした夜のことを思い出した。
疲れた・・・。
そう言えば、今朝は早かったんだっけ・・・。
ソファにもたれて、私は束の間目を閉じた。
今頃、家ではいなくなった私を探して大騒ぎしてるかもしれない。
・・・いや、いないことに気付きもしないか。
弟夫婦とその子供達が押しかけて来てから、あの家には静寂というものが無くなっていた。
私の居場所も・・・。
ユニットバスのドアが開く音がして、浴衣姿の死神さんが、頭をタオルでガシガシ拭きながら出てきた。
濡れた髪の間から、眼帯を外した左目がチラチラ見えて、私は思わず目を逸らす。
子供の頃から、身体の不自由な人をジロジロ見ちゃいけませんって教育されてきた私は、彼の顔を直視するのがタブーに思えて仕方ない。
さっきのタトゥーだって、知らない人だったら絶対に見てないだろう。
人が気にしているであろう事には、視線を合わせないフリをする。
その程度には、私も大人だった。
気まずそうな私の表情に気が付いたのか、彼は意地悪そうにニヤリと笑った。
「怖いモノ見たさだろ? 見たけりゃ見てもいいよ?」
私の深層心理まで見抜かれそうなスモークガラスの左目に見つめられて、私の鼓動が早くなった。
まさか、本当に怖いモノ見たさだとは言えず、私は黙った。
上背のある死神さんの浴衣姿は案外にあっていてセクシーだ。
私は何故かどきどきしながら、許可の下りた左目を観察する。
一つ分かった事は、彼がとても怖い存在だという事。
見たくて堪らないのに見ちゃいけない、禁忌を散りばめた彼の身体に私の興味は尽きなかった。
こんな人は初めてだった。
突拍子もない彼の言動は、多分、私が生きている間には理解できないまま終わるんだろう。
時計は1時を指していた。
死亡推定時刻まで、あと9時間。
未練のなかったこの世界に心残りができそうな予感を感じて、私は言いようのない焦燥感に駆られた。