第三貫 神穀の伝承
村の朝は、包丁の音ではなく鶏の声で始まる。
窓から差し込む光に目を細めながら、俺は布団代わりの毛布をどけ、厨房に向かった。
「しかし、この世界の鉄は柔らかいな。」
借り物の包丁を試し切りしながら呟く。魚をきれいに捌くには硬度が足りない。切れるには切れるが、身が潰れる感触が指先に伝わってくる。
元の世界では、砥石で刃を研ぎ澄まし、包丁は手の延長だった。だがここでは、それが贅沢な環境だったと気づかされる。
お櫃とセットで渡された包丁は、おそらく俺が普段仕事で使っていたものと同じものだろうが、今はしまってある。
あれは俺にとって仕事のための道具であり、サバイバルのための道具じゃない。ましてや戦うためのものでもない。
この世界での道具は、この世界で使おうと考えた。
そんなことを考えていると、庭先から元気な声が飛んできた。
「アオイさん!」
振り向くと、エルナが籠を背負って駆けてくる。髪に朝露が光り、息が白い。
「お祖父ちゃんが、神穀のことを知ってる人に会ってこいって」
村長は朝食後、俺を囲炉裏端に呼んだ。
「南の森の外れに古い神殿跡がある。そこに記録を守る番人が住んでおる」
皺だらけの手で湯飲みを押し出しながら、老人は言葉を続けた。
「神穀は幻だ。だが、もし見つかれば村を救う……おぬしの力も、だな」
――翌日、俺たちはその神殿跡に向かった。村長は俺の魔法のことをすぐに信じてくれた。娘を助けたということもあると思うが
米というものに対して、不思議と理解があるようだった。神穀とは、そこまで米に近しいものなのだろうか?
どちらにせよ、神穀が見つからなければ、この世界で寿司魔法を続けることはできない。
このおひつも、ただの木桶になる。
森へ向かう道は、しっとりと湿っていた。
「魔物は昼間は少ないんです。夜になると活発になりますけど」
エルナは薬草を摘みながら説明する。
「でも、神殿跡の周りは……あまり行かない方がいいって言われてます」
「理由は?」
「神穀を狙ってきた魔物たちが、まだうろついてるって」
俺は背負ったおひつに手をやる。
一応持ってきてみたが、中の米は米じゃない。村でとれる麦のような穀物の中身を炊飯してみた、米モドキだ。
昨日、一日使って大急ぎでこさえてきたのだ。
魔法として使えることは実験済みだが、威力も弾道の制度も半分以下どころではない。近距離で撃たなければならないし、
あたっても一発じゃ仕留められないだろう。最初の白米は、初回特典ボーナスみたいなものだったらしい。
しかし、雑な分今回は材料がたくさんある。数で何とかするしかない。
森を抜けると、苔むした柱が姿を現した。
崩れかけた屋根の下、入口の影からひとりの老人が現れる。
背は曲がっているが、目は鋭く、まるで熟練の板前が客の動きを読むようだ。
「旅人か……いや、その腰の桶、ただの道具じゃないな。何用か?」
「少しややこしいので訳だけ話す。神穀を取り戻すために来た」
「神穀を…!」
番人は俺とエルナを神殿跡に招き入れた。
中はひんやりとして、空気は海辺の朝のように澄んでいる。
壁一面に、色あせた壁画があった。
黄金色の穂を背負う人々と、その穂を奪おうと群がる黒い獣たち。
「これが……神穀」
エルナが呟く。
番人は頷き、指で穂の部分をなぞった。
「神穀は千年前、この地を豊かにした。しかし、その香りは魔物を狂わせた。人々はそれを隠し、やがて失われた」
「……この粒、米に似てるな」
壁画の神穀は、完全に白米だった…!
番人は俺を見据えた。
「お主、神穀を知っておるのか」
「米は……俺の世界じゃ主食だ」
「……そうか」
番人の声が少し柔らかくなった。
そのとき、神殿の外から低い唸り声が響いた。
耳に覚えのある音――昨日の魔物と同じだが、数が多い。
石壁の向こうから、複数の影が差し込む。
「魔物……」エルナが短く息を呑む。
番人は壁際の槍を手に取ったが、その手はわずかに震えている。
「外に出れば囲まれる。中で迎え撃つしかない」
俺はおひつを置き、蓋に指をかけた。
「アオイさん…」
「……わかった。寿司職人の意地と腕前、見せてやる」
偽の米をひとつまみ。
脳裏に浮かぶのは、アジの握り。
青魚の香り、締めた身の締まり具合、脂ののった背――その一瞬の映像が、光と力に変わる。
この世界で生きるための戦いが、また始まった。