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夫が『誰のおかげで』と言い出したので。

作者: ぽんぽこ狸


 ウルフスタン伯爵邸のダイニングホール。そこでは一組の男女が静かに夕食を取っていた。そんな中、イラついた様子で男が口を開く。


「誰のおかげで、今の生活があるのか君は本当にわかっているのか?」


 夫のレックスに問いかけられて、アイリスは食事を嚥下して、パチパチと瞬きを二回した。


 そして、少し考えてから答える。


「誰のおかげかなんてそんなこと、口にする必要があるのかしら」


 たしかな答えは厳密に考えればあるのかもしれない。しかし、アイリスはわざわざそんなことを考えて決める必要などないと思う。


 なぜなら程度に差はあれど、この場にいる自分たちも、屋敷に務めてくれている使用人たちも、かかわりを持ってくれている多くの貴族もたくさんの人がこの生活を支えている。


 その事実がある以上、誰か一人をそうだと決める必要はどこにもないのだ。


 しかしアイリスの返答に、レックスは想定外の答えだった様子でぐっと眉間にしわを寄せてアイリスのことをまっすぐに見つめた。


「……感謝の一つもする気がないのか」


 絞り出したかのような言葉に、アイリスは彼が言って欲しい言葉を察することができた。


 けれども訂正するつもりなど毛頭ない。静かに食器を置いて彼を見つめ返す。


「俺が、王城に務めて、俺が、出世して事務官長になって、俺が自分の時間を削って働いて、俺が、貰った給金で、俺が、相続した屋敷で」

「……」

「俺の財産で、この生活は成り立ってる。今、食べている物も、君が着ている服も、君が当たり前のように使っている使用人も、家具も食器も何もかも」


 彼はとても神経質に一つ一つ言葉を区切ってアイリスに言い聞かせるように丁寧に言った。


「全部俺のおかげで、あるものだ。それを君は我が物顔で使って、食べて、暮らして感謝の一つもないのかよ」


 忌々し気に彼は言葉を紡ぐ。


 もちろん感謝はしている。


 帰ってきたときにもねぎらいの言葉も掛けた。


 ただ、アイリスもアイリスのやるべきことをやっている。使用人を采配し、現状の屋敷を維持するためにさまざまなことを常日頃こなしている。


 だからこそ施しを受けているというわけではない。


 感謝はするが、お互い様だろう。


 誰か一人だけのおかげで今の暮らしがあるわけではないのだから、媚びるつもりも、へりくだるつもりもまったくない。


「はーあ、俺は嫁選びを間違えた。アイリスは家では、何もしていないのに職場の連中は、俺の働きをいつも働いてた頃の君と比べる」


 それを不満に思っていることも、アイリスは彼の話の端々から感じ取っていたが、それを承知で同じ職場の中で結婚を申し込んだのだろう。


 そんなことぐらいは予測していると思っていた。


「全部、俺の功績で、俺のおかげなのに、当の君すらその態度だ。こんなに良くしてやっているのに」


 結婚当初は、レックスもアイリスのことを尊重してくれていた。


 いつからこんなふうになったのか、明確な転換点があったわけではないと思う。


 しかし、しいて言うなら義父母が比較的早く他界したころからだろうか。


 彼よりも、身分が高い人間がいなくなり彼は変わっていった。


 言葉を尽くしたこともあった。


 使用人たちと協力して何か不満があるのかと慎重に聞き出したりもした。


 しかし、元同僚の王国事務官のリオンから聞く限り、職場での目下の人間への態度も酷くなってきているらしい。


 それを聞いてやっと気が付いた。


 彼は、変わったのではなく、隠さなくなったのだ。


 自分の横暴さも、傲慢も、自分がそう振る舞っていい場所を見つけたら、それを恥ずかしげもなくさらけ出して気持ちよくなりたい。


 そういう人間だったのだ。


「どう思ってるんだ。君は、もっと俺に尽くすなり、態度を変えるなりあるだろ」

「そうね」

「俺が全部君に与えてるんだ。俺のおかげで、君のすべてがある」

「……」

「そんな君がどんな態度を取るべきかわかるだろ?」

「……ええ、わかりますよ」


 過激な言葉を使うわけでも、暴力をふるうわけでもない。


 ただ彼は着実に、自分が働いているという事実を振りかざして、アイリスのことをいのままに操ろうと言葉を重ねた。


 そんな彼の言葉に同意してアイリスはちらりと侍女のドロシアに視線を向けた。彼女は、目が合うと小さく頷いた。


 それからレックスに視線を戻して、アイリスは目を細めて彼を優しく見つめた。


「全部があなたのおかげで回っていて、すべてがあなたの功績で今の生活があるなら。私なんていりませんね」

「……」


 アイリスが言うと、レックスはキョトンとして眉を少し上げた。


「一人でいいじゃない。あなた一人で好きに生きたらいいのよ。あなたの人生に私は必要ないし、もちろん、私の人生にもあなたなんて必要ないわ。私だって一人で生活できるから」

