麗しの妻君への愛が、領地を揺るがす大混乱
「おい、聞いたか。最近、どうも雲行きが怪しいらしいぜ」
エールジョッキを傾けながら、中年の商人がひそひそ声を落として隣の男に語りかける。
「何がだよ。商売ならいつもカツカツだがね」
「いや、金の話じゃない。もっと根幹の……『ギルドカード』についての恐ろしい噂さ」
その一言に、周囲にいた数人の冒険者や商人たちがピクリと耳をそばだてた。
この街におけるギルドカードは、生活の生命線と言っても良い。冒険者ギルドと商業ギルドのカードは兼用されており、日常の微細な金銭のやり取りから大口の融資までが一つの魔導網で結ばれていた。片方の会員であっても手続きを踏めば双方の窓口が利用できる。
その利便性と堅牢さは絶対の信頼を勝ち得ていた。カードには所有者の血液が染み込ませてあり、深層の魔力を刻み込む生体認証が施されている。本人以外が使用することは不可能であり、これまで不正利用の影すら落ちたことがなかった。
だが、その絶対性がひそやかに軋み始めている。
「実はな、先週の話なんだが……」
商人はさらに声を潜め、周囲を威嚇するように視線を巡らせる。
「ある大口の商人が、商業ギルドの本部で商談のために全財産を下ろそうとしたんだ。そしたら窓口で、信じられない宣告を受けた。『お客様、口座の残高が足りません』ってな」
「は?残高不足?大口商人がか」
「そうだろ。揉めに揉めて、向こうも徹底的に調べ直したらしい。そしたらな……まったく別の場所、つまり『冒険者ギルド』の窓口で、身覚えのない少額の引き出しが、幾度も、幾度も、執拗に繰り返されていたってのさ」
ゴクリ、と誰かが乾いた生唾を飲み込む音がした。
(まさか、俺たちの全財産も……?)
若い冒険者が青ざめた顔で自分の胸元を探る。
「おい、冗談だろ。血液認証をすり抜ける『偽造カード』なんて、そんな御伽噺があるかよ」
「分からないさ。誰もが自分の財布の底を覗き込み、知らぬ間に誰かの掌の上で抜かれているとしたら……」
酒場の空気が、底冷えする夜気のように凍りついた。
誰もが自分の懐にある硬貨の重みを確かめ、隣にいる仲間の顔を疑わしげに見つめる。見えない悪意が街を侵食していくような、気味の悪い静寂が場を支配した。
不穏な毒は、乾燥した枯れ草に落ちた火種のように、瞬く間に街の深部へと燃え広がっていく。
そしてその時、冷たい夜の底で、両ギルドの重厚な扉の向こうに潜む影は、まだ静かに微笑んでいた。
「いい加減にしてくれ……!一体どこからそんな馬鹿げた話が出てくるんだ」
商業ギルドの応接室に、重苦しい怒号が響き渡る。
机を叩きつけたのは、支部長である初老の男だ。その目の前で、冒険者ギルドの支部長もまた、青白い顔でこめかみを押さえて深々とため息をついていた。
街を覆い尽くしたカード偽造と不正引き出しの狂騒は、瞬く間に両ギルドの経営基盤を抉り取る大問題へと発展していた。窓口には連日、不安に駆られた商人や冒険者たちが押し寄せ、全財産を今すぐ引き出すと気勢を荒らげている。
だが、徹底的な内部調査の結果は完全な事実無根だった。
「帳簿も、魔導端末のログも、カードの血認証システムもすべて洗った。だがね、システムエラーの痕跡すら一切ない。ましてや、他人の口座から勝手に金が抜かれたような事例など、過去一件たりとも存在しないんだ」
支部長が頭を抱えて呻く。
冒険者ギルドの男も、疲労の色を隠せない顔でそれに同意した。
「ああ、うちの窓口でもそうだ。少額の払い戻しが頻発しているなんて噂だが、そんな細工を誰が出来るって言うんだ、そんな奴なんていやしない。そもそも、カードの血液認証をどうやってすり抜けるってんだ。物理的にも魔導的にも不可能だと言っているのに……」
両ギルドは共同声明を出し、不正など存在しないと必死に訴え続けた。しかし、一度火がついた民衆の疑心暗鬼は、ギルドの釈明では鎮まらない。
「隠しているだけじゃないのか」
「自分たちの不手際を認めたくないんだろ」
群衆の陰鬱な声が、澱のように街を這い回る。
このままではギルドの信用が地に落ち、経済そのものが麻痺してしまう。追い詰められた幹部たちは、苦肉の策として一つのパフォーマンスを企画した。
翌日、街の中心にある大広場に特設の舞台が組まれた。
そこには最高位の魔導士たちに加え、街でも有名な一卵性の双子冒険者が立っている。
「皆様、ご覧ください!」
幹部がマイクの魔道具で声を張り上げる。
