バケモノ
いつもより、どんよりとした気持ちで玄関を開けると、廊下の先、灯りもついていないリビングで、母親の早千代が、いつものように酔いつぶれていた。
ローテーブルに突っ伏す中年女性を取り囲むように、床にはカラになった酒瓶が転がっている。
4LDK120平米のこの広いマンションには、千詠と母親の早千代の二人しか住んでいない。
千詠はそんな母親の眠りを妨げぬ様に、そっと気配を消し自室に入ると、ホッと息を吐いて制服を脱いで、着替えを抱えて風呂場へ向かう。
両親は、千詠が小学校に上がる前に離婚し、家を出て行った父親には、それから逢った事も話した事も、話題に上がった事すら無いので、千詠には父の記憶がほとんど無かった。
ただ一つ、いくつの頃か分からないが、どこかの公園で、真っ白な毛並みの頭にリボンをつけた小型犬が、キラビやかな洋服を着せられたもう一匹の小型犬と、千詠の持っていた人形を争って取り合って、その人形がボロボロにちぎれる様を泣きながら見ていたとき、手を握っていてくれた人の顔を見上げると、それが父だった。
・・・ような気がする。程度の思い出が一つあるだけだった。
父と一緒にいると、なぜかとても周りが静かだったので、その犬達の争いは、幼い千詠の記憶に強く残る恐怖だったが、握られた手から伝わる温もりとは裏腹に、その時の父親の気持ちも、かけてくれたであろう言葉も表情も、何も覚えていない不思議な記憶だ。
その父親が、今どこにいて何をしているか千詠は知らないが、大手製薬メーカーで研究員として働いているらしい父から、生活費や養育費が毎月滞り無く入ってくるらしく、食事が用意されない以外は、家もあるし暮らしぶりにこれといって不自由を感じた事は無い。
しかし本当のところ、この家の家計がどうなっているのかは、千詠には全く分からない。
母親の早千代は働きもせず、家からもほとんと出ず、なるべく千詠と関わらないよう、酒を飲んで一日を過ごしている。
毎日22時過ぎ。バイトから帰った千詠は、母親のいるリビングを横目に寝支度を済ますと、そのまま朝まで自分の部屋にこもる。
そんな毎日がここ数年繰り返されていた。
千詠と早千代が最後にまともに話したのは7年前、千詠が10歳の時。
ある事件がきっかけで二人の距離は開いていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
千詠が小学校に入ってからしばらく、既にその頃には母子家庭で、二人は某テレビ局にいた。
母の意向か、物心ついた時からキッズモデルなどしていた千詠だったが、親子で参加した番組のサクラエキストラで『脅威の透視能力者vs科学者!』という子供向けの特番で科学者と超能力者がその知識と能力を競い合う。という夏休みによくある子供騙しのオカルト番組の撮影だった。
科学者がその超能力を検証するとき、タレントが書いた文字やイラストを、目隠ししている超能力者が読み取るという対決型の検証方法で、さぁいざ科学者が検証する。ということになると「今日は調子が悪い」だの「万能ではない」などといってお茶を濁す。その当時流行ったよくあるテレビ番組だった。
ただし、その日は参加したサクラの子役達にもESPカードを当てさせる。というミニコーナーがあった。
そこでリハーサル時は番組ADが机にカードを伏せ、裏側の模様を当てさせる。という簡単な説明をしたのみだったが、本番では、参加親子が5組でて、親子で向かい合って座り、親がカードを持って子供に当てさせる形式になった。
すると千詠は面白いようにカードを当ててゆく。
早千代はふと思い出した、そういえばもっと小さい時からババ抜きなどのカードゲームはなぜか千詠に勝つことができない。
そして、生放送ではないにしろ番組の本番中ということも忘れて、これは? このカードは? と次々試してみると、千詠は連続してカードの模様を的中させてゆく。
次第にその場にいた大人たちが、主役の超能力者そっちのけで、千詠の次のカードを言い当てるのに熱中し始め、とうとう連続で100枚目のカードも言い当てた時、その場にいたインチキ超能力者も狂喜乱舞し、否定派であるはずの科学者も夢中になっていた。
そして、母親である早千代自ら、とあるプロデューサーに売り込むと、あれよあれよと言う間に話は進み、気がついた時には『千里眼少女ヨミちゃんあらわる!』そんな名目で、あっという間に、二時間特番に引張りだこになっていた。
早千代ははじめ、娘とは自分と特別なつながりがあると思っていた。
自分の見ている物が千詠にも見えるのだと思っていた。
科学者に、母親に何か合図を送られているんだ。と、言われ、別の人間でも試すことになると、別の人間がスケッチブックに書いたものを言い当てることができた。