「……なっ、なにをいって」

「だから、いらないでしょう。お互いが。お互いが無駄だと言っているのよ」


 アイリスはにこやかなまま冷たく言い放った。


 レックスはただ、混乱した様子で「は?」「なんで?」と短い疑問の声をあげている。


「どうぞお一人で生きて行ってくださいね。全部あなたの力で今の生活のすべてがあるんでしょう? ならあなた一人で全部十分ね。他人なんて無駄でしょう」

「……い、いや、違うだろ。俺にだから、君はもっと感謝をすればそれで……」

「ふふふっ、いやね。レックス。どうして私があなたにへりくだって感謝してまで、あなたのそばにいないといけないの? いいわよ。私、自分できちんと稼げますから」

「……」

「あなただって、全部自分一人で稼いでるのにどうしてこんな女を養わないといけないんだって思っていたんでしょう?」

「……」

「ちょうどいい機会でしょう。あなたの努力の結果は全部自分の為に自分だけを養うために使えばいいのよ。私はもういらないわ」


 言いながらアイリスは少し行儀が悪いと思ったがもう、この場に用はなくて、席を立った。


 すると、レックスは咄嗟にテーブルに手をついて同じように立ち上がる。


「ま、待てよ! い、いいのか? このままじゃ離婚だぞ!」


 切り札のように彼は結婚生活自体を引き合いに出して、アイリスは、その言葉に、少し立ち止まって小首をかしげた。


「今更離婚して誰が君の手を取る? 仕事だってブランクもあって、それに伯爵夫人という立場で、自堕落に生活していた君になにが━━━━」

「あら、もしかして私に縋っているの? あんなに全部自分のおかげでと恩着せがましいことを言っていたのに?」

「っ……そんなことあるわけないだろ! 俺は離婚なんて願ったりかなったりだっ!」

「じゃあ、成立ね、今までありがとう」


 アイリスとレックスがその言葉を交わすと、丁度給仕のためにやってきた侍女がキョトンとしながら二人のことを見比べる。


 それから、メイン料理の乗ったお皿を適当に置いて、さっさと手を拭いて去っていく。


 続いてレックスのそばにいた従者が、はぁーとため息をつきながらタイを緩めて、ダイニングホールの出入り口に向かって歩き始めた。


 アイリスも侍女を引き連れて、扉を開けてもらい、厨房の方からも人が出ていく。


 ぱたぱたと駆けていく女性使用人、軽蔑する視線を向ける男性使用人。


「なっ、は? おいっ、おい!」


 レックスが声をあげるが誰一人止まることはなく、アイリスや使用人たちは、その日のうちに多くの者がこのウルフスタン伯爵邸を後にしたのだった。





 レックスはアイリスが去っていく様子を見ていて、引き留めて謝罪をするという選択肢が思い浮かんだ。


 しかし今までの自分の行動や言葉が脳裏によぎる。


 間違っているなどとは微塵も思わないし正しい言葉や行動のはずだった。


 どこからどう見ても事実であることはかわらない。


 レックスがアイリスを養ってやっていて、もっと感謝するべきで、自分がいなければアイリスだって困るはずだ。


 だからもっと感謝をして敬うべきだというレックスの主張は、なにも間違っていない。そのはずだ。


 だったらアイリスを止める必要なんかない。


 意地を張ってじゃあ自分なんていらないのねと言って出ていく女のことなんて、思い知ればいいと思って切り捨てて、スッキリするはずである。


