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「夫人にはなれぬ」と縁を切られた私は、自分の居場所を得て、最後は元婚約者に見上げられます

作者: 真神 慧
掲載日:2026/07/31

「妃にも夫人にもなれぬ者を、この家に置いておくわけにはいかない」


グレイヴ侯爵の指が、机上の封書を二度叩いた。窓際には空いた椅子が一脚あったが、勧める言葉はない。アデルは侯爵と、その右後ろに立つユリウスを見渡してから、手袋をした両手を腹の前で重ねた。


「承知いたしました。では、わたくしがこちらに置いていたものを、今日中に引き取ります」


「話はまだ終わっていない。これはあなたの将来も考えてのことだ。縁を解けば、妙な期待を抱かずに済む。セレイス家へ戻った後のことは、そちらで考えてもらいたい」


「北の土地に関する引き継ぎは、どなたへ」


「その件なら家の者が始末する」


「水路の補修と冬用の薪の配分が残っております。今月中に決めませんと、山側の三村が——」


「それもだ」


侯爵の声が、アデルの言葉の上へ載った。ユリウスは父を止めず、短く目を合わせた。


「あなたが何年か帳面をつけたところで、領地を動かしたことにはならない。家の名があったから、土地の者も従ったのだ。今後は余計な口を挟まぬように」


アデルの傍らで、マリエが紐の緩んだ控えを綴じ直していた。その手が、結び目を作りかけたところで止まった。


「お父上の決定だ」


ユリウスは机の横から離れなかった。止まったマリエの指にも、アデルの足元に置かれた空の荷箱にも目を向けず、短く顎を引く。


「異存はありません、ユリウス様」


「そうか。それなら早く済ませたほうがいい」


侯爵は机上の封書をアデルの側へ押した。婚約の解消を告げる文面の下には、侯爵とユリウスの署名がすでに並んでいる。アデルが書く欄だけが白かった。


ペン先が紙を擦るあいだ、侯爵は次に使う書類をめくっていた。アデルがペンを戻すより先に、封書は侯爵の手元へ引き取られた。


「これで済んだ。荷をまとめなさい」


「はい、侯爵閣下」


居室へ戻ると、マリエは一番小さな箱を卓上へ置いた。アデルは婚約の指輪を外し、家紋入りの鍵、夜会用に贈られた真珠の首飾り、侯爵夫人となった後に使うはずだった銀の印章を、ひとつずつ白布の上へ並べた。


「こちらの帳面も、お返しになりますか」


マリエが持ち上げたのは、北の土地から届いた報告をまとめた控えだった。水路ごとの流量、穀倉に残る麦の量、冬に働ける者と休ませる者。その行間には、夜更けに書き足した細い文字が重なっている。


「いいえ。それはわたくしの荷へ」


侯爵家の紋を押した表紙は返した。中身だけを綴じ直した束を、アデルは自分の箱へ納める。マリエは新しい紐を通し、今度は最後まで結んだ。


玄関広間では、侯爵家の者が返却品を数えていた。鍵が一本、印章がひとつ、首飾りが一連。受け取るたびに紙へ印をつけ、控えの束には目もくれなかった。


アデルが外套を受け取ると、ユリウスが階段の上から呼び止めた。


「これで君も、自分の立場が分かるだろう。グレイヴ家との縁を失えば、行き場などない。今からでも父上に詫びれば、身の振り方くらいは考えてもらえるかもしれない」


「お気遣い、痛み入ります」


アデルは一礼し、扉へ向き直った。マリエが荷箱を抱えて後ろに続く。


馬車へ乗る前、アデルは控えを膝に置いた。最後の頁には、補修を終えていない水路が一本、冬支度の遅れた村が三つ、空欄のまま残っている。末尾を指でひとなでしてから、彼女は表紙を閉じた。


