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「離婚届はそこに置いておいて。私、今ちょっと棚の塗装で手が離せないの」——冷遇され続けた公爵夫人、実は廃墟を隠れ家サロンに改造していたら、建築オタクの夫が毎日通ってくるようになりました

作者: マイコ
掲載日:2026/01/21

「離婚届はそこに置いておいて。私、今ちょっと棚の塗装で手が離せないの」


私——エリーゼ・フォン・ヴァイスガルテンは、ペンキまみれの手をひらひらと振って、三年間ほぼ会話のなかった夫にそう告げた。


夫ルシアンは、完璧に整えられた黒髪を一筋も乱さぬまま、私の言葉を聞いて——凍りついた。


(あ、やば。これ処理してない感情が顔に出てるやつだ)


氷の公爵と呼ばれる彼が、あの無表情を微かに歪ませている。


珍しいものを見た。


いや、そんな顔されても困るんですけど。


「……今、なんと言った」


「だから、離婚届はそこのテーブルに置いておいてって。あ、でもペンキ塗りたてだから端っこのほうにね。シミになったら困るし」


私は振り返りもせず、目の前の棚に二度目の塗料を重ねる。


この世界特有の『月光樹』から抽出した塗料。乾くと淡く光を放つ優れもので、夜間照明の代わりになる。前世の知識と組み合わせれば、間接照明として完璧に機能する。


(うん、いい艶が出てきた)


「エリーゼ」


低く、押し殺したような声。


「なーに?」


「俺は今、離婚の話をしている」


「うん、聞いてるよ」


「……聞いているのか」


「聞いてる聞いてる。ヴィオレッタ嬢と一緒になりたいんでしょ? いいんじゃない? あの子可愛いし」


沈黙。


重い、重い沈黙が東棟の作業室に落ちる。


私はようやく筆を置いて、エプロンで手を拭きながら振り返った。


——そこには、信じられないものを見たような顔をした公爵閣下がいた。


(いや何その顔。離婚切り出したのそっちでしょ)


「驚いた?」


「……驚いた、というか」


「泣いて縋ると思った?」


「…………」


図星か。


(あのね、三年よ三年。まともに目も合わせなかった相手に、今更縋る理由がどこにあるっていうの)


私は肩をすくめた。


「残念でした。私、この東棟での生活けっこう気に入ってるし、離婚したらしたで工房開けるしね。むしろ好都合かも」


「……工房」


「うん。DIY工房。家具とかインテリアとか作るの」


「ディー……なんだ?」


「気にしないで、こっちの話」


前世の言葉がつい出てしまった。


私——エリーゼには秘密がある。


前世は日本のDIYインフルエンサー『つくるちゃん』。登録者百万人越えの、まあまあ有名な配信者だった。


事故で死んで、気づいたらこの世界の伯爵令嬢に転生していて、十八歳で政略結婚。


嫁いだ先の公爵様には見向きもされず、廃墟同然の東棟に追いやられて三年。


普通なら絶望するところだけど——私には『ものづくり』があった。


この世界の魔法素材と前世の知識を組み合わせて、廃墟を改造すること六百日。


今やこの東棟は、一部の貴族令嬢たちの間で『隠れ家サロン』として密かな人気スポットになっている。


愛されなくても、私は私を好きでいられる。


そう思えるようになったのは、ここで好きなことをしてきたからだ。


私は作業台の隅に寄せておいた書類を手に取る。


ああ、本当に離婚届だ。


「じゃあサインすればいいの? ペン貸して」


「待て」


ルシアンが、珍しく声を荒げた。


私は首を傾げる。


「……なに?」


「いや……その……」


彼の視線が、私の背後を彷徨う。


作業途中の棚。


壁に立てかけた木製フレーム。


窓辺に置いた、自作のステンドグラス風パネル。


(あ、作品見てる)


「この棚は」


ルシアンが、低く呟いた。


「ん?」


「この棚の、この曲線は……誰が」


「私だけど」


「——は?」


彼が、初めて私の顔をまっすぐ見た。


銀灰色の瞳が、驚愕に見開かれている。


(なんでそんなびっくりしてるの……)


「君が? この棚を?」


「そうだけど。変?」


「変、というか——」


ルシアンが、ゆっくりと棚に近づく。


そして、まるで宝物を扱うように、その曲線をなぞった。


「……素晴らしい」


「え?」


「この木目の生かし方、この接合部の処理、この——」


彼の目が、異様な熱を帯びている。


(ちょっと待って。今この人、離婚届持ってきたんだよね?)


「あの、ルシアン様?」


「この塗料は何を使った。発光しているように見えるが、月光樹か? 配合比率は? 下地処理はどうした?」


「えっと……」


「この蝶番は既製品ではないな。特注か? いや、この打ち出しの跡……まさか手作りか? 君が?」


怒涛の質問攻め。


氷の公爵、どこいった?


(この人、建築オタクだったの……?)


私は呆気に取られながら、気づいた。


この男、棚を見る目が完全に恋する乙女のそれだ。


「離婚届の話は?」


「それより、この棚の製作工程を——」


「いやいやいや」


ツッコまざるを得なかった。


「優先順位おかしくない?」



その日、離婚届にサインはされなかった。


代わりに、氷の公爵は東棟を二時間かけて『視察』し、帰り際にこう言った。


「……また来る」


何しに?


私の困惑をよそに、彼は颯爽と去っていった。


その背中を見送りながら、私は呟く。


「……なんだったの、今の」


傍らでずっと控えていた侍女のマーゴットが、複雑な顔で言った。


「奥様。あの方、窓枠を三十分見つめておいででした」


「知ってる。私もちょっと引いた」


「……旦那様が、あのように饒舌な姿を初めて見ました」


「饒舌だったね。棚相手には」


私は深いため息をついた。


(三年間、私には二言三言しか話さなかったくせに)


(棚には三十分語りかけるって、どういうこと?)