 なにも自分は間違っていないはずだ。


 そう思って拳を握って、沈黙する。


 使用人だって、アイリスが実家から連れてきた連中が多少いたから、無礼にも主人の呼びかけにも応答せずに去っていっただけで、心配なことなどあるはずない。


 父や母の資産を相続し、ウルフスタン伯爵となったレックスには手足となる使用人は山ほどいるはずだ。


 彼らがいればレックスが困ることなど何もない。


 そうわかっているのにどこか不安がぬぐい切れなかった。


 それに気がつかないふりをして、レックスはどっかりと腰かけて、大きくため息をつく。


 気晴らしに酒でも飲もうと、視線を配った。


 ダイニングホールで給仕や身の回りを世話していたレックスの従者はアイリスが連れてきた連中だったようで、誰一人としてレックスのことを窺っていない。


「おいっ! そこの、ワインを持ってこい」


 なのでこっそりと最後にダイニングホールを出て行こうとしていた、使用人に声をかける。


 すると彼女は、レックスの声になどまったく反応せずに、子ネズミのようにちょろちょろと走っていって、ダイニングホールの扉をぱたりと閉めたのだった。


「……」


 それからレックスは、真顔になって、酷く不幸な自分が惨めになってもう今日は眠ってしまおうと考えた。


 突然、別れを切り出した非常識なアイリスのせいで、使用人たちも混乱しているに違いない。


 きっとベッドに入って明日になれば、上級使用人たちが屋敷の新たな指揮系統をきめて、ウルフスタン伯爵邸をいつもと同じ状態に戻すだろう。


 ウルフスタン伯爵家には長年勤めてくれている使用人たちも数多くいるはずだ。


 父や母はそれらを誇りに思って、常に美しい屋敷を保ち人を招くことで貴族としての格を維持していた。


 それらを丸ごと相続したのだ、レックスはなにもたった一日、屋敷の混乱のせいで自分が惨めな思いをしたぐらいで癇癪を起すような子供ではない。


 そう思えば、使用人たちのために眠ってやることぐらい造作もないことだった。




 翌日、目が覚める。いつもよりもぐっすりと眠ることができたが、それは誰にも起こされることがなかったからだった。


 時間は昼を過ぎたころ、レックスの部屋には誰一人もいない。


 どうしていつもの時間に起こすことができなかったのかと叱る相手すらいない。


「……クソッ……ま、まぁいい、どうせ離婚するんだ、その関係で遅れたことにすれば……それにしても、何故誰もいない」


 ベッドから出て、部屋の中をくまなく見まわすが、やはり従者の一人も出てくることはない。


 ベッドサイドに置いてあるベルを鳴らして使用人を呼びつけるが反応がない。


「おい! 食事の支度はどうなってる、身支度を早く済ませてくれ」


 扉に向かって声をかけるが、まったくもって応答がない。


「……」


 数歩進んでドレッサーに移った自分の姿を見る。


 寝癖がついているし、こんな服装ではとても外に出られない。


 なにより目覚めの一杯も用意されていないし、他にも様々なことに苛立って「早くしろ!」と自分の部屋の中で声をあげた。


 しかしやっぱり反応がない。


 その様子に、レックスは今までに一度も味わったことのない異常を感じてぞくりとする。