「当ギルドのカードは、本人の血液以外では絶対に反応いたしません。今から、この双子の兄のカードを、血の繋がった弟に無理やり使わせてみせます」
広場が静まり返る中、実験が開始された。
容姿も遺伝子も瓜二つの弟がカードを端末に差し込む。しかし、冷たい警告音が響き、端末はエラーを吐き出して絶対に受け付けない。血の一滴、魔力の波長に至るまで厳格に弾き返される様子が、群衆の目の前で克明に証明された。
「どうだ。これが我がギルドの誇る絶対のセキュリティだ!」
幹部たちはこれでようやく噂が鎮まると胸をなで下ろした。だが。
「おい、見たか」
「あんなの、あらかじめ仕組まれた芝居に決まってるだろ」
「本当のところは、もっと上の権力者だけが使える裏の仕組みがあるんじゃないのか」
民衆の反応は、期待を無残に裏切るものだった。
双子であっても騙せないという完璧な事実の提示は、かえってそれほど厳重なシステムをどうやってすり抜けたというのだというねじ曲がった陰謀論を加速させる燃料になってしまう。
パフォーマンスは完全に逆効果に終わり、火種はさらに燃え盛る。
もはや噂の釈明では事態を収められないと悟り、幹部たちは苦渋の決断を下した。
こうして両ギルドは、すべての元凶を直接突き止めるための、実態調査へと舵を切るのだった。
風評被害はもはや一地域の混乱にとどまらず、領全体の流通や経済活動を麻痺させかねない深刻な事態へと発展していた。窓口には長蛇の列ができ、商人たちは大きな取引を控え、冒険者たちは疑心暗鬼に駆られていがみ合っている。
「もう生半可な釈明では意味がない。この根も葉もない噂を生み出し、広めている元凶をあぶり出すぞ」
商業ギルドの支部長が血走った目を据え、机を叩いた。冒険者ギルドの幹部も深くうなずく。両ギルドは腹をくくり、総力を挙げた前代未聞の大捜査網を敷くことに決定した。
その規模は治安維持組織の範疇を優に超えていた。ギルド専属の情報分析官が総動員され、噂の出所を逆算して足取りを洗っていく。さらに裏社会に通じた情報屋が酒場や裏路地に放たれ、誰が最初にその話を漏らしたのかというバケツリレーを追いかけた。
それだけではない。事態の深刻さを重く見た領主直属の役人たちまでもが調査に加わる。領地の平穏を乱す不穏分子などあってはならない。役人たちは目の色を変え、街中に網を張った。
「目撃証言によると、最初の噂が囁かれたのは中央通りの大衆酒場……」
「いや、その前段階がある。具体的に広がるより前に、別の場所でそれが語られていた痕跡があるぞ」
情報が一点へと収束していく。調査官たちは複雑に絡み合った噂の糸を、執念で解きほぐしていった。すべての証拠が、まるでひとつの巨大な磁石に引き寄せられるかのように、同じ一点を指し示していく。
「ま、待て。おい、これはいったいどういうことだ」
調査の指揮を執っていた主任役人が、報告書の山を前に文字通り言葉を失った。
すべての調査線が交差していたのは、危険な闇組織のアジトでも、悪徳商会の隠れ家でもない。それはこの領地を統治する、最高権力者の住まい。ほかならぬ領主邸そのものだったのだ。
「領主様のお屋敷だと……そんな馬鹿な」
「あそこには屈強な衛兵と厳正な使用人しかいないはずだ。なぜ、あそこから噂が生まれたっていうんだ」
捜査に関わっていた全員がその場に凍りついた。
まさか、すべての黒幕が、あの実直で誠実な領主自身だったというのか。
冷や汗を流しながら、彼らは震える足取りで、すべての真実を暴くために領主邸へと向かうのだった。
すべての調査線が交差した末、両ギルドの幹部や役人たちがたどり着いたのは、やはり領主邸だった。
「おい、どういうことだ。すべての噂の足取りを逆算した結果、最初にその話を口外した元凶は、間違いなくこの屋敷に仕える人間の誰かだ」
商業ギルドの支部長が険しい顔で乗り込み、事情を知らされてポカンと目を丸くする邸内の使用人たちを応接間に集めさせた。
「皆のもの、聞いてくれ」
主任役人が声を張り上げる。
「現在、街でカードが偽造され不正に金が引き出されているという悪質なデマが蔓延し、大混乱が起きておる。我が身を挺して調べたところ、最初にその噂が囁かれたのは中央通りの大衆酒場だった。そこで酔客たちが『領主様の裏口座から金が引き出されている』と語り合っていたのだ」
役人の剣幕に、使用人たちは困惑の声を漏らす。
「そこで尋ねる。最近、その大衆酒場に足を運んだ者はいるか。あるいは、仕事帰りに領主様の私生活に関する話を口外した者はいないか。正直に名乗り出なさい」