まあ、いい。


離婚は遅かれ早かれ成立するだろう。


そうしたら、私は晴れて自由の身。


工房を開いて、好きなだけものづくりができる。


——そのはずだった。


翌日も、ルシアンは東棟に現れた。


「今日は書斎を見せてもらう」


「…………」


(いや、離婚届の催促かと思ったら、視察?)


その翌日も。


「寝室の窓枠について聞きたいことがある」


(寝室って言い方やめて。変な意味じゃないの分かってるけど)


そのまた翌日も。


「廊下の手すりの素材は——」


「あのね」


私はついに声を上げた。


「離婚する気、あるの?」


ルシアンは、きょとんとした顔をした。


(きょとんって、この人できるんだ……)


「視察が終わっていない」


「視察って」


「この東棟のすべてを把握するまで、離婚届は保留だ」


「意味が分からないんですけど」


「俺にも分からない」


(分かってないんかい)


私は頭を抱えた。


前世で再生数が伸び悩んだ時より困惑している。


「とりあえず、今日は作業室の工具箱を見せてくれ」


「……勝手にどうぞ」


私は諦めて、作業に戻った。


ルシアンが工具箱を一つ一つ吟味している気配を背中に感じながら、思う。


(この男、絶対変だ)


(でもまあ……作品褒められるのは、悪い気はしないかも)


窓の外では、夕日が沈みかけている。


月光樹の塗料を塗った棚が、淡い光を放ち始めた。


その光を見つめるルシアンの横顔が、ほんの少しだけ——柔らかく見えたのは、きっと気のせいだ。


「……美しいな」


「え?」


「この棚が、だ」


「……分かってるよ」


(いちいち補足しないでよ。期待してないから)


私は、少しだけ胸が軋むのを無視して、新しい木材を手に取った。



ルシアンが東棟に通い始めて、一週間。


「閣下」


副官のセオドアが、主人の背中に声をかけた。


「本日も……東棟の視察でございますか」


「ああ」


ルシアンは執務机から立ち上がり、コートを手に取る。


「今日は階段の手すりについて確認したいことがある」


「……閣下」


「なんだ」


「それは、『会いたい』という感情かと存じます」


「——は?」


ルシアンが振り返る。


セオドアは真顔だった。


「階段の手すりに会いたいのではなく、奥方様に会いたいのでは」


「何を馬鹿な。俺は純粋に、あの手すりの接合技術について——」


「三日前は蝶番、一昨日は窓枠、昨日は工具箱でした」


「だから何だ」


「閣下が毎日新しい理由をつけて奥方様の元を訪れている事実は、使用人たちの間で評判でございます」


「……評判?」


「『旦那様が奥様に通い詰めている』と」


「違う。俺は東棟の建具に——」


「建具を愛でるために毎日通う旦那様、というのも、それはそれで評判になっております」


ルシアンは、口を噤んだ。


(……確かに、客観的に見れば奇行かもしれない)


しかし、分かってほしい。


あの東棟は、異常なのだ。


三年前、エリーゼをあそこに住まわせた時——あれは確かに廃墟同然だった。


それが今や、どうだ。


古い建材を活かしながら、見事に修復されている。


いや、修復という言葉では足りない。生まれ変わっている。


随所に施された装飾。機能性と美しさを両立した家具の数々。


月明かりを受けて淡く光る壁。温度調節機能を持つカーテン。


そのすべてが——エリーゼの手によるものだという。


「セオドア」


「はい」


「俺は三年間、あの女が何をしていたか知らなかった」


「……はい」


「知ろうともしなかった」


「……閣下」


「廃墟のような東棟に追いやって、放置した。それが——あれだ」


ルシアンの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。


祖母の離れ。


厳格な父と冷淡な母から逃れ、唯一心休まった場所。


古いけれど手入れの行き届いた、温かな空間。


東棟に初めて足を踏み入れた時——あの感覚が蘇った。


(どうして気づかなかった)


(俺はずっと、こういう場所を求めていたのに)


「閣下」


セオドアが、珍しく真剣な顔で言った。


「奥方様の作品と、奥方様ご自身は——別物でございますか?」


「……何が言いたい」


「作品を生み出したのは奥方様です。作品を愛でるなら、その製作者にも目を向けるべきでは」


「…………」


「離婚届を持っていったはずが、毎日通い詰めている。その矛盾に、閣下ご自身は気づいておいでですか」


ルシアンは、答えられなかった。



同じ頃、東棟では。


「奥様、本日も旦那様がお見えになるかと」


「だろうね」


私は窓の外を見ながら、ため息をついた。


「マーゴット、正直に言って。この状況、どう思う?」


「……どう、とおっしゃいますと」


「離婚切り出しておいて、毎日来るの変でしょ」


「変でございますね」


「だよね」


私は作業台に肘をついた。


前世の記憶があるおかげで、この世界の常識に縛られずに生きてこられた。


政略結婚で冷遇されても、『まあそういうこともあるよね』と受け流せた。


でも、今の状況は——前世の常識でも意味が分からない。


「ねえマーゴット」


「はい」


「あの人さ、私と結婚して三年間、ろくに口もきかなかったのに」


「はい」


「なんで今更、毎日来るの」


「……お察しするに」


「うん」


「旦那様は、奥様の作品に恋をされているのかと」


「作品に」


「はい」


「私にじゃなく」


「はい」


「…………」


(それ、めちゃくちゃ複雑な気持ちになるんだけど)