 こんなことは人生で一度も経験したことがない。


 なにか、とんでもない事件でも起こって、夜盗にでも使用人たちが惨殺されたのか。


 そんな可能性すら思い浮かんで、部屋から飛び出して、廊下を歩く。


「おい! 誰かいないのか!」


 声をかけながら速足で使用人を探す。


 どこもかしこも異様な光景で、開けっ放しの扉、台座から落ちている花瓶。


 貴族が足を踏み入れる場所ではない洗濯場へも向かうと、そこには平民の下働きが数名おり、頭をさげた。


 しかし探しているのは彼女たちのような下賤の民ではない。


 あちこちの扉を開けて、レックスは自分の世話をできる人間を探し回った。


 そして文句の一つでも言ってやろうと躍起になっていたが、最後に先日、ことが起こったダイニングへと向かった。


 するとレックスが乱暴に開いた扉がそのままになっているところを見つけた。


「…………」


 あの時のまま、放置されているダイニングには一晩放置されて腐敗しているメインディッシュが置かれている。


「…………うそ、だろ」


 そうしてやっと、レックスはレックスの生活を支えていた大切な人々が丸ごといなくなったことに気がついた。


 「誰のおかげで」その言葉に彼女が答えなかった理由がわかりそうになった。


 けれども受け入れられずに、また「おい! おいっ!」と呼びかけながら屋敷を歩き回ったのだった。







 アイリスはウルフスタン伯爵邸を出てから、実家のリドゲート公爵邸に戻った。


 ついてきた使用人たちにはとりあえずの休暇を出して、受け取る人間からはきちんと辞表を受け取った。


 それから、使っていなかった自分の屋敷を整えてもらいそちらに移り、生活を始めた。


 その屋敷は、婚前に親戚から格安で譲ってもらった屋敷だが、あってよかったと今更思った。


 レックスは、後日離婚について少し渋ったが、ならば自分が間違っていたと認めて、謝罪をするべきだと返せば、自分は間違っていないの一点張りで無事に離婚することができた。


 そして、離婚が成立するころには仕事も婚前と同じく王城勤めの事務官に決まった。


 以前の事務官長の地位ではなく一般の事務官だけれど、それでもアイリスは嬉しかった。


 その準備のため……とそれから今の彼の状況を聞くために、アイリスは元同僚であり親戚筋のマーウィン伯爵家の次男のリオンをもてなしていた。


 ドロシアが丁寧にお茶を淹れて、アイリスはゆったりと口に含んで何から話をしようかと考えた。


 せっかくの休日に時間を作ってもらったが彼のためにも簡潔に済ませようと考える。


 しかし、リオンはアイリスと目が合って少ししてから、ぽつりと言った。


「酷く荒れてたよ。彼」

「……迷惑をかけたかしら、ごめんなさいね」

「ううん。全然、君のせいじゃないし……ただ、状況は知りたいかなと思ったんだけど」


 謝罪のためではなく、気になるだろうと思って話し始めたことをリオンは示して、アイリスはその言葉に「それなりには」と短く返した。


 すると彼は、アイリスが出て行った翌日からそれ以降のことと思われるレックスのことを話す。


「無断で欠勤した日があって、翌日にはやってきたんだけど、一目でわかるぐらい乱れていてね。なにがあったのかと同僚たちが聞くと君の悪口を言うばかりで、話にならなくて」

