「夫人にはなれぬ」と縁を切られた私は、自分の居場所を得て、最後は元婚約者に見上げられます
「妃にも夫人にもなれぬ者を、この家に置いておくわけにはいかない」
グレイヴ侯爵の指が、机上の封書を二度叩いた。窓際には空いた椅子が一脚あったが、勧める言葉はない。アデルは侯爵と、その右後ろに立つユリウスを見渡してから、手袋をした両手を腹の前で重ねた。
「承知いたしました。では、わたくしがこちらに置いていたものを、今日中に引き取ります」
「話はまだ終わっていない。これはあなたの将来も考えてのことだ。縁を解けば、妙な期待を抱かずに済む。セレイス家へ戻った後のことは、そちらで考えてもらいたい」
「北の土地に関する引き継ぎは、どなたへ」
「その件なら家の者が始末する」
「水路の補修と冬用の薪の配分が残っております。今月中に決めませんと、山側の三村が——」
「それもだ」
侯爵の声が、アデルの言葉の上へ載った。ユリウスは父を止めず、短く目を合わせた。
「あなたが何年か帳面をつけたところで、領地を動かしたことにはならない。家の名があったから、土地の者も従ったのだ。今後は余計な口を挟まぬように」
アデルの傍らで、マリエが紐の緩んだ控えを綴じ直していた。その手が、結び目を作りかけたところで止まった。
「お父上の決定だ」
ユリウスは机の横から離れなかった。止まったマリエの指にも、アデルの足元に置かれた空の荷箱にも目を向けず、短く顎を引く。
「異存はありません、ユリウス様」
「そうか。それなら早く済ませたほうがいい」
侯爵は机上の封書をアデルの側へ押した。婚約の解消を告げる文面の下には、侯爵とユリウスの署名がすでに並んでいる。アデルが書く欄だけが白かった。
ペン先が紙を擦るあいだ、侯爵は次に使う書類をめくっていた。アデルがペンを戻すより先に、封書は侯爵の手元へ引き取られた。
「これで済んだ。荷をまとめなさい」
「はい、侯爵閣下」
居室へ戻ると、マリエは一番小さな箱を卓上へ置いた。アデルは婚約の指輪を外し、家紋入りの鍵、夜会用に贈られた真珠の首飾り、侯爵夫人となった後に使うはずだった銀の印章を、ひとつずつ白布の上へ並べた。
「こちらの帳面も、お返しになりますか」
マリエが持ち上げたのは、北の土地から届いた報告をまとめた控えだった。水路ごとの流量、穀倉に残る麦の量、冬に働ける者と休ませる者。その行間には、夜更けに書き足した細い文字が重なっている。
「いいえ。それはわたくしの荷へ」
侯爵家の紋を押した表紙は返した。中身だけを綴じ直した束を、アデルは自分の箱へ納める。マリエは新しい紐を通し、今度は最後まで結んだ。
玄関広間では、侯爵家の者が返却品を数えていた。鍵が一本、印章がひとつ、首飾りが一連。受け取るたびに紙へ印をつけ、控えの束には目もくれなかった。
アデルが外套を受け取ると、ユリウスが階段の上から呼び止めた。
「これで君も、自分の立場が分かるだろう。グレイヴ家との縁を失えば、行き場などない。今からでも父上に詫びれば、身の振り方くらいは考えてもらえるかもしれない」
「お気遣い、痛み入ります」
アデルは一礼し、扉へ向き直った。マリエが荷箱を抱えて後ろに続く。
馬車へ乗る前、アデルは控えを膝に置いた。最後の頁には、補修を終えていない水路が一本、冬支度の遅れた村が三つ、空欄のまま残っている。末尾を指でひとなでしてから、彼女は表紙を閉じた。
「わたくしの居場所は、わたくしが決めます」
閉じた控えは、返却品の箱ではなく、アデルの腕の中にあった。
* * *
侯爵邸を出て三日目、王家の封蝋を施した召し状が届いた。
宛名はアデル・セレイス。その下にも裏にも、グレイヴ侯爵家の名はなかった。
「明朝、王城へ参内するようにとのことです」
マリエは封を切るための小刀を卓上へ置いた。アデルは召し状を初めから終わりまで読み、もう一度、宛名へ目を戻した。