私は深いため息をついた。


前世で『つくるちゃん』として活動していた時、作品を褒められるのは嬉しかった。


百万人の登録者がいて、コメント欄はいつも温かかった。


でも——私自身を見てくれる人は、どれだけいただろう。


(また同じことになってるじゃん)


(作品は愛されて、私は透明人間)


「奥様」


マーゴットが、静かに言った。


「旦那様が作品に惹かれているということは——奥様の才能に惹かれているということです」


「……そうかな」


「作品は、奥様の一部でございます。切り離せるものではありません」


私は、マーゴットの顔を見た。


彼女は微笑んでいた。


「奥様の作品は、この屋敷で一番美しゅうございます。誰が何と言おうと」


「……マーゴット」


「旦那様がそれに気づかれたのなら、良いことではないでしょうか」


(良いこと、か)


正直、分からない。


三年間の孤独が、簡単には消えない。


でも——


「あ、来た」


窓の外に、見覚えのある黒髪が見えた。


ルシアンだ。今日も、律儀に正面から来ている。


(氷の公爵のくせに、こういうところは真面目だよね)


私は立ち上がり、作業着の埃を払った。


「マーゴット、お茶の準備お願い」


「かしこまりました。——奥様」


「ん?」


「本日のペンキはお顔にも付いております」


「えっ」


慌てて鏡を見ると、頬に青いペンキが点々と付いていた。


(うわ、最悪)


「……まあいいか」


「よろしいのですか」


「どうせあの人、私の顔なんて見てないし」


マーゴットが、何か言いたげな顔をした。


でも結局、何も言わずに部屋を出ていった。



「今日は何の視察?」


私は玄関でルシアンを出迎えながら、ストレートに聞いた。


「……階段の手すりを」


「ああ、あれね。自信作なんだ」


「自信作」


「うん。曲線の加工が難しくて、三回やり直したの」


「三回……」


ルシアンの目が、また異様に輝いた。


(出た、この目)


(建築オタクの目だ)


「見せてくれ」


「どうぞどうぞ」


私は彼を階段まで案内した。


東棟の階段は、元々は朽ちかけていた。


手すりなんてなかったし、踏み板も軋んでいた。


それを一年がかりで修復した。


手すりは『記憶樹』と呼ばれる魔法の木材を使っている。


持ち主の体温を記憶して、常に心地よい温度を保つ素材だ。


「……触っていいか」


「どうぞ」


ルシアンが、手すりに手を置いた。


途端、彼の表情が——変わった。


「温かい」


「記憶樹だからね。触る人の体温を覚えて、最適な温度に——」


「違う」


ルシアンが、私を見た。


「温度の話ではない。この、——なんと言えばいいのか」


彼は珍しく言葉を探している様子だった。


「祖母の離れを思い出した」


「……おばあ様?」


「幼い頃、唯一心休まる場所だった。あの感覚に——似ている」


私は、少し驚いた。


この人が、自分の話をするなんて。


「ルシアン様のおばあ様って、どんな方だったの?」


「……優しい人だった。俺の話を聞いてくれる、唯一の人だった」


「そっか」


「あの人が作った空間には、温もりがあった。帰りたいと思える場所だった」


ルシアンの目が、遠くを見ている。


「父は厳格で、母は冷淡だった。当主は弱さを見せてはならないと、ずっと言われてきた」


「…………」


「だから俺は——こうなった」


彼は、自嘲するように笑った。


初めて見る表情だった。


「感情を表に出すのが、下手なんだ」


「……知ってる」


「知っているのか」


「三年も一緒にいれば、なんとなくね」


私は、手すりに寄りかかった。


「ルシアン様さ」


「なんだ」


「私を東棟に住まわせたの、嫌がらせ?」


「——は?」


彼が、驚いた顔をした。


「違う」


「え、じゃあなんで?」


「一番静かで、落ち着ける場所だと思った」


「…………」


「本邸は騒がしい。使用人の目もある。東棟なら——自由にできると思った」


私は、絶句した。


(えっ、ちょっと待って)


(それ、配慮だったの?)


「で、でも、みんな『追いやられた』って言ってたよ」


「……そう見えたか」


「見えたっていうか——」


「言葉が足りなかった」


ルシアンが、深く息を吐いた。


「いつも、そうだ。俺は——言葉が足りない」


(あ、これ、本気で反省してる顔だ)


三年間、この人を冷酷な夫だと思っていた。


私に興味がなくて、邪険にして、愛人を傍に置いている——そういう人だと。


でも、もしかしたら。


「ルシアン様」


「……なんだ」


「ヴィオレッタ嬢のこと、好きなの?」


「——好き?」


彼の顔に、純粋な困惑が浮かんだ。


「なぜそうなる」


「えっ、だって傍にいつもいるし」


「彼女の実家との関係で、邪険にできなかっただけだ」


「好きじゃないの?」


「好いたことはない」


私は、頭を抱えた。


(じゃあなんで離婚届持ってきたの!?)


「あの、じゃあ離婚したいのは——」


「君のためだ」


「は?」


「俺といても、君は幸せになれないと思った」


「…………」


「三年間、ろくに話もできなかった。顔も見れなかった。俺では——君を幸せにできない」


彼の声は、淡々としていた。


でも、その目には——何かが揺れていた。


「だから、自由になってほしかった」


(えっ、ちょっと待って)


(これ、めちゃくちゃ不器用な優しさじゃん)


(コミュニケーション能力壊滅的すぎない?)