「……」

「さらには離婚することになりそうという話と、もし君が復帰しようとしたら阻止すると豪語していて……」


 おおむね想像通りの行動をしていたらしく、アイリスは少し安心した。


 ああして、レックスの言葉に対抗するようにアイリスは屋敷を出た。


 彼は、自分の現状が何で成り立っているのか思い知るべきだと思ってはいた。


 けれど、実はそれを確実に思い知らせられる確証はなかった。


 アイリスは自分の連れてきた使用人たちには、彼の言動から離婚も視野に入れているという話もしていた。


 だからこそ晩餐会の件があってすぐに、使用人たちも立つ準備も始めた。


 問題は義母や義父の代から仕えているウルフスタン伯爵家の使用人たちだった。


 彼らには長年の思いもあるだろうし、実際にレックスにも献身的に仕えていた。


 しかし同時に、彼の考え方に、苦言を呈したものは大抵、彼に解雇を直接告げられて元から数を減らしていたが、それでも少数は残っていた。


 そんな状況でも生活に支障がなかったのはアイリスが、効率よく使用人たちを采配していたからであって、本当は彼一人だけでは到底、悠々自適な生活は成り立たなかった。


 彼がそうして乱れた姿でやってきたということは、きっとアイリスが状況を把握していない使用人たちも、これを機会に、思いあがった彼の元から逃げ出したのだろう。


 ……その選択はきっと正しいわね。レックスに仕えていてもきっとずっと報われないままだと思うもの。


 アイリスは彼の屋敷を維持するためにやってきた努力や配慮を思い出す。


 彼が自由に散財して余った金額だけを使って、彼の誇りの美しい屋敷を維持するのはそれなりに難しかった。


 多く安く仕入れるために保管庫はいつもパンパンだったし、調度品は多少訳アリのものでも買い付けて傷が気にならないように修繕をして使ったり。


 実入りは多くないのに、神経を使う仕事が多かった。


 そのうえで、レックスは人の努力など見もしない。あれは気が付いていないのではなく、気が付きたくないだけなのだ。


「それで結局、事務部長はあしらっていたけれど、離婚したのと同時に降格になったよ。遅刻や無断欠勤を理由に」

「……なら、私が働き始めたら同僚になるわね」

「っふふ、職場がピリつきそうだねぇ」

「あら、そう? ……ねぇ、リオン」

「うん」


 リオンはアイリスの言葉にのんびりと返して笑う。


 その様子にレックスとも昔はこんなふうにまったりと話をすることができていたことを思いだす。


「……あの人はどこから変わったのかしらね。そもそもの話だけれど、ウルフスタン伯爵家は王族派閥の貴族ではないでしょう」

「そうだね」

「もともと仕えていた侯爵家に没落の兆しが見えたから、王城で勤めることを決めたという事情は知っていたわ。そしてだからこそ、私の実家のような伝手を欲しがっていたことも知っていた」

「うん」


 アイリスは思い出すように事情を口にした。


 ウルフスタン伯爵や、マーウィン伯爵家のように土地を持たない貴族たちには、特権はあっても収入がない。


 だからこそどこかの貴族に仕えたり、騎士や魔法使いの職について、収入を得る。


 それは一般的なことで、アイリスの実家であるリドゲート公爵家は根っからの王族派閥で、土地を持っていつつも親類もろとも王族の側近や王城勤めの貴族を多く輩出している。


 そして、ただの王城勤めよりも、王族の側近と言える地位である専属事務官になることが出世への道筋だ。


 それは多くの王族派閥の貴族もそうではないよそからやってきた貴族もかわらない。


 けれどももちろん、派閥というのは出世に純粋に影響する。


 アイリスが、いくら成人と同時に、王城勤めをしていたからといっても婚前にレックスと同じ地位の事務官長についていたのは実家という後ろ盾があったからだ。


 王族が安心してそばにおける人材だと判断されていたからこそ、実績を積むために昇進させられ、しばらくしたら専属に引き抜かれるだろうとも言われていた。


 そんな中、熱烈にアピールをしてきたのがレックスだった。


「私と結婚したら、入り婿でなくてもリドゲート公爵家の親戚筋になる。それが彼らにとってどれだけ大きなことかわかっていた」

「……」

「実際に結婚してレックスにはすぐに昇進の話が来たわ。……義母も義父も善良な人だったし、うまくやっていけると思っていた、でも難しいものね……リオン」

「……そうだね」


 つまるところ、レックスの仕事で現状を支えているのはアイリスの実家の力だった。


 誰のおかげで、今の暮らしがあると思っているのかという彼の問いかけの答えは、半分以上レックス以外の人物のおかげだとアイリスは思う。


 そしてその中にアイリスのおかげという部分もあったと思う。


 けれどもアイリスはそんなふうにレックスに言ったことなど一度もなかった。


「もっと彼に大きな態度で接して都度都度わからせるように言っていればよかったのかしら。私の功績はこんなに大きくて、こんなに貢献しているって」


 そういうふうにアイリスが行動していれば可能だったかもしれないと思う。


「でもそんなふうになりたくないわ。だってたくさんの人が支えてくれるから自分の生活があるなんてあたりまえでしょう? それをいちいち言わなくてはいけないなんて自分が嫌になりそうですから」

「そんなふうには暮らしたくないよね。でも結局のところ、その人次第じゃないのかな。俺は、もし君がそう言っていても、ぶつかることが増えただけで彼が変わっていたとは思えないよ」


