第二貫 一触即握り
夕陽が、草原を赤く染めていた。
小川のほとりで風が止み、世界が静まり返る。
……いや、違う。沈黙の裏で、微かに物音が聞こえる。
「……複数、来ます」
背後のエルナが小さく呟く。
包丁を握る指先に、薄い汗が滲む。お櫃もすぐに手に取れる位置に置く…。
茂みを割って現れたのは、さっきの魔物と同じく甲羅を背負った獣――だが、数が違う。三匹。
低い唸り声を上げ、獲物を囲むようにじりじりと間合いを詰めてくる。
残るシャリは、わずか二貫分ほど。
これを使い切れば、俺の魔法は終わる。1匹に1発ずつでは足りないし、突然飛び掛かられれば握りの速度が間に合わない。
正直、俺1人なら逃げ切れるかもしれない。あったばかりの少女を守る義理があるのかどうか、一瞬考えた。その時、脳裏に親方の顔が浮かんだ。あの人は頑固で怖かったが、絶対に人を見捨てなかった。何度も何度も、不器用な俺に握りを教えてくれた。見捨てる選択肢などない。
左手でおひつの蓋を開け、指で米をひとつまみ。
炊き立ての香りとともに、体の奥に温かい力が流れ込む。
握る瞬間、脳裏に浮かんだのは、真っ白なイカの握り。ヤリイカ…鋭く…早く握るッ!!
握り終えた刹那、ヤリイカの握りは閃光となって魔物の甲羅と胴体を貫通した。
「一匹!」
声に出すと、恐怖が少しだけ和らぐ。
仲間が死に、興奮した残る二匹は同時に走ってきた。ヤリイカの握りには威力があったが、同時に2匹を相手取るのは無理だ…!
片方の魔物が先に俺に辿り着いた。
反射的に米を握る。先に近づいた魔物と、遅れた魔物が重なって見える位置に俺は飛び、握った。
浮かんだのは、鮭の握り。今度は名前からのイメージじゃない。川魚の瞬発力…滝を登るような、押し飛ばすパワー!
それが光をまとい、その後、衝撃波を生み出した。目の前の魔物がとんでもない勢いで吹き飛ばされ、後ろの魔物に激突した。
どうやら、2体とも気絶したようだった。
――息が荒い。
膝に手をついて呼吸を整えると、魔物の影はもうなかった。
⸻
「……すごいです、本当に魔法みたい」
エルナは息を弾ませながらも、どこか安心した顔をしていた。
俺はおひつを見下ろす。中の米は、ほとんどなくなっていた。
「魔法ってのは便利だけど、タダじゃないらしい」
「タダじゃない……?」
「シャリ――この白い米が、俺の力の源だ。無くなったら、ただの包丁使いになる」
「こめ…?」
エルナは真剣な顔で頷く。
「じゃあ、村に着いたら……こめ…?を探しましょう!」
その言葉に、少し胸が軽くなった。
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村は思ったよりも小さく、木造の家々が並ぶ穏やかな場所だった。
夕食時とあって、家々からは湯気と香りが漏れ出ている。
……だが、その香りに米の匂いはなかった。麦や豆、芋の匂いが混じるだけだ。
「お帰り、エルナ!」
入り口で声を掛けたのは、白髪の老人。村長らしい。
事情を説明すると、俺は空から落ちてきた“変わった旅人”として受け入れられた。
どうやらエルナは村長の孫だったらしく、あっさりと受け入れられてしまった。もちろん、この先どうなるかは分からないが…。
宿はエルナの家の一角を借りることになった。
木の机と藁のベッド、そして壁にかけられた乾燥薬草。
温かみのある匂いが、少しだけ故郷の包丁場を思い出させた。
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「明日、市場に行きましょう」
夜、暖炉の火を見つめながらエルナが言った。
「市場に、こめ…があるかもしれません」
「そうだな……あれば、この世界で生きる道が開ける」
――米がなければ、俺は生き残れない。
調達、安定、保存、他にも考えるべき事は山ほどある。元の世界に帰るまで、俺は死ねない。
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翌日。
市場には、どこを探しても米はなかった。
代わりに耳にしたのは、「昔は米のような穀物があったが、1000年も前に滅びた」という話。
名前は“神穀”。
豊かさの象徴だったが、ある時から、魔物が異様に狙うようになり、絶えてしまったらしい。
「もし神穀を見つけられれば……」
エルナが言葉を濁す。
その瞳に、小さな希望と大きな不安が揺れていた。
俺は包丁の柄を握った。
寿司職人として、この世界で生きるために――神穀を探す。
それが、俺の新しい修行の始まりだった。