私は、深呼吸した。


「ルシアン様」


「なんだ」


「言いたいことがあったら、ちゃんと言って」


「……言っているつもりだが」


「つもりじゃダメ。私、超能力者じゃないから」


「……超能力?」


「心を読む力。この世界にはないの?」


「……ない、と思うが」


「じゃあ尚更。言葉にしないと伝わらないよ」


ルシアンは、黙って私を見つめた。


そして——


「離婚届は、まだ出さなくていい」


「え?」


「東棟の視察が、終わっていない」


(また視察って言う……)


でも、その声は——さっきより少しだけ、柔らかかった。


私は、小さく笑った。


「分かった。好きなだけ視察すれば」


「……ああ」


「でも邪魔はしないでね。私、作業したいから」


「分かった」


彼は、また手すりに触れた。


その横顔を見ながら、私は思った。


(この人、本当は——悪い人じゃないのかも)


(ただ、壊滅的に不器用なだけで)


三年間の誤解が、少しだけほどけた気がした。


でも、まだ信じきれない自分もいる。


(慎重にいこう)


(傷つくのは、もう嫌だから)



東棟の評判が、社交界で囁かれるようになったのは、ロザリンド侯爵夫人の一言がきっかけだった。


「あの公爵邸の東棟、実は素晴らしいらしいわよ」


社交界の重鎮がそう言えば、あっという間に噂は広がる。


『廃墟に追いやられた哀れな公爵夫人』の住処が、実は隠れた名所だと。


令嬢たちは興味津々で情報を集め、一部の勇気ある者たちが『東棟訪問』を画策し始めた。


そして——


「どうして皆、あんな廃墟の話ばかりするの!?」


ヴィオレッタ・フォン・リヒテンシュタインは、自室で地団駄を踏んでいた。


「廃墟なんかより、私の部屋のほうがずっと素敵なのに!」


彼女の部屋は、王都で一番の職人に整えさせた自慢の空間だ。


最高級の絹のカーテン。輸入物の豪華な家具。金箔を施した天井。


——なのに、誰も話題にしない。


「ロザリンド様が東棟を褒めたせいだわ」


ヴィオレッタは鏡の前で、自分の顔を確認した。


蜂蜜色の巻き毛。宝石のような紫の瞳。完璧な美貌。


この顔で、この家柄で——公爵夫人の座を手に入れられないはずがない。


あの地味な女に負けるはずがない。


「……そうだわ」


彼女の目に、計算高い光が宿った。


「夜会を開きましょう。私の部屋をお披露目する夜会を」



「奥様、ヴィオレッタ嬢から招待状が届いております」


マーゴットが、封筒を差し出した。


私は塗装作業の手を止め、受け取る。


豪華な装飾が施された招待状。


『私の新しいお部屋をお披露目する夜会に、姉様もぜひいらしてくださいませ——ヴィオレッタ』


(姉様って呼び方、まだ続けてるんだ……)


政略結婚した時から、彼女は私をそう呼ぶ。


親しみを込めてるように見せかけて、その実『私のほうが公爵様に近い存在よ』とアピールする巧妙な戦術だ。


「どうされますか」


「……行かないわけにはいかないよね」


公爵夫人として、招待を無視するわけにはいかない。


それに——正直、ちょっと興味がある。


王都で一番の職人が手がけた部屋とやら、どんなものか見てみたい。


(プロの仕事を見るのは勉強になるし)


前世のDIYインフルエンサー魂が、むくむくと頭をもたげる。


「マーゴット、ドレスの準備お願い」


「かしこまりました」


「……できれば、作業着じゃないやつで」


「当然でございます」


マーゴットの声に、微かな笑いが混じった気がした。



夜会の日。


私は久しぶりにきちんとしたドレスを着て、ヴィオレッタの屋敷を訪れた。


灰青色のシンプルなドレス。髪も珍しくちゃんとまとめた。


(たまにはこういうのも悪くない)


屋敷の入り口で、見覚えのある人物とばったり会った。


「——閣下」


セオドアが目を丸くした。


「奥方様、本日はドレス姿でいらしたのですね」


「そりゃ夜会だからね」


「いえ、その、大変——」


セオドアが言いよどんだ瞬間、背後から声がした。


「エリーゼ」


ルシアンだった。


彼もまた、私を見て——固まった。


「……どうしたの?」


「いや……」


「ペンキついてる?」


「ついていない」


「じゃあ何?」


「…………綺麗だ」


(は?)


私は一瞬、耳を疑った。


「今、なんて?」


「何も言っていない」


「言った」


「言っていない」


「セオドア、この人今なんて言った?」


「奥方様が綺麗だと」


「セオドア」


ルシアンの声が、低く唸った。


セオドアは涼しい顔で言った。


「事実を申し上げたまでです」


私は——笑ってしまった。


「ルシアン様、褒めてくれてありがとう」


「……別に、褒めたわけでは」


「はいはい」


(この人、本当に素直じゃないな)


でも——嬉しくないと言えば嘘になる。


三年間、夫に容姿を褒められたことなんてなかった。


たった一言でこんなに動揺するなんて、私もチョロいな。


(いやいや、冷静に。まだ信用しきれないし)


私は気持ちを切り替えて、屋敷に入った。



ヴィオレッタの部屋は、確かに豪華だった。


金箔の天井。絹のカーテン。宝石をあしらった調度品。


——でも。


(……うーん)


私は内心で首を傾げた。


豪華ではあるけど、統一感がない。


高価な物を詰め込んだだけ、という印象。


『映える』という観点で見ると、正直——微妙だ。


(前世なら『成金感がすごい』ってコメントつきそう)