 アイリスの言葉に同意しつつもリオンは、人それぞれという言葉を返す。


 けれども今のアイリスにその言葉は響かなかった。


 信用していた人があんなふうに変わって、もし自分に彼から離れる手立てがなかったらどうなっていただろうと思うと恐ろしい。


 それに実際に離れられない人もいるのではないだろうか。


 そう思うと、どうにも人それぞれという言葉だけでは納得できない。


 多くの人は、自分が力を持った途端人の優しさを忘れてしまうようにできているのではないだろうか。そんなふうにすら思う。


「そういう人もいるしそうじゃない人もいる。尊重し合って、関係をもてる人もいるはずだよ。実際アイリスなそうなんだし。……大丈夫、きっとまた、いい人が見つかる……と思うよ」


 難しい顔をしているアイリスに、リオンは少し言い淀みながらも最後まで言った。


 それも、多くの人から言われた言葉だ。


 これからきちんと仕事をして、爵位継承者じゃないにしても、いい人を探して女の幸せを手に入れればいい。


 多くの人にそう励まされた。


「それに、もう、後悔はしたくないから、言うけれど。俺、君のことがずいぶん前から好きだった」


 ふとリオンの話は急な方向転換を見せて、彼はアイリスに真剣な瞳を向けた。


 しかし、アイリスの気持ちは動かない。


「俺は爵位継承者じゃないし、君が結婚したころはまだまだ、下っ端で……でも今は以前の君と同じ地位にいるし、専属への未来も見えてきた。長く勤めれば爵位をもらえることもある。努力を怠るつもりはないし、もちろん君をないがしろにするつもりもない」

「……」

「どうか、少しでいいから。考えて……もらえないかな」


 リオンの頬は赤く染まっていて彼の言葉はとても真摯なものだった。


 しかしアイリスは、驚く気持ちもあったけれど、それ以上に冷めた気持ちで口を開いた。


「ごめんなさい。私、自分の多くを人任せにするのはもうごめんなの」

「っ……仕事をやめてほしいとかそういう、君を縛ることは一切、言うつもりはないよ」

「それでも」

「……それでもか」

「ええ」

「そっか……わ、わかった。でもいつでも気分が変わったら教えてね。アイリス。俺は、多分、あまり心変わりをしない方だから」

「……ええ」


 彼は、さらに自分の言いたい言葉を飲み込んで、それでも穏やかに笑った。


 長い付き合いなので、その笑みの裏に傷ついている心があることをアイリスはきちんと見抜いていた。


 けれども、きっと誰だって同じだろうと思ってしまっている心がある。


 きっと彼もアイリスが、また仕事で功績をあげれば結婚して自分のものにして奪い去って、自分の見たいものだけを見て振る舞うのだろうと思う。


 それはレックスに限ったことではなく、きっと世の中の人間の大抵がそうなのだろうとすら思う。


 だからこそアイリスはもう自分の主導権を誰かに渡したくはなかった。





 一年もすれば、アイリスは元の役職への昇進の話が出ていた。


 最初の方はレックスと鉢合わせたり、新しく形式が変わっている部分に戸惑ったりと忙しくしていた。


 けれど次第に落ち着いて、レックスはアイリスが知らないうちに退職したらしい。


 そんなわけで、めでたいことはめでたいけれど、同時にアイリスは結婚をあきらめているというふうにみられることが多くなった。

 