「わたくしの居場所は、わたくしが決めます」


閉じた控えは、返却品の箱ではなく、アデルの腕の中にあった。


    *    *    *


侯爵邸を出て三日目、王家の封蝋を施した召し状が届いた。


宛名はアデル・セレイス。その下にも裏にも、グレイヴ侯爵家の名はなかった。


「明朝、王城へ参内するようにとのことです」


マリエは封を切るための小刀を卓上へ置いた。アデルは召し状を初めから終わりまで読み、もう一度、宛名へ目を戻した。


「衣装を整えましょう。華美なものは要りません」


「控えもお持ちになりますか」


アデルの指が、召し状の端で止まった。


「ええ。求められなければ、出しません」


その夜、箱から取り出した控えを卓上に広げた。最初の頁には、四年前の春に崩れた水路の図がある。次には、荷車を失った村へ種麦を回した日付。その次には、雪の深い村から順に薪を運ぶため、人足を三組へ分けた記録が残っていた。


書面の差出人は、いつもグレイヴ侯爵家だった。だが欄外に残る修正も、現地へ問い返した数字も、夜ごと減っていく蝋燭の脇で書いた署名も、すべてアデルのものだった。


控えの頁を繰るうち、窓の外が暗くなった。アデルは最後の空欄を開き、補修前の水路の名を指先で押さえた。


「お休みになりますか」


「これを閉じてからにします」


扉を叩く音がして、小さく畳まれた紙が一通届けられた。北の土地から侯爵邸へ送られ、転送されてきたものだった。差出人は土地の古老。飾りのない太い筆跡が、二行だけ紙の中央を通っている。


——どのお立場になられても、私どもは同じようにお仕えします。


アデルはその一文へ指を置いた。閉じるはずだった手は動かず、マリエも蝋燭へ新しい火を足さなかった。


やがてアデルは紙を控えの末尾に挟み、その一文を指でひとなでした。綴じ紐の端を揃え、古老の文字が折れないところまで表紙を伏せる。


「明日は、これを持って参ります」


「はい」


翌朝、王城の一室にはグレイヴ侯爵とユリウスが先にいた。


侯爵はアデルを見ると眉を上げたが、口は開かなかった。上座に立つ王使が文書へ目を落としていたためである。ユリウスは父の半歩後ろに控え、アデルの腕にある控えを一度見た。


卓上には、金糸で縁取られた厚い羊皮紙が一通置かれていた。垂らされた濃紺の封蝋には王家の紋が刻まれ、紙の末尾から細い飾り紐が下がっている。


王使は控えを求めなかった。


「アデル・セレイス。前へ」


アデルは卓の前まで進み、礼をした。王使が一通の羊皮紙を開く。水路、穀倉、冬季の配分。読み上げられたのは仕事の名だけで、誰の妻となる予定であったかは一度も添えられなかった。


「王家は、北の直轄地における数年の働きを認める。その功により、同地を領地として下賜する」


王使の手が、羊皮紙をアデルの正面へ向けた。


記されている名は、ひとつだった。


「領主アデル・セレイス。下賜状を受けられよ」


室内で動いたのは、王使の袖だけだった。


アデルは両手で一通の下賜状を受け取った。羊皮紙の重みが掌へ沈む。最初の行にも、土地の境を記した行にも、権利を受ける者の欄にも、あるのはアデル自身の名だけだった。


「謹んで、お受けいたします」


王使が一礼する。


「以後、同地に関する裁量は領主閣下に帰する」


「お待ちください」


グレイヴ侯爵の声が出かけ、細く途切れた。王使が顔を向けると、侯爵は開きかけた手を胸元へ戻し、頭を下げた。


「……失礼いたしました。宣告の後に」


王使は最後まで聞いてから頷いた。


グレイヴ侯爵の後ろで、ユリウスの唇がわずかに開いた。アデル、と呼ぶ形を作り、閉じる。王使が用いた新しい呼称は、彼の口からは出なかった。


(縁を切れば、あの女に行き場などない——)