その瞬間、集められた使用人たちのざわめきの中で、一人、ピクリと肩を跳ねさせた男がいた。
毎日のように仕事終わりにその酒場に通う使用人が。
男は顔を青ざめ、冷や汗を滝のように流しながら、おそるおそる手を挙げる。
「あ、あの……もしかして、それかも俺かもしれません……」
「なんだと。貴様なのか」
役人と幹部たちが一斉に詰め寄ると、使用人は恐怖のあまりその場に崩れ落ち、半泣きで弁明し始めた。
「ち、違うんです。悪気があって言ったわけじゃありません。ただ、仕事終わりに飲んだ時、『うちの領主様は相変わらず奥様にベタ惚れでさ』って、いつものノロケ話を酒の肴に喋っただけなんです」
そこからすべての真相が紐解かれていく。
【回想】
2週間ほど前
玄関先で、いつものように愛妻セレスティアに高価な宝石箱を渡し、デレデレと顔をほころばせるアルベルトの姿があった。
「こんな高価なものは控えて」
妻からとたしなめられたアルベルトは、満面の笑みでこう言い放つ。
「ハハハ、心配いらないさ。俺のカードにはね、君やリリアーナ専用の秘密の口座があるのさ。例えカードの表向きの残高が空っぽになっても、君たちのために際限なく、何度でも引き出せる。そう、俺の愛で満たされた専用のギルドがね」
もちろんそれは愛妻家ゆえの単なるノロケであり、そんなファンタジーなシステムなど実在しない。
その光景を目撃していた使用人は、その夜、酒場でグラスを傾けながら
「いやぁ、うちの旦那様は相変わらず奥様にベタ惚れでさ。『私のカードには君専用の愛の専用ギルドがあるのさ』なんてくすぐったいセリフを本気で言っちまうんだから参るぜ」
と笑い話として語っていたのだ。
しかし、その会話の断片を、隣の席で聞き耳を立てていた酔っ払いたちが勝手に聞きつけてしまった。
(な、なんだって……領主様のカードには秘密の裏口座があって、そこから際限なく金を引き出せる愛の専用ギルドが存在するだと……)
彼らは領主様が裏口座で秘密裏に金を動かしているに違いないと勝手に曲解し、翌朝それを面白半分に喋り散らしたことが、すべての元凶だったのだ。
回想が終わると、広間は絶望的に冷たい沈黙に包まれた。
「つまり……街を揺るがした大混乱のすべての元凶は、領主様の妻に対する盛大なノロケ発言を、酔っ払いが勝手に大陰謀として勘違いし、バラ撒いたことだったと……」
支部長がこめかみを引き攣らせる。
ちょうどその時、何事かと執務室から廊下に出てきたアルベルトの姿が視界に入った。
「おや、皆揃ってどうされたのだ」
穏やかに声をかけようとしたアルベルトだったが、異様な剣幕でこちらを睨みつける幹部たちの視線に気づき、ピタリと足を止める。
「領主様、懸案でしたギルドカードの件の原因が判明いたしました」
支部長がわなわなと震えながら歩み寄る。
「あなた様が2週間ほど前に仰った愛の専用ギルドがあるというお言葉……あれは、単なる奥様へのノロケで間違いありませんよな。まさか本当に、そんな特殊な裏口座が存在するわけでは……」
その言葉を聞いた瞬間、アルベルトの顔からスッと血の気が引いた。
(ま、待て……私が妻に言ったただの甘い愛の言葉が、巡り巡って街中の大混乱を引き起こしたというのか……)
「い、いや、あれはだな、その、愛の例え話というか……言葉の綾にすぎなくてだな……」
普段は凛とした辺境伯でありながら、愛妻家すぎる自分が大騒動の原因だったという現実に圧倒され、アルベルトは冷や汗を流しながら引き攣った笑顔でごまかすしかなかった。
かくして、街を揺るがした大混乱は、愛妻家すぎる領主の甘い言葉と酔っ払いの勝手な邪推という、誰もが脱力する真相をもって静かに幕を閉じてしまったのだった。
騒動の幕引きから数日後。領主邸の静寂は、以前とは少し違った、どこか重苦しさを含んだ空気に包まれている。
街を巻き込んだ大混乱の真相は、隠しようもなく妻であるセレスティア、そして娘のリリアーナの耳にも届くことになった。領主のノロケ話が発端となり、金融市場の均衡が揺らいだというシュールな事実。その全容を知った家族たちの反応は、迷宮に巣食ういかなる魔獣よりも恐ろしいものだった。
王都の学院に寄宿しているリリアーナからは、幾重にも折り畳まれた分厚い便箋が送り届けられた。
執務室の重厚な机でその封を切ったアルベルトは、冒頭の文字を追った瞬間から、背筋を凍らせて冷や汗を流し続ける。
『お父様へ
街を揺るがした騒動の件、本当の本当に、あなた様が原因だったのですか?