「姉様、いかがですか?」


ヴィオレッタが、得意げに近づいてきた。


「王都で一番の職人に整えさせましたの。素敵でしょう?」


「……豪華ね」


「でしょう?」


私は曖昧に頷いた。


(嘘はついてない。豪華なのは事実だし)


「姉様のお住まいは——あの東棟でしたわよね?」


ヴィオレッタの声に、棘が混じる。


「噂では素敵だとか聞きますけど、やっぱり古いものは古いですわよね」


「……まあ、古いのは事実だね」


「リフォームとかされているんですか?」


「少しね」


「少し、ですか」


ヴィオレッタが、意味ありげに微笑む。


「私、一度お邪魔してみたいですわ。姉様の質素なお暮らしを拝見しに」


(質素って言い方……まあいいけど)


私は肩をすくめた。


「いつでもどうぞ」


「まあ、ありがとうございます」


彼女は勝ち誇ったように笑って、他の客のところへ行った。


私は、ため息をついた。


(あの子、本当に分かりやすいな)


私を馬鹿にしたいのが、顔に出すぎている。


でも——


「奥方様」


振り返ると、ロザリンド侯爵夫人がいた。


「久しぶりね、公爵夫人」


「侯爵夫人。ご無沙汰しております」


「この部屋、どう思う?」


「……豪華ですね」


「正直に言ってごらんなさい」


ロザリンド夫人の黒い瞳が、鋭く光った。


「貴女の東棟と比べて、どうかしら」


私は、少し迷った。


でも——この人は本音を好む人だ。


「……私の部屋のほうが、住み心地はいいと思います」


「理由は?」


「ここは、見せるために作られた部屋です。住む人のことは考えられていない」


「ほう」


「椅子の位置が窓に対して中途半端で、採光が悪い。カーテンの素材は豪華だけど、温度調節機能がないから夏は暑いし冬は寒い。天井の金箔は確かに綺麗だけど、反射光がきつくて長時間いると目が疲れる」


一度喋り始めたら、止まらなくなった。


「家具の配置も導線を考えていないし、絨毯の毛足が長すぎて掃除が大変。見た目は豪華だけど、ここに住む人は多分——苦労すると思います」


ロザリンド夫人は、じっと私を見つめた。


そして——にやりと笑った。


「やっぱり、貴女は本物ね」


「え?」


「東棟を見た時から思っていたの。この公爵夫人は、本物だって」


「いや、私は別に——」


「本物は隠しても光るものよ。偽物は飾っても霞む」


ロザリンド夫人が、大きな声で言った。


「ヴィオレッタ嬢、貴女の部屋は確かに豪華だわ」


会場が、静まり返った。


「でも私は——東棟の窓辺が忘れられないの」


ざわ、と囁きが広がった。


「あの窓辺の装飾、あれは月光樹の塗料かしら? 夕暮れ時に淡く光って、まるで妖精の住処のようだった」


「わ、私も見ました!」


若い令嬢が、興奮気味に声を上げた。


「東棟の階段の手すり、触ると温かいんです!」


「私は書斎の本棚が素敵だと思いましたわ」


「あの工房、憧れますわよね」


次々と声が上がる。


全員が——東棟の話をしている。


ヴィオレッタの自慢の部屋の夜会で、誰一人としてこの部屋を褒めていない。


「——どうして」


ヴィオレッタの声が、震えていた。


「どうしてあんな廃墟が、私の部屋より……」


「廃墟?」


ロザリンド夫人が、鋭い目でヴィオレッタを見た。


「貴女、東棟を見たことがあるの?」


「い、いえ、でも——」


「見てもいないものを廃墟と呼ぶのは、教養がないわね」


会場の空気が、凍りついた。


「……っ」


ヴィオレッタの顔が、みるみる青ざめる。


私は——少しだけ、胸がすっとした。


(東棟を馬鹿にされた時だけは、本気でムカついてたからね)



夜会の帰り道。


馬車の中で、私はルシアンと向かい合っていた。


「……今日の夜会、どうだった?」


「ヴィオレッタの部屋が——」


「東棟と比べて?」


ルシアンが、珍しくはっきり言った。


「話にならない」


「……そこまで?」


「金をかけただけの部屋だ。住む人間のことを考えていない」


彼は窓の外を見ながら続けた。


「俺は——ああいう部屋で育った」


「えっ」


「豪華だが、冷たい。見せるためだけの空間。だから——」


彼が、私を見た。


「東棟に初めて入った時、驚いた」


「驚いた?」


「温かかったからだ」


ルシアンの声は、静かだった。


「あの空間は、住む人間のことを考えて作られている。すべてが——優しい」


私は、言葉を失った。


「君が作ったんだろう」


「……うん」


「俺は三年間、君が何をしているか知らなかった。知ろうともしなかった」


「…………」


「だが君は——あの廃墟を、あそこまで変えた」


彼の目が、真っ直ぐ私を見ている。


「俺は、盲目だった」


「ルシアン様……」


「だから——」


彼が言いかけた瞬間、馬車が揺れた。


公爵邸に着いたらしい。


「続きは、また」


ルシアンは、そう言って馬車を降りた。


私は——しばらく動けなかった。


(今の、なんだったの)


胸が、どきどきしている。


(いや、落ち着け私)


(まだ信用しきれないでしょ)


でも——彼の目は、確かに私を見ていた。


作品ではなく、私自身を。


(……もしかして、この人、本当に——)


私は、そこで思考を止めた。


期待するのは、まだ早い。


でも——悪くない気分だった。



ルシアンが東棟に通い始めて、一ヶ月。


彼は毎日欠かさず来る。


最初は『視察』と称していたが、最近は——


「この接合部、もう少し滑らかにできないか」


「やりすぎると強度が落ちるの。バランスが大事」


「なるほど。では、この木目は——」


普通に会話していた。


(いや、会話の内容は相変わらずDIYだけど)