侯爵の目が、アデルの手にある下賜状へ落ちた。縁切りの席で机を叩いていた指は、今は上着の縫い目をつまんでいる。


アデルは下賜状の末尾まで確かめた。受領のための署名を求められ、自分の名を記す。誰かの家名を添える余白はなかった。


「領主閣下」


王使に呼ばれ、アデルは顔を上げた。


「現地への出立日は、追って王家へ届けられよ」


「三日後に参ります。冬支度の遅れている地がございますので」


それまでアデルの返答へ声を重ねていた侯爵は、口を閉じたままだった。王使が退室し、扉が閉まってからも、すぐには踏み出さない。


やがて侯爵が一歩だけ進んだ。アデルとの間には、卓一つ分の距離が残っている。


「アデル嬢。少し、話す時間をもらえないだろうか」


語尾が、そこで彼女の返事を待った。


「申し訳ございません、侯爵閣下。先に現地へ知らせることがございます」


「そう、か。では、日を改めて伺っても?」


「面会のご用件をお書き添えください。着任後、必要に応じてお返事いたします」


侯爵は一度、息を吸った。重ねる言葉は出ず、下げた顎がそのまま残った。


ユリウスは父の後ろから動かなかった。アデルが礼をして傍らを通っても、呼び止める声はない。


廊下で待っていたマリエは、下賜状を包む布を両手に広げた。アデルが文書を渡すと、四隅を確かめ、古い控えとは別に抱える。


「お戻りになりますか」


「いいえ。出立の支度をいたしましょう」


マリエは一度だけ頷いた。二人の足音は、侯爵父子の残る部屋から遠ざかっていった。


    *    *    *


三日後、北へ向かう道には薄い霜が降りていた。


領主館として用意された建物は、侯爵邸の離れよりも小さかった。門の金具には錆が浮き、執務室の窓枠からは細い風が入る。だが机の上には、到着前から報告書が三つの山になっていた。


一つは水路。一つは薪。一つは冬の働き手に関するものだった。


どの表紙にも宛名が記されている。


領主閣下へ。


アデルは外套を脱ぐ前に、水路の束を取った。補修を待つ箇所は控えに残した一本だけではない。上流の堰にひびが入り、雪解けまで放置すれば、下の畑へ水を送れなくなる。


「薪の配分を先に、という申請もございます」


マリエが二つ目の束を開いた。アデルは水路の図と薪の一覧を横に並べ、働き手の割り当てをその下へ置く。


「山側の三村には、備蓄から先に薪を出します。運ぶ者は高齢の家を回る組と、共同の炉へ運ぶ組に分けてください。残る者を水路へ」


「穀倉の人手は」


「二人だけ残します。荷の出入りは今週止めますから足ります」


「承知いたしました」


アデルは三枚の報告に順番を記した。水路の補修、薪の運搬、働き手の組み替え。侯爵家の印を置く場所には、下賜状とともに届けられたアデルの印を押した。


赤い蝋の上に刻まれたのは、彼女の名の頭文字だった。


その日のうちに、水路へ回す木材が選び直された。翌朝には倉から薪が出て、午後には人の配置を記した紙が各村へ下った。報告は以前と同じ書き方で届き、以前と同じ細かな数字が並び、返答を待つ欄だけがアデルの名へ変わっていた。


領主館の廊下では、彼女が通れば書類を抱えた者が道を空けた。遠巻きに様子を見る者はいない。水路の深さを測った者はその数字を、穀倉を数えた者は傷んだ袋の数を、そのまま机へ持ち込んだ。


アデルは図面の端へ修正を入れ、不要な作業を二つ消した。人を増やす代わりに、上流から順に堰を閉じる時刻をずらす。夜までに残ったのは、翌日現地で確かめる箇所だけだった。


窓の外で、初雪が石段を白くし始めた。マリエは新しい控えの綴じ紐を切り揃えた後も、机の前から離れなかった。


「ほかに何か」


「次のお務めにも、わたくしをお連れください」


アデルのペン先が紙の上で止まった。


「この先も、ということですか」


「はい。侯爵家にお仕えしていたのではございません。お嬢様がお休みにならない夜に、蝋燭を替えていただけです」


「ここでは、替える前に休むよう命じるかもしれません」


「そのときは従います」


アデルは書きかけの指示へ日付を入れた。マリエが差し出した砂入れを受け取り、余分な砂を紙の端から落とす。


「では、これからもお願いいたします」


「かしこまりました、領主閣下」


呼び慣れないはずの言葉は、マリエの口からまっすぐ出た。


アデルは翌朝、水路へ向かった。凍り始めた土に靴を沈め、図面と実際の傾きを見比べる。戻った頃には空欄だった補修予定日に数字が入り、三日後には最初の木枠が堰へ据えられた。