それからは母親はテレビには出演せず、千詠だけが出るようになる。
その代わり、検証の方法は早千代が必ず指示をした。
たいていが向かい合って座り、絵や文字数字を当て、目隠しや脳波計をつけての検証は、娘が怖がるから。と断った。
当てられないこともないが、千詠が落ち着きがなくなり怖がって、ぐずって答える事を拒否する事があるのを、件のプロデューサーとそれなりに実験済みであった。
早千代達は、千詠の力をとても目が良い。と結論づけていた。
千詠が視線を合わせて注視する様から、簡単な記号は相手の目の中を、スケッチブックに書くイラストや文字は、加えて手の動きからわかるのだ。と考えていた。
世の中も、千詠の力は透視能力だと思っていたし、番組もそのように扱い制作編集している。
可愛らしい幼女の姿をした、千詠だけが画面に出るようになると、インチキ臭さがなくなり、瞬く間に人気が出て、出演するテレビも超能力番組だけでなく、様々なバラエティ番組に出るようになり、スケジュール的にオファーに応えられない番組が出始めると、子役事務所を辞め、出演料も跳ね上がった。
早千代の生活も一変した。
それまで、地味で慎ましく暮らしていた母子家庭の母親が、一気にスター子役の保護者になったのだ。
千詠の登場でマンネリ化していた番組が一変し、各番組関係者もいっせいに早千代をちやほやと扱いだした。
母親が喜ぶので、おとなしく指示に従い協力する振りをしていた千詠だったが、どす黒く渦巻き私欲あふれる大人に囲まれる中、それを聞かないようにするのに必死だった。
そんな日々が1年ほど続き、ある番組で一人の否定派が自分のターンに、打ち合わせにない写真を取り出した。
「ヨミちゃん。この写真、とっても有名な物が写っているんだけど、なんだか当てられるかな?」
視聴者モニターだけに映ったそれは、一見すると富士山の写真のパネルで、はじめは冷やっとした早千代とプロデューサーだったが、知らないモノでは無かった。と息を飲む。
しかし、千詠はこう答えてしまった。
「クリュチェフスカヤ火山」
静まり返る会場。
ブルブルと震えながら、千詠の答えた正解のカードを封筒から出すその科学者を見て、みなが驚愕の声を上げる。
「あり得ないっ!!」
「どうゆうことだ!!」
「富士山じゃないのか!?」
否定派の知識人、科学者たちが一斉に申し出た。
きちんと検証させてくれ。
しかるべき実験をさせてくれ。
近づき手を伸ばす大人達に、会場は一時騒然となった。
その会場にいる大人で、実際にその写真を見た者の、いったい何人がそんな山の名前を知っているというのか。
まして千詠はその時9歳。
否定派の企みから、まさに種も仕掛けもないことに信憑性が増した驚愕の『超・能力』に、千詠に向けられていた周りにいる大人の目は、お茶の間を楽しませる可愛らしい少女から、一気に畏怖や金儲けの道具として変わっていった。
出る番組も選ぶ立場になり、検証の仕方にバライティが出て、一回の出演料も桁違いに跳ね上がったが、それでもオファーは後を絶たなかった。
件のプロディーサーは早千代と特別な関係を持ち、専属のマネージャーのように立場を変えた。
暮らしぶりも贅沢になり、家に人を雇うと、千詠は一人でいることが多くなった。
そしてとうとう、マネージャーになった男が金をピンハネし、自分勝手に使いだすと、早千代はとたんにすべてが恐ろしくなり、千詠に対して罪悪感が出始め、ますます家に寄り付かなくなった。
早千代は千詠の能力に気づき始めていた。
そんなある日、お正月特番の4時間番組で科学者対決することになった。
そこには、当時人気絶頂のアイドルグループ『ジェムズ』がいた。
『マサト』『ジュン』『トール』の3人は、本名も年齢もプライベートはいっさい謎のグループで、歌とダンスでお茶の間の人気を一身に集めていたが、いつものように、ドラマの番宣の一環で、ゴールデンタイムの2時間特番にゲスト出演し、これを期に、名前や年齢などを明かして、ドラマにも本腰を入れていくと、リーダーのマサトがアンケートで答えたフリートークを切り出したところで、無事、番組MCが「それでは名前を当ててみよう」と言う流れになった。
番組は打ち合わせ通りに撮影を進め、3人は、スケッチブックに、各自が名前(芸名)を書く。
灰塚雅人
桃井純一
赤西透
千詠は、心を読んだ通りに「赤西透」と答えたが、赤西透のスケッチブックには『鈴木太郎』と書かれていた。
赤西が驚いてヨミちゃんを凝視する。
「ボケけたんです!」
「スベったけど!」
灰塚と桃井は慌てて弁明した。
どうゆうことだ?