でも、悪くない。


彼が私の作品に興味を持ってくれることは、素直に嬉しい。


「ルシアン様」


「なんだ」


「今度、一緒に作ってみる?」


「——俺が?」


「そう。簡単なものから始めれば、誰でもできるよ」


ルシアンの目が、一瞬輝いた。


でもすぐに、無表情に戻る。


「俺に、できるのか」


「やってみないと分からないでしょ」


「…………」


「下手でもいいの。最初から上手い人なんていないんだから」


私は、彼に小さな木片を渡した。


「まずは、やすりがけから。こうやって——」


ルシアンが、ぎこちなく木片を持つ。


「力を入れすぎないで。木目に沿って、優しく」


「……こうか」


「そうそう、上手上手」


思わず、前世のノリで褒めてしまった。


「……上手か」


「え、うん、初めてにしては——」


「もう一度言ってくれ」


「えっ」


「上手だと」


私は、ルシアンの顔を見た。


無表情のはずなのに——耳が、ほんのり赤い。


(……嘘でしょ)


(この人、褒められ慣れてないの?)


「上手だよ」


「……ああ」


「すごく上手」


「……そうか」


「才能あるかも」


「…………」


彼の耳が、さらに赤くなる。


(やば、可愛い……)


(いやいやいや、氷の公爵だよこの人)


(可愛いとか言ってる場合じゃない)


私は慌てて視線を逸らした。



「閣下、例の件、調査結果が出ました」


セオドアが、執務室で報告した。


「例の件とは」


「東棟の装飾を手がけた職人を探す件です」


ルシアンが、はっと顔を上げた。


「——そうだった」


一ヶ月前に命じていた調査。


東棟の素晴らしい装飾の数々、その製作者を探せと。


「それで、誰だった」


「閣下」


セオドアが、なんとも言えない表情をした。


「職人はいませんでした」


「——いなかった?」


「はい。東棟の装飾は、すべて——奥方様の手によるものです」


「…………」


ルシアンは、その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。


「待て」


「はい」


「つまり——あのすべてが」


「奥方様の作品です」


「階段の手すりも」


「はい」


「書斎の本棚も」


「はい」


「窓枠の装飾も」


「すべて、奥方様が——」


「——三年間で」


「はい」


ルシアンは、椅子の背にもたれた。


天井を見上げる。


「俺は」


「閣下?」


「俺は、三年間——何をしていた」


彼の声が、震えていた。


「妻があれだけのものを作っている間、俺は——」


「閣下……」


「顔も見なかった。声もかけなかった。彼女が何を考え、何をしているか——」


ルシアンが、顔を覆った。


「俺は、盲目だった。馬鹿だった」


セオドアは、黙って主人を見守った。


「彼女は——三年間、一人で」


「……閣下」


「あの冷たい廃墟を、一人で——」


「閣下」


セオドアが、静かに言った。


「気づいたなら、今からでも遅くはありません」


「…………」


「奥方様は、まだこの屋敷にいらっしゃいます」


ルシアンが、顔を上げた。


「……そうだな」


彼は立ち上がった。


「東棟に行く」


「閣下、今日の執務は——」


「後だ。これより大事なことがある」



私は、工房で新しい棚の設計図を描いていた。


「エリーゼ」


突然、扉が開いた。


ルシアンだった。


——息が荒い。走ってきたのか。


「どうしたの? 何かあった?」


「……知っていたのか」


「え?」


「俺が、製作者を探していたこと」


私は、ペンを置いた。


「……まあ、なんとなく」


「なぜ言わなかった」


「聞かれなかったから」


「…………」


「それに、言っても信じなかったでしょ」


「——それは」


「『公爵夫人がDIY?』って、みんな思うもの」


ルシアンが、一歩近づいた。


「俺は、この三年間——」


「分かってる」


「分かっていない」


彼の声が、震えていた。


「俺は君を冷遇した。顔も見ず、声もかけず——孤独にさせた」


「…………」


「その間、君は一人でここを——」


「一人じゃないよ」


私は、窓の外を見た。


「マーゴットがいたし、作りたいものがあったし——楽しかったよ、これでも」


「楽しかった、と」


「うん。私、ものを作るのが好きなの。前から、ずっと」


(前世から、ね)