冬は待たない。領主館の机にも、アデルの返事を待つ報告が途切れず届いた。


    *    *    *


グレイヴ侯爵から面会を求める書状が届いたのは、水路の補修が半ばまで進んだ頃だった。


用件の欄には、旧縁について、とだけ記されていた。アデルは翌週の午後を指定し、一刻だけ時間を空けた。


当日、侯爵父子は約束の時刻より早く領主館へ着いた。通されるまで前室で待ち、扉が開いてから入る。侯爵はアデルの机から三歩離れたところで足を止めた。


「お時間をいただき、感謝する。領主閣下」


横に立つユリウスは頭を下げた。王城で言えなかった呼称を、今回も口にはしない。


「お掛けください、侯爵閣下。ユリウス様も」


二人は並んで客用の椅子へ座った。アデルの机には、補修中の水路図と、翌月の薪の配分表が置かれている。侯爵の目がその二枚を往復した。


「北の地が、短い間に整ったと聞いている。もともとあなたは勤勉な人だった。わが家で学んだことも、ここで役に立っているのだろう」


アデルは配分表の端を揃えた。


「ご用件を伺います」


「先日のことだが、あれは性急な判断だった。あなたにこれほどの務めが任されると分かっていれば、私も別の道を考えた」


侯爵は一度、ユリウスを見た。ユリウスは膝の上で手を組み、父の言葉を止めなかった。


「家同士の縁は、そう簡単に捨てるべきものではない。あなたが同意するなら、婚約を戻してもよい。グレイヴ家は、あなたを元の座へ迎えよう」


「元の座、でございますか」


「ユリウスの妻となる座だ。領地を持つあなたなら、以前よりふさわしい形で迎えられる。あなたにも悪い話ではないはずだ」


返答の上へ載るはずだった次の言葉を、侯爵は口にしなかった。机越しに、アデルを見ている。


「戻すも何も、この地に記されておりますのは、わたくし自身の名でございますのよ」


侯爵の指が、椅子の肘掛けをつかんだ。ユリウスは顔を上げたが、父より先には何も言わない。


「もちろん、あなたの功を否定するつもりはない。むしろ、その力があるからこそだ。グレイヴ家とこの地が結びつけば、互いに——」


「どの仕事を、グレイヴ家へお渡しするのでしょう」


「渡す、とは」


「水路の裁量でしょうか。穀倉でしょうか。それとも、ここで働く者の配置を」


侯爵の口元にあった言葉が消えた。


「そういう意味ではない。旧い縁を戻し、支え合おうと言っている。あなた一人で領地を背負う必要はない。妻として帰れば、今までどおりの場所も——」


アデルは机の隅に置いていた古い控えを引き寄せた。侯爵邸から持ち出した束である。古老の一文を挟んだ頁も、空欄だった補修予定日も、今は新しい記録へ続いている。


「侯爵閣下」


侯爵はそこで言葉を止めた。アデルが次に何を言うか、椅子に座ったまま待った。


「わたくしの居場所は、わたくしが決めます」


アデルは立ち上がった。


「本日の面会は、これで終わりといたします。旧縁を戻すことも、元の座へ戻ることもございません」


侯爵はなお何か言いかけ、アデルの後ろに立つマリエを見た。マリエは扉へ手をかけたまま、促しもせず待っている。


先に立ったのは侯爵だった。ユリウスも父に続き、椅子から腰を上げる。二人が廊下へ出ると、マリエは一礼して扉を閉じた。


机の上には、水路図と配分表と、古い控えだけが残った。


アデルは控えの末尾を開いた。かつて空欄だった補修予定日の下には、完了を見込む日と、次に調べる水路の名が記されている。彼女は最後の一行を指でひとなでし、表紙を閉じた。


マリエが新しい報告を差し出した。雪の重みで、山側の共同倉庫の扉が歪んだという。


アデルは外套を取り、手袋をはめた。


「参りましょう、マリエ。次の仕事を待たせております」

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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― 新着の感想 ―
でしゃばる息子の婚約者が好かなかったから婚約破棄したのかな。 侯爵なら己の感情より領地の利益を考えないと。 ユリウスは父親の金魚のフンのように何も自身の考えがないように思えるし戻る価値はないですね。
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