第四貫 閃光と拘束
低い唸り声が、神殿の石壁を震わせていた。
崩れかけた柱の隙間から、獣の目がいくつも光る。
昨日の草原で出会った魔物と同じ姿――犬ほどの体に甲羅を背負い、牙をむき出しにした獣が、じりじりと迫っている。
「数が……多い」
エルナが震えた声を上げ、番人は槍を握りしめたが、手が小刻みに震えている。
俺はおひつの蓋に指をかけ、深く息を吸った。
残るのは村で炊いた麦のような穀物――米モドキ。
本物の白米に比べれば、握った寿司は威力も精度も落ちる。昨日の戦いで嫌というほど分かっている。
けれど、今はこれしかない。
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「……アジだ」
俺は米モドキをひとつまみ。
脳裏に浮かぶのは、銀色に輝く青魚の姿。
アジは寿司屋で「光物」と呼ばれる。
表面が光沢を放ち、見た目からして鮮烈。
光をまとって輝きを放つ、それが光物の寿司だ。
「目をつむれ!」
俺はエルナと番人に叫び、自分の目もぎゅっと閉じた。
次の瞬間、手の中の握りが破裂するように閃光を放つ。
――石壁が白く焼き付いた。
魔物たちは一斉に悲鳴を上げ、甲羅を地面に擦りつけ、目を覆うように身をよじる。
「効いた……!」
光物の役割は、相手を魅せ、惑わせること。
その本質を、この世界では閃光として具現化したのだ。
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だが、魔物の数は減らない。
視界を取り戻そうと、奴らは必死に唸り声を上げている。
長くは持たない。すぐに突進してくるだろう。
「エルナ、番人! 奥へ下がれ!」
俺は叫び、再び米モドキをひとつまみ。
「……次はタコだ」
タコは寿司屋では「茹でダコ」として握られる。
強い弾力と独特の甘み。噛めば噛むほど旨みが染み出す。
何より、その吸盤は海底の岩にしがみつき、容易には離れない。
――なら、この世界では拘束の術になるはずだ。
握りを完成させた瞬間、寿司は光を帯び、床を這うように広がっていく。
「バシィィィッ!」
巨大なタコの足が神殿の入り口を塞ぎ、吸盤が石壁にぴたりと貼りついた。
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魔物たちが突進する。
「ガァッ!」
牙をむき出しにした一匹がタコの足へ食らいつくが、吸盤に絡め取られ、動きを封じられた。
二匹目が横から突っ込むが、弾力のある足に弾かれて地面に転がる。
「すげぇ……」番人が呆然と呟いた。
俺は歯を食いしばる。
米モドキの寿司は、本物ほどの力はない。
タコの足も、所々で透けるように揺らめいている。
長くはもたない。
「今のうちに奥へ行くぞ!」
エルナの手を引き、番人を促す。
俺たちはタコの足が作り出した即席の壁を背に、神殿の奥へと駆け込んだ。
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石造りの廊下を走る。
背後では魔物たちが暴れる音が響き、吸盤が石をきしませていた。
だが、寿司は確かに時間を稼いでくれている。
「……やっぱり、寿司はただの飯じゃねぇ」
俺は走りながら呟いた。
光で惑わせ、粘りで縛る。
寿司は海の知恵を受け継いだ技術であり、ここでは命を繋ぐ力になる。
けれど、胸の奥にはひとつの不安があった。
――これは米モドキでの力だ。
本物の米なら、もっと確実に、もっと強く発動できる。
この差は、いずれ命取りになる。
「アオイさん……」エルナが俺の袖を掴む。
その瞳には恐怖と、同時にかすかな希望が揺れていた。
「大丈夫だ。必ず神穀を見つける」
言葉は自分を奮い立たせるためのものだったが、吐き出すと不思議と胸が軽くなった。
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やがて廊下の奥に、また別の広間が姿を現す。
その中央には、砕けた石の台座。
そこに、稲穂の形をした石の彫刻が残っていた。
「これが……」
エルナが声を震わせる。
「神穀を祀った祭壇……」番人が呟いた。
だが、その瞬間。
祭壇の陰から、新たな気配が立ち上がった。
先ほどの魔物とは比べ物にならない、重く濃い気配。
「……まだ続きがあるってわけか」
俺はおひつを抱え直し、指先に米モドキの感触を確かめた。
――寿司職人として、この世界で生きる覚悟を試されるのは、これからだ。