第一貫 異世界寿司伝説、開幕
へいらっしゃい!
伝説の寿司職人の弟子が異世界転生!?
握られるは素晴らしい寿司(物語)の数々!
ご賞味あれい!!
魚の匂いは、俺にとって朝の空気そのものだ。
市場の通りを歩くと、潮風と人の声が入り混じって胸の奥に染みてくる。
――ただ今日は、その匂いが少し遠く感じた。
港葵、二十五歳。寿司職人見習い……いや、もう八年も包丁を握っているから「見習い」と言うには長すぎるか。
俺は市場の角で八百屋の親父に会釈を返し、足を急がせた。
向かう先は病院だ。そこに、俺の師匠――銀ノ政がいる。
政さんは、この街で伝説の寿司職人と呼ばれた人だ。
包丁の冴えも、握りの美しさも、味も、全部が一流。
弟子である俺から見ても、何十年も握ってきたその手は、寿司を握るために生まれたような手だった。
だが、病魔は包丁よりも鋭く、その手を止めた。
「……早く、またカウンターに立ってほしいな」
呟きながら、病院への道を歩く。魔法でもあれば 良いんだが…。
そのときだ。
昼の空が、ふいに色を失った。
青が抜け落ち、夜のような黒が広がり、その中心に白い光が差し込む。
何かの錯覚だと思った瞬間、体がふわりと浮き上がった。
足元から市場の石畳が遠ざかり、光の穴が近づく。
「――え、ちょっと待っ、政さん!」
叫んだ声は、耳の奥で途切れ、あとは光だけがあった。
⸻
気づくと、背中には柔らかい草の感触。
風が頬をなで、遠くで鳥が鳴いている。
見上げた空は、さっきまでの黒ではなく、どこまでも高く澄んだ青。
「……夢じゃ、ないな」
指先に触れる土の温もりが、やけに生々しい。
「お兄さん、大丈夫ですか!」
声に振り向くと、腰まである栗色の髪を揺らした少女が駆け寄ってきた。
白いブラウスに、背中には大きな籠。中には草や花が詰まっている。
「ここは……どこです?」
「ノール平原です。怪我はありませんか?」
その名前は、聞いたことがなかった。
ここは俺の知っている世界ではないのか?
彼女が口を開こうとした瞬間、低い唸り声が草むらの奥から響いた。
獣の気配。
背丈ほどの草がざわめき、甲羅を背負った犬ほどの魔物が姿を現した。牙が光り、地面をえぐるように近づいてくる。
体が反射で動く。腰の包丁を抜くと、陽の光を受けて銀色が瞬いた。
包丁を持つ手に、寿司屋で何百回も魚を捌いた感覚が蘇る――けれど相手は魚じゃない。
そのとき、耳の奥に声が響いた。
> 「汝、我が召喚に応えし者……力を授けよう」
振り返ると、足元に木製の蓋付き桶――寿司屋のおひつがあった。
蓋を開けると、炊き立ての白米が湯気を上げている。
米粒が淡く光り、その光が手の中へ染み込むように広がった。
握る。
何故かそう考えた。その時心の奥に浮かんだのはブリの握りの形。
次の瞬間、米の上に艶やかなブリの切り身が現れ、握り全体が淡い光を放った。
「……何だ、これ」
驚く間もなく、握りは弾丸のように飛び、魔物の額を直撃。
鈍い音とともに魔物が倒れ、静寂が戻った。
⸻
「……すごい……お兄さん、魔法使いなんですか?」
少女は息を飲み、俺を見上げる。
魔法。そうか、これは魔法なのか。
俺にとってはただの“握り”のつもりだったが…。
「いや……俺は寿司職人だ」
「すし…しょくにん…?」
そう答えながら、自分でも半信半疑だった。
少女も首を傾げている。
少女はエルナと名乗った。近くの村に住み、薬草採取の途中だったらしい。
「村まで来ませんか? 魔物も増えてきて危ないですし」
「助かる。正直、この世界のことは何もわからない」
歩きながら、俺はおひつのことを考えた。
米は有限だ。ネタは俺の知識と経験からしか生まれない。
つまり――シャリを確保できなければ、魔法も尽きる。
この世界に米がなければ、俺はただの包丁使いになるだろう。
夕陽が差し始めた頃、小川の手前で足を止める。
また、草むらが揺れた。複数の影。低い唸り声が重なる。
エルナが青ざめて俺の後ろへ下がる。
残るシャリは、わずか。
ここで使い切れば、次はない――それでも、守るべきものは目の前にある。
包丁を握り、深く息を吸う。
寿司職人として、この世界で生きる覚悟を決めた。
――続く。