 しかし、リオンはまったくもってそうではない。


 専属への引き抜きがかかって彼もまだ二十代後半だ。


 将来有望な結婚相手として多くの令嬢が狙っているという話を聞く。


 それなのにどうしてか彼は、アイリスを気にかけて何かとアイリスとともにいることが多かった。


 お祝いのお茶会に誘われて向かうと、彼はプレゼントを用意してアイリスのことをもてなした。


 にこやかに仕事の話や情勢の話などをしているが、こうして一緒にいても、だからと言って結婚を迫ってくるということもない。


 それがどうしても不思議でアイリスはついつい彼に問いかけた。


「ところで、リオン」

「うん」


 名前を呼ぶと彼は小首をかしげて、金髪がさらりと揺れる。


「……私はこうして昇進したし……あなたもほかの人も知っている通り、結婚にはもう未練も何もないんですよ」

「そうだろうね」

「……だからね、私あなたの貴重な時間を無駄にしてしまっていないかしら?」


 当たり前のように肯定する彼にアイリスは、まっすぐに聞いた。


 そろそろ、アイリスのことなど忘れて結婚を意識して動き出した方がいいだろう。


 そう考えての配慮だった。


「私も下手にあなたと仲良くしていたのには問題があったと思うけれど、もう別の結婚相手を探すべき時に、来ているんじゃないかしら」


 さらに続けると彼は、キョトンとしてそれから、少し考えてアイリスに言った。


「……その……うん。あの、俺なんて言ったらいいかな」

「?」

「……たしかに、結婚って意味だとそうだね。そうだと思う、アイリスは結婚するつもりがないし、俺はこうしていても意味がないって思われるのもわかるよ」

「ええ」

「でも、そうじゃなくて、俺もあのとき言葉を間違えたと思うけど、そのね……」


 なんだか煮え切らない様子で彼は、言葉を探して、ううんと少し唸ってから、とても嬉しそうに言った。


「俺は、君が好きってだけなんだ」

「……どういう意味かわからないわ」

「だから……俺が君とそばにいて、なんだか日常的なことを話したり、時にはプレゼントとかをしてもいいっていう状況がほしいぐらい君が好きで」


 彼のその言葉はまるで、十代の恋愛の熱に浮かされている少年のようだったが、自然と恥ずかしいとは思わない。


「別に、結婚がしたいから、好きって言っているわけじゃないんだよ。君と一緒に居られる権利があればそれで、問題ないなって思ってるから。結婚は俺もしないよ」

「……」

「結婚は手段だから。目的じゃないし、うまく伝わってるかわからないけど、俺はこれで今、嬉しいし、君が嫌じゃなければこれからも、こうして話したり、出かけたりしたいな」


 その彼の言葉に、アイリスは目からうろこが落ちるようだった。


 彼の言葉はアイリスの人生をどうこうしたいとか、アイリスになにかをさせるために紡がれていたわけではない。


 アイリスが楽しいことを一緒にやったり、そばにいて話をしたり、そんな些細な日常を共有するためだけにそばにいる。


 そのために好意を伝えたに過ぎなかったのだ。

 

 だから懸念していたようなことは彼にとってまったく必要ないことで怒りえない。


 こんなふうに思ってアイリスの気持ちを尊重して、自分も外聞など気にせずに結婚しない道を選ぶ彼が、たかが稼ぐ力を一人だけもったところで、横暴になるわけもない。


「ちょっと、照れくさいね。とにかく、無駄になんてなってない。ずっと今も今までも、これからも、好きだし。一緒に居られて嬉しいよ」


 その言葉がダメ押しになってアイリスの胸は小さく鼓動を高鳴らせる。


 アイリスだって、彼のことを好ましく思っている。そうでなければ長年関係を続けたりなんてしない。


 けれども、結婚という一世一代の決断をして破綻したという事実は、他人を見る目を曇らせるのに十分で、ずっと暗雲の中にいた。


 今やっとそれが晴れた気がする。


 彼は、リオンは、アイリスのことを好きになってくれていて、アイリスも同じ気持ちがある。


 それなら、前に進みたい。


 随分と時間がかかってしまったけれどそれでも、気がつかせてくれたリオンとのことならば怖くなかった。


「……ありがとう。なんだかすごく嬉しくて……あなたの気持ちがとてもよく理解できて、今更……やっとあなたのことまっすぐ見ることができたと思う」

「そ、そっか。言った甲斐があったね」

「ええ。……あの時の気が変わったらいつでもと言っていた言葉。まだ有効かしら」




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― 新着の感想 ―
無意識のうちに心が疲弊して誰も信じられなくなっていたのですね。 時と共に少しずつ傷が癒えてきたからこそ彼の言葉がストンと落ちてきたのでしょう。 これからはゆっくりゆっくり進んでいきながら幸せになって頂…
「誰のおかげで」一番聞きたくない言葉の一つですね。 自分以外を見下している感じです。 結局は一人では生きていけないという教訓を痛感させられたのですが。 慕ってくれている同僚とくっつくのかなと思ったら…
離婚したヒロインの側に彼女をずっと想ってくれていた人がいて、じゃあ結婚しましょ。めでたしめでたし。 とはならないお話、そういえばあんまり読んだことないなあ、と気が付きました。 途中で、ラストかな?と思…
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