「愛されなくても、私は私を好きでいられる。そう思えたのは——ここで、ものを作ってきたから」


ルシアンが、私の前に立った。


「エリーゼ」


「なに」


「俺は——」


彼が、言葉を探している。


「俺は、君が作ったすべてに——三年間、囲まれていたのか」


「え?」


「本邸の、俺の書斎。あそこの本棚も——君が?」


「……ああ、あれ」


私は少し恥ずかしくなった。


「二年前、こっそり直したの。軋んでたから」


「軋んでいた?」


「うん。棚板が歪んでて、本を出すたびギシギシ言ってたでしょ」


「……気づかなかった」


「気づかないのが正解。直した後は静かになったはずだから」


ルシアンの顔が、複雑に歪んだ。


「俺の執務机の——」


「引き出しの滑りを良くしたのも私」


「客間の——」


「窓の立て付けを直したのも私。あと、廊下の床板の軋みも」


「…………」


「気づいてないと思ったけど」


「気づいていなかった。何も」


ルシアンが、深く息を吐いた。


「君は——俺の知らないところで、ずっと」


「好きでやってたことだから。感謝とかいらないよ」


「いらなくても言う」


彼が、真っ直ぐ私を見た。


「ありがとう」


「……どういたしまして」


「すまなかった」


「それも、もういいよ」


「よくない」


ルシアンの手が、私の手を取った。


——温かい。


「俺は三年間、君を見ていなかった。だが君の作品は——ずっと俺を見ていてくれた」


「……作品が見てたわけじゃないでしょ」


「分かっている」


彼の目が、私を捉えて離さない。


「君が、俺を——」


「違っ——」


「違うのか?」


「……分からない」


正直な気持ちだった。


三年間、諦めていた。


愛されることを、期待することを——やめていた。


「俺は」


ルシアンが、ゆっくりと言った。


「君の作品に惹かれた」


「……知ってる」


「最初は、それだけだと思っていた」


「うん」


「だが——違った」


彼の手に、力が込められる。


「この作品を作った人間に——会いたかった」


「…………」


「話がしたかった。もっと知りたかった」


「……それは、作品の話を?」


「最初はそうだった。だが今は——」


ルシアンが、私の頬に手を添えた。


「君のことを、知りたい」


「——っ」


「作品ではなく、君自身を」


私の心臓が、うるさいほどに鳴っている。


「何を考え、何を好み、何に笑い、何に怒るのか」


「…………」


「三年間、知ろうとしなかった。俺の過ちだ」


「ルシアン様……」


「だから——」


彼が、額を私の額に寄せた。


「やり直させてほしい」


「やり直す?」


「夫婦を。最初から」


私は——息を止めた。


「離婚届は?」


「破り捨てた」


「えっ」


「あんなもの、最初から出すべきではなかった」


「待って、でも——」


「君が嫌なら、強制はしない」


ルシアンが、真剣な目で言った。


「だが俺は——君を失いたくない」


「…………」


「遅すぎるのは分かっている。三年間の過ちは、簡単に消えない」


「うん」


「だから、時間をかけてもいい。俺を信じられるようになるまで——待つ」


私は、彼の顔を見つめた。


氷の公爵。


無表情で、冷徹で——そう思っていた人。


でも今、目の前にいるのは——


(不器用で、真面目で、建築オタクで)


(自分の気持ちを伝えるのが、壊滅的に下手で)


(でも——一生懸命な人)


私は、小さく笑った。


「ルシアン様」


「なんだ」


「一緒に、棚作らない?」


「——は?」


「夫婦のやり直しとか、大きいこと言われても困るの。だから——まず、一緒に何か作ろう」


「……棚を」


「うん。簡単なやつでいいから」


「それが——答えか?」


「うーん」


私は、首を傾げた。


「答えは、作りながら考える。それじゃダメ?」


「…………」


ルシアンが——笑った。


本当に、微かにだけど。口角が上がった。


「ダメではない」


「じゃあ決まり」


私は彼の手を引いて、作業台に向かった。


「まずは木材選びから。好みの木、ある?」


「記憶樹は——使えるか」


「使える使える。高いけど」


「金なら問題ない」


「公爵様は太っ腹だね」


「君は公爵夫人だ。遠慮は不要だ」


「……そうだった」


私たちは、並んで木材を選び始めた。


窓から差し込む午後の光が、工房を温かく照らしている。


まだ、彼を完全に信じられるわけではない。


三年間の溝は、簡単には埋まらない。


でも——


(まあ、いいか)


(ゆっくり、一緒に作っていけば)


私は、横にいるルシアンを見た。


彼は真剣な顔で、木目を見つめている。


(この人、本当に建築オタクなんだな)


少しだけ——未来が楽しみになった。



あれから、半年が経った。


「エリーゼ、この接合部——」


「ああ、それはね、こうやって——」


私たちは、相変わらず東棟の工房にいた。


ただ、変わったことがある。


ルシアンが、毎日ここにいることだ。


「閣下、本日の執務は——」


「後でやる」


「……本日も、後で、でございますか」


「文句あるか」


「いえ。私は何も見ておりません。閣下が奥方様と手を繋いでいらっしゃることも」


「セオドア」


「はい」


「黙れ」


「かしこまりました」


セオドアが、にやにやしながら去っていく。


私は苦笑した。


「バレてるよ」


「分かっている」


「恥ずかしくないの?」


「なぜ恥ずかしがる必要がある。妻の手を握っているだけだ」


「…………」


(この人、開き直ったな)