スタジオの演者、スタッフ達がざわめく。
なぜその名前を答えられた?
やはりヤラセか?
前もって教えていたんじゃないか?
その場にいた大人達は、不可解な体験に困惑して「どうゆう事だ?」と必死に考えている。
いったん収録が止まり休憩になる。
否定派の学者達と、スタッフがもめている。
アイドルのマネージャーと、制作者側は必死にヤラセを否定した。
セット裏では、赤西がスタッフに注意を受けているが、メンバー達は庇っている。
なにせ、『鈴木太郎』は赤西の本名だ。今はまだその出自を知られたくないと考えている幼い時から一緒に孤児院で暮らし育った灰塚も桃井も知っていた。
楽屋に戻り、今度はマネージャーに具体的に叱られると、二人がヨミちゃんの楽屋に謝りに来た。
ちょうど入れ違いで、早千代は「番組をやめる」と抗議に行くため、楽屋から出て行ったが、それにジュエルのマネージャーがついて行ってしまったせいで、楽屋は、赤西と千詠の二人きりになってしまった。
扉が開くたびに聞こえる楽屋の戸口では、大人がもめている声が響いている。
「ねぇ俺の名前わかる?」
気まずさから話しかけた赤西の問いに、千詠は、目を伏せて「赤西透くん」と答えた。
赤西はさらに続けて言った。
「実はさ、それは芸名なんだ。戸籍上の本名は鈴木太郎。鈴木しかも太郎って地味じゃん? だから芸名で赤西透って名乗る事にしましたって発表する日だったの。だからヨミちゃんは間違ってないんだよ。スッゲーよヨミちゃん! マジビビった!」
千詠が、不正解じゃなかった事にホッとして、ウフフ と笑うと、赤西もニコニコ笑い返す。
場の空気は和んだが、しばらくしてもまだ大人達が戻って来る様子がない。
すると、少しだけ辺りを気にする様子を見せた赤西が、声のボリュームを低くして質問した。
「ねぇヨミちゃん。実は俺もう一つ名前があるんだ。本当に本当の名前。それは当てられる? 難しいかな?」
何故だか、この人から良い人のような雰囲気を感じて「スケッチブックに書いてくれるなら」千詠は“母の言いつけを守り”そばにあったスケッチブックとマジックを渡した。
「イイよっ!」
赤西は千詠の正面に座り真すぐ目を見た。
千詠は、赤西にチャンネルを合わせて目を見る。
集中して目の奥を探る。
でもスケッチブックには鈴木太郎と書かれてた。
「鈴木太郎じゃないの?」
千詠が、怪訝そうにそういうと、赤西は首を横に振る。
「うんそう、スケッチブックにはそう書いてある。でもあるはずなんだ、俺も知らない本当の名前が」
赤西の言葉を聞いて、千詠はさらに赤西の目の奥に入り込む。
そしてこう質問した。
「赤西透くんは、小さい時は、お母さんになんて呼ばれてたの?」
「小さい時?」
千詠は、今まで感じたことのない万能感に、とめどが効かなくなっていた。
人の心の奥の方に、グングン入っていくのを感じるが、なぜか心地よかった。
千詠は、赤西の古い記憶から、母親が呼びかけるのを見つけ、その声に重なる様にそう聞いた。
「『アナタのお名前は? って聞かれたら、何て答えるんだっけ?』」
赤西は、微かに思い出す。
閃光の中、向かいにしゃがむ優しそうな女性と微かな声を。
そうだ、確かにあれは母親かもしれない。
千詠がその記憶と重なり合う様に言った。
「『ユウくん。ちゃんとお名前言えるかな?』」
思い描く映像では、小さい赤西透が元気に、嬉しそうに答えている。
「『白石優羽です!』」
「名前は『ユウくん』『白石優羽』くん」
「そうだ、俺、そう呼ばれてた・・・!」
赤西が驚き唖然としていると、バタン!! と勢い良くドアが開いた。
否定派たちが、是非に科学的な研究をさせてくれ! と楽屋に押し寄せてきた。
母親とマネージャーの男が、それを止める様に間に入る。が、
「スタッフもグルになっているかもしれない!」
「潔白を証明するために調べよう!」
「然るべき施設で科学的実験に協力しろ!」
と、大人達はさらに詰め寄る。
「こんな小さな子に何をする気なんですか!?」
母親は止めた。
「本当にインチキしてないんだってことを証明すりゃ良いんだ!」
ゲスな笑いを浮かべ、マネージャーの男が千詠の腕を掴み上げた。
(金さえもらえれば、こんなガキに何したって良いじゃないか!!)