「衣装を整えましょう。華美なものは要りません」
「控えもお持ちになりますか」
アデルの指が、召し状の端で止まった。
「ええ。求められなければ、出しません」
その夜、箱から取り出した控えを卓上に広げた。最初の頁には、四年前の春に崩れた水路の図がある。次には、荷車を失った村へ種麦を回した日付。その次には、雪の深い村から順に薪を運ぶため、人足を三組へ分けた記録が残っていた。
書面の差出人は、いつもグレイヴ侯爵家だった。だが欄外に残る修正も、現地へ問い返した数字も、夜ごと減っていく蝋燭の脇で書いた署名も、すべてアデルのものだった。
控えの頁を繰るうち、窓の外が暗くなった。アデルは最後の空欄を開き、補修前の水路の名を指先で押さえた。
「お休みになりますか」
「これを閉じてからにします」
扉を叩く音がして、小さく畳まれた紙が一通届けられた。北の土地から侯爵邸へ送られ、転送されてきたものだった。差出人は土地の古老。飾りのない太い筆跡が、二行だけ紙の中央を通っている。
——どのお立場になられても、私どもは同じようにお仕えします。
アデルはその一文へ指を置いた。閉じるはずだった手は動かず、マリエも蝋燭へ新しい火を足さなかった。
やがてアデルは紙を控えの末尾に挟み、その一文を指でひとなでした。綴じ紐の端を揃え、古老の文字が折れないところまで表紙を伏せる。
「明日は、これを持って参ります」
「はい」
翌朝、王城の一室にはグレイヴ侯爵とユリウスが先にいた。
侯爵はアデルを見ると眉を上げたが、口は開かなかった。上座に立つ王使が文書へ目を落としていたためである。ユリウスは父の半歩後ろに控え、アデルの腕にある控えを一度見た。
卓上には、金糸で縁取られた厚い羊皮紙が一通置かれていた。垂らされた濃紺の封蝋には王家の紋が刻まれ、紙の末尾から細い飾り紐が下がっている。
王使は控えを求めなかった。
「アデル・セレイス。前へ」
アデルは卓の前まで進み、礼をした。王使が一通の羊皮紙を開く。水路、穀倉、冬季の配分。読み上げられたのは仕事の名だけで、誰の妻となる予定であったかは一度も添えられなかった。
「王家は、北の直轄地における数年の働きを認める。その功により、同地を領地として下賜する」
王使の手が、羊皮紙をアデルの正面へ向けた。
記されている名は、ひとつだった。
「領主アデル・セレイス。下賜状を受けられよ」
室内で動いたのは、王使の袖だけだった。
アデルは両手で一通の下賜状を受け取った。羊皮紙の重みが掌へ沈む。最初の行にも、土地の境を記した行にも、権利を受ける者の欄にも、あるのはアデル自身の名だけだった。
「謹んで、お受けいたします」
王使が一礼する。
「以後、同地に関する裁量は領主閣下に帰する」
「お待ちください」
グレイヴ侯爵の声が出かけ、細く途切れた。王使が顔を向けると、侯爵は開きかけた手を胸元へ戻し、頭を下げた。
「……失礼いたしました。宣告の後に」
王使は最後まで聞いてから頷いた。
グレイヴ侯爵の後ろで、ユリウスの唇がわずかに開いた。アデル、と呼ぶ形を作り、閉じる。王使が用いた新しい呼称は、彼の口からは出なかった。
(縁を切れば、あの女に行き場などない——)
侯爵の目が、アデルの手にある下賜状へ落ちた。縁切りの席で机を叩いていた指は、今は上着の縫い目をつまんでいる。
アデルは下賜状の末尾まで確かめた。受領のための署名を求められ、自分の名を記す。誰かの家名を添える余白はなかった。
「領主閣下」
王使に呼ばれ、アデルは顔を上げた。
「現地への出立日は、追って王家へ届けられよ」
「三日後に参ります。冬支度の遅れている地がございますので」
それまでアデルの返答へ声を重ねていた侯爵は、口を閉じたままだった。王使が退室し、扉が閉まってからも、すぐには踏み出さない。