授業の合間にもクラスメイトから「領主様のとんだ大恋愛のせいで、うちの商売があやうく破産しかけた」と白眼視され、私は恥ずかしさと申し訳なさで、今すぐこの床板を突き破って地底へ隠れたい気持ちでした。
あなたが母上にどれほどぞっこんであるかは、これまでの人生で嫌というほど耳にタコができるほど聞かされております。ですが、個人的な痴話喧嘩やノロケを外へ垂れ流し、街をパニックに陥れるなど、領主としても父親としても言語道断です』
(な……我が愛娘にまで、これほど容赦なく論破されるとは……)
頭を抱えて机に突っ伏すアルベルトの背後には、さらなる試練が待ち構えていた。
より切実な恐怖は、当の妻セレスティアから下される処置そのものにあった。
静まり返った夜の寝室、アルベルトはいつものように宝石箱をそっと差し出そうとする。だが、セレスティアは完璧なまでの穏やかな笑みをたたえたまま、冷ややかにそれを押し返した。
「あなた。もう二度と言葉の綾で、街の平穏をひっくり返すような愚行はなさらないでくださいね」
「せ、セレスティア……すまなかった。魔が差したというか、どうしても君へのあふれる愛を語りたくて……」
「お気持ち自体はありがたいものですが、今回の不始末で多くの商人や冒険者の方々がどれほど理不尽な苦難を被ったことか。……というわけで、当分の間、私への高価な貢物や愛の囁きは一切禁止とさせていただきます」
「な、なんだって……!?それは俺から生きる活力を根こそぎ奪うようなものだ!」
「あら、反省の色が見られない場合は、今後のお食事をご一緒する時間もすべて辞退させていただきますわよ?」
その絶対的な拒絶を含んだ脅し文句に、アルベルトは全身をガタガタと震え上がらせる。
「承知いた……謹んで、言葉の数々とプレゼントを自重する……」
平伏するほかに生きる道はなかった。一帯の生殺与奪を握る最高権力者の辺境伯が、妻の一瞥の前に完全に屈服した瞬間である。
そして、すべての発端となった、あの夜に酒場でノロケ話を軽率に口外した使用人の男も、ただで許されるはずがなかった。
翌朝の冷え切った庭掃除の最中、男は血の気のない青い顔で、同僚たちの冷たい視線に包まれている。
「おい、お前のおかげで領主様も奥様も、今や鬼のような形相だぞ。いったいどうやってこの罪の落とし前をつけるんだ」
「わ、分かっている……!すべては俺が酔いに任せて、旦那様の愛の深さを面白おかしく囃し立てたのが元凶だ……」
そこへ、冷徹な処分を告げるために直属の上司である執事が、滑るような足取りで現れた。
「お前の不注意による失態の代償は重い。だが、首をハネるわけにもいかん。よって、お前には本日から、今後一切の『禁酒』を申し渡す」
「き、禁酒ですか……そんな、まさか……!」
「そうだ。次の一杯が喉から出かければ、その軽薄な口を墓場まで持いくつもりで二度と余計な音を発するな。いいな?」
「……はいっ」
大粒の涙を流しながら激しく頷く男の手には、かつての琥珀色に輝くグラスの代わりに、無機質な水筒が無情に握らされた。
こうして、愛妻家すぎる領主の制御不能なノロケから始まった前代未聞の大騒動は、娘からの説教、妻からの愛の言葉と貢物の全面禁止という重い代償、そして使用人の涙に濡れた禁酒というそれぞれの断罪をもって、完全に、そして静寂のなかに幕を閉じた。