マネージャーの男の考えが千詠にながれこむ。
「痛いっ!」
千詠が叫ぶ。
「子供に何すんだ!」
1番近くにいた赤西は、その男の腕をつかみ、千詠から引き剥がしにかかったが、マネージャーの男はそれを払いのけ、赤西ごとはね飛ばす。
と、運悪くメイクミラーの照明に顔をぶつけ、左目の上を切ってしまった。
流れる血。
赤西が、傷を押さえてうずくまり、ジェムズのマネージャーが「顔がっ!!」と悲鳴をあげると、灰塚が千詠に手を掴み上げる男に飛びかかった。
アイドルの流血沙汰に、楽屋は騒然となった。
すると、千詠の中に、周囲にいた大人達のどす黒い想いがさらに一気に流れ込んで来た。
この嘘つきの詐欺師め。
この子を使って金儲けできるかも。
なんなのこの子? 気持ち悪い。
まさか、本物なの!?
千詠は、自分が物のように思われている事に初めて気がついた。
犬達が取り合ってボロボロにちぎれた人形がフラッシュバックする。
あれは私。
あの人形は私だ。
私もあの人形のようにバラバラにちぎれて捨てられるんだ。
そう思ったら、死を感じるほど恐ろしくなった。
「もう嫌だっ! おかあさん!!」
伸ばした千詠の手を、あろうことか早千代は振り払い悲鳴のように叫んだ。
「触らないでっ!!」
千詠に、早千代の感情が雪崩れ込む。
(このバケモノ!!)
その場をなんとか制作側がおさめるも、残りの収録で千詠は一言も言葉を発しなかった。
うずくまり、目をつむり、耳を手で覆い誰の言葉も聞かなかった。
機嫌を取ったりなだめすかしたり、優しい言葉をかけても頑な千詠に、あげく、怒鳴り、暴言を吐く者まで現れたが、千詠は態度を変えなかった。
誰も助けてくれない。
そう思うと恐ろしかった。
母親が、いかに自分のこの力を畏れていたのか、いつも怯えていたのだと気づいた。
そして、自分も今まさに、この力のせいで恐ろしい目にあっているのだ。と思い知らされいてもたってもいられなくなった。
一刻も早くこの場所から逃げなくては。
もう誰も自分を助けれくれないんじゃない。最初から助けてくれる人などいなかったのだ。
母親でさえも、嫌悪の表情と「バケモノ」と心の底からでた単語を隠そうともしない。
自分はそんな存在なのだ。
「バケモノ!」
「バケモノ!」
「バケモノ!」
「バケモノ!」
「バケモノ!」
いつまでも、千詠の耳に繰り返し繰り返し、周りの人間達の大合唱が、耳をつんざき鳴り響いている。
その収録は間もなく終わり、番組もお蔵入りになった。
(あの子はもう駄目だ)
ぱたりとオファーはなくなった。
テレビ出演がなくなると、早千代は千詠をだんだんと避け、声をかけることもなくなり、家で酒を飲んで過ごすことが多くなっていた。
家には、年間契約していた家政婦さんが通いできていたため不自由はなかったが、3年もすると契約が切れたのか、家にだれも来なくなり、中学生の千詠と早千代だけになった。
2人の間に会話はとうになく、千詠も母親に避けられていることがわかってからは、母には近づかなくなった。
母親の目も、顔すらも、それ以来一度も見ることは無くなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あの日からずっと、夜布団に入ってからは何も聞かない訓練を始める。
「この家にはバケモノが居る」
「バケモノが帰ってきた」
「いつかバケモノに殺される」
「バケモノが・・・」
「バケモノ・・・」
「バケモノ」
母親の、怯えヒソヒソとした囁きが、なんの意味もない音の羅列に感じるように、意識を遠くに遠くに追いやる。
あれから千詠も色々な本やサイトを読んで年相応の知恵もついた。
人間は、多くの雑音の中でも聴きたい声だけ選んで聴く事ができる。
何かで読んだその言葉を信じて、無意識に選んだ優しい声を思い出し、それすらただの音に戻す作業を、こまかく細く神経を研ぎ澄まして、繰り返しては夜をやり過ごす。
そうしてやっと今日が終わるのを待つ日々を、千詠は淡々と淡々と繰り返していた。
10才の時から今の今まで、たったひとりで。