やがて侯爵が一歩だけ進んだ。アデルとの間には、卓一つ分の距離が残っている。
「アデル嬢。少し、話す時間をもらえないだろうか」
語尾が、そこで彼女の返事を待った。
「申し訳ございません、侯爵閣下。先に現地へ知らせることがございます」
「そう、か。では、日を改めて伺っても?」
「面会のご用件をお書き添えください。着任後、必要に応じてお返事いたします」
侯爵は一度、息を吸った。重ねる言葉は出ず、下げた顎がそのまま残った。
ユリウスは父の後ろから動かなかった。アデルが礼をして傍らを通っても、呼び止める声はない。
廊下で待っていたマリエは、下賜状を包む布を両手に広げた。アデルが文書を渡すと、四隅を確かめ、古い控えとは別に抱える。
「お戻りになりますか」
「いいえ。出立の支度をいたしましょう」
マリエは一度だけ頷いた。二人の足音は、侯爵父子の残る部屋から遠ざかっていった。
* * *
三日後、北へ向かう道には薄い霜が降りていた。
領主館として用意された建物は、侯爵邸の離れよりも小さかった。門の金具には錆が浮き、執務室の窓枠からは細い風が入る。だが机の上には、到着前から報告書が三つの山になっていた。
一つは水路。一つは薪。一つは冬の働き手に関するものだった。
どの表紙にも宛名が記されている。
領主閣下へ。
アデルは外套を脱ぐ前に、水路の束を取った。補修を待つ箇所は控えに残した一本だけではない。上流の堰にひびが入り、雪解けまで放置すれば、下の畑へ水を送れなくなる。
「薪の配分を先に、という申請もございます」
マリエが二つ目の束を開いた。アデルは水路の図と薪の一覧を横に並べ、働き手の割り当てをその下へ置く。
「山側の三村には、備蓄から先に薪を出します。運ぶ者は高齢の家を回る組と、共同の炉へ運ぶ組に分けてください。残る者を水路へ」
「穀倉の人手は」
「二人だけ残します。荷の出入りは今週止めますから足ります」
「承知いたしました」
アデルは三枚の報告に順番を記した。水路の補修、薪の運搬、働き手の組み替え。侯爵家の印を置く場所には、下賜状とともに届けられたアデルの印を押した。
赤い蝋の上に刻まれたのは、彼女の名の頭文字だった。
その日のうちに、水路へ回す木材が選び直された。翌朝には倉から薪が出て、午後には人の配置を記した紙が各村へ下った。報告は以前と同じ書き方で届き、以前と同じ細かな数字が並び、返答を待つ欄だけがアデルの名へ変わっていた。
領主館の廊下では、彼女が通れば書類を抱えた者が道を空けた。遠巻きに様子を見る者はいない。水路の深さを測った者はその数字を、穀倉を数えた者は傷んだ袋の数を、そのまま机へ持ち込んだ。
アデルは図面の端へ修正を入れ、不要な作業を二つ消した。人を増やす代わりに、上流から順に堰を閉じる時刻をずらす。夜までに残ったのは、翌日現地で確かめる箇所だけだった。
窓の外で、初雪が石段を白くし始めた。マリエは新しい控えの綴じ紐を切り揃えた後も、机の前から離れなかった。
「ほかに何か」
「次のお務めにも、わたくしをお連れください」
アデルのペン先が紙の上で止まった。
「この先も、ということですか」
「はい。侯爵家にお仕えしていたのではございません。お嬢様がお休みにならない夜に、蝋燭を替えていただけです」
「ここでは、替える前に休むよう命じるかもしれません」
「そのときは従います」
アデルは書きかけの指示へ日付を入れた。マリエが差し出した砂入れを受け取り、余分な砂を紙の端から落とす。
「では、これからもお願いいたします」
「かしこまりました、領主閣下」
呼び慣れないはずの言葉は、マリエの口からまっすぐ出た。
アデルは翌朝、水路へ向かった。凍り始めた土に靴を沈め、図面と実際の傾きを見比べる。戻った頃には空欄だった補修予定日に数字が入り、三日後には最初の木枠が堰へ据えられた。