半年前の氷の公爵は、どこへやら。


今や、屋敷中の使用人が『旦那様が変わった』と噂している。


工房に入り浸り、妻に手ほどきを受け、嬉々として木を削る公爵様。


社交界でも話題になっているらしい。


『あの冷徹公爵が、奥方様に骨抜きにされた』と。


「ルシアン様」


「なんだ」


「私、工房開きたいんだけど」


「知っている」


「許可、もらえる?」


「とうに出してある」


「え?」


「王都の一等地に、物件を押さえた。来月には開業できる」


私は、目を見開いた。


「聞いてないんだけど」


「言っていなかった」


「なんで黙ってたの」


「驚かせたかった」


ルシアンが、かすかに口角を上げた。


「サプライズ、というやつだ」


「……誰に教わったの、そういうの」


「セオドアに」


「あいつ……」


私は、呆れながらも——嬉しかった。


工房。ずっと夢見ていた場所。


「名前は、もう決まっているのか」


「名前?」


「工房の名前だ」


「んー、まだ考えてなかった」


「では——」


ルシアンが、私の手を取った。


「『アトリエ・ヴァイスガルテン』はどうだ」


「……ヴァイスガルテン?」


「俺たちの、工房だ」


私は——息を止めた。


「俺たち?」


「ああ。俺も——関わらせてほしい」


「関わるって」


「弟子として。あるいは——共同経営者として」


彼の目は、真剣だった。


「君が作り、俺が支える。そういう形を——望んでいる」


「…………」


「嫌なら——」


「嫌じゃない」


私は、彼の手を握り返した。


「一緒にやろう」


「……本当か」


「本当。——でも、弟子の分際で共同経営者はないでしょ」


「ならば、何だ」


「まずは見習いから。ちゃんと修行して、一人前になってからね」


「……厳しいな」


「当然でしょ。私、師匠なんだから」


ルシアンが——笑った。


声を出して、笑った。


半年前には想像もできなかった光景だ。


「分かった。見習いとして、精進する」


「よろしい」


私たちは、また作業に戻った。


窓から差し込む光が、工房を温かく照らしている。



その夜。


私は、窓辺に座って月を見ていた。


前世で死んで、この世界に生まれ変わって——もう二十四年。


最初は戸惑ったし、政略結婚には絶望もした。


でも、今は——


「何を考えている」


ルシアンが、隣に座った。


「んー、人生のこととか」


「人生?」


「うん。なんか——変なの」


「変?」


「三年前、離婚されたらラッキーって思ってたのに」


「…………」


「今は、離婚されたくないって思ってる」


「——離婚は、しない」


「知ってる」


「一生、しない」


「大げさだなあ」


「大げさではない」


ルシアンが、私の肩を抱いた。


「俺は三年間、馬鹿だった」


「うん」


「これからの人生をかけて、取り返す」


「……何十年もかかるよ」


「構わない」


彼の声は、静かだけど——熱がこもっていた。


「君と共に作る。君と共に生きる。それが——俺の望みだ」


「…………」


「嫌か」


「嫌じゃない」


私は、彼にもたれかかった。


「私もね、ルシアン様と一緒にいたい」


「……そうか」


「一緒にもの作って、一緒に笑って——そういうの、いいなって」


「ああ」


「だから——」


私は、彼を見上げた。


「これからも、よろしくね」


「——ああ」


ルシアンが、私の額にキスをした。


不器用で、ぎこちなくて——でも、優しい。


「俺のほうこそ——よろしく頼む」


窓の外では、月が静かに輝いている。


東棟の壁に塗った月光樹の塗料が、淡く光を放っている。


三年間の孤独の中で、私が作り上げた空間。


そこに今、二人でいる。


「ねえ、ルシアン様」


「なんだ」


「明日は何作る?」


「……君が決めろ」


「じゃあ、テーブル。二人で使えるやつ」


「いいな」


「でしょ?」


私たちは、月明かりの下で笑い合った。


愛されなくても、私は私を好きでいられる——そう思っていた。


でも今は、少し違う。


愛されることも、悪くない。


自分を愛して、誰かを愛して、誰かに愛されて——


そうやって、一緒に何かを作っていく。


それが、私たちの『夫婦』の形なんだと思う。


「エリーゼ」


「なに?」


「……愛している」


「——っ」


不意打ちだった。


「急に何」


「言葉にしないと伝わらないと——君が言った」


「そうだけど——」


「だから言う。これからも、何度でも」


「…………」


私は、顔が熱くなるのを感じた。


「……私も」


「ん?」


「私も、好き。たぶん」


「たぶん?」


「まだ三年分の恨みがあるから。確定は——もう少し待って」


ルシアンが、また笑った。


「待つ。いくらでも」


「……本当に変わったね」


「君のおかげだ」


「私は何もしてないよ」


「している。君の作品が——俺を変えた」


彼が、工房のほうを見た。


「君が作ったすべてに、俺は三年間囲まれていた。気づかなかっただけで——ずっと、支えられていた」


「……大げさ」


「事実だ」


ルシアンが、私の手を取った。


「これからは——俺も、君を支える」


「うん」


「共に作ろう。共に生きよう」


「——うん」


私たちは、手を繋いだまま——月を見上げた。


明日も、木を削って、塗料を塗って、何かを作る。


二人で。


それが、私たちの——これからだ。



翌朝。


「奥様、本日も旦那様がお越しです」


「うん、知ってる」


「本日のペンキは——」


「顔についてる?」


「ええと……」


「……ついてる?」


「鼻の頭に、少し」


「あー、またか」


私はため息をつきながら、工房へ向かった。


ルシアンが、もう木材を選んでいる。


「おはよう」


「ああ、おはよう」


彼が、私の顔を見て——微かに笑った。


「ペンキがついている」


「知ってる」


「取ってやろうか」


「いい。作業したら、またつくから」


「……そうだな」


私たちは、並んで作業台に向かった。


いつもの朝。いつもの工房。


でも——隣にいる人は、三年前と同じなのに、全然違う。


「ルシアン様」


「なんだ」


「今日のテーブル、一緒に頑張ろうね」


「ああ」


「失敗しても笑わないでね」


「君は失敗しない」


「そんなことないよ」


「俺が見てきた。君は——完璧だ」


「……それ、作品の話? 私の話?」


「両方だ」


私は——笑った。


「ルシアン様、口上手くなったね」


「君に——鍛えられた」


「誰が鍛えたの」


「君が」


「違うよ」


「では、誰が」


「ルシアン様自身が——変わったんだよ」


私は、彼に小さな木片を渡した。


「さあ、やすりがけから始めよう」


「分かった」


工房に、木を削る音が響く。


窓から朝日が差し込んで、私たちを照らしている。


離婚届から始まった、この物語。


終わりは——まだ、ない。


これからも、二人で作り続ける。


家具も、空間も、そして——私たちの人生も。


「この木目の美しさ、分かります?」


「分かる」


「分かりますよね?」


「ああ」


「——握手しましょう」


「喜んで」


私たちは、また手を繋いだ。

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