冬は待たない。領主館の机にも、アデルの返事を待つ報告が途切れず届いた。
* * *
グレイヴ侯爵から面会を求める書状が届いたのは、水路の補修が半ばまで進んだ頃だった。
用件の欄には、旧縁について、とだけ記されていた。アデルは翌週の午後を指定し、一刻だけ時間を空けた。
当日、侯爵父子は約束の時刻より早く領主館へ着いた。通されるまで前室で待ち、扉が開いてから入る。侯爵はアデルの机から三歩離れたところで足を止めた。
「お時間をいただき、感謝する。領主閣下」
横に立つユリウスは頭を下げた。王城で言えなかった呼称を、今回も口にはしない。
「お掛けください、侯爵閣下。ユリウス様も」
二人は並んで客用の椅子へ座った。アデルの机には、補修中の水路図と、翌月の薪の配分表が置かれている。侯爵の目がその二枚を往復した。
「北の地が、短い間に整ったと聞いている。もともとあなたは勤勉な人だった。わが家で学んだことも、ここで役に立っているのだろう」
アデルは配分表の端を揃えた。
「ご用件を伺います」
「先日のことだが、あれは性急な判断だった。あなたにこれほどの務めが任されると分かっていれば、私も別の道を考えた」
侯爵は一度、ユリウスを見た。ユリウスは膝の上で手を組み、父の言葉を止めなかった。
「家同士の縁は、そう簡単に捨てるべきものではない。あなたが同意するなら、婚約を戻してもよい。グレイヴ家は、あなたを元の座へ迎えよう」
「元の座、でございますか」
「ユリウスの妻となる座だ。領地を持つあなたなら、以前よりふさわしい形で迎えられる。あなたにも悪い話ではないはずだ」
返答の上へ載るはずだった次の言葉を、侯爵は口にしなかった。机越しに、アデルを見ている。
「戻すも何も、この地に記されておりますのは、わたくし自身の名でございますのよ」
侯爵の指が、椅子の肘掛けをつかんだ。ユリウスは顔を上げたが、父より先には何も言わない。
「もちろん、あなたの功を否定するつもりはない。むしろ、その力があるからこそだ。グレイヴ家とこの地が結びつけば、互いに——」
「どの仕事を、グレイヴ家へお渡しするのでしょう」
「渡す、とは」
「水路の裁量でしょうか。穀倉でしょうか。それとも、ここで働く者の配置を」
侯爵の口元にあった言葉が消えた。
「そういう意味ではない。旧い縁を戻し、支え合おうと言っている。あなた一人で領地を背負う必要はない。妻として帰れば、今までどおりの場所も——」
アデルは机の隅に置いていた古い控えを引き寄せた。侯爵邸から持ち出した束である。古老の一文を挟んだ頁も、空欄だった補修予定日も、今は新しい記録へ続いている。
「侯爵閣下」
侯爵はそこで言葉を止めた。アデルが次に何を言うか、椅子に座ったまま待った。
「わたくしの居場所は、わたくしが決めます」
アデルは立ち上がった。
「本日の面会は、これで終わりといたします。旧縁を戻すことも、元の座へ戻ることもございません」
侯爵はなお何か言いかけ、アデルの後ろに立つマリエを見た。マリエは扉へ手をかけたまま、促しもせず待っている。
先に立ったのは侯爵だった。ユリウスも父に続き、椅子から腰を上げる。二人が廊下へ出ると、マリエは一礼して扉を閉じた。
机の上には、水路図と配分表と、古い控えだけが残った。
アデルは控えの末尾を開いた。かつて空欄だった補修予定日の下には、完了を見込む日と、次に調べる水路の名が記されている。彼女は最後の一行を指でひとなでし、表紙を閉じた。
マリエが新しい報告を差し出した。雪の重みで、山側の共同倉庫の扉が歪んだという。
アデルは外套を取り、手袋をはめた。
「参りましょう、マリエ。次の仕事を待たせております」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




