8
──ティンタジェルの村。
一言で表せば、長閑。
のんびりとした空気が村全体から伝わるも、ここは異なる世界にある村。どうしても肩に力が入ってしまう。アリーシャはこわごわとしながら周りに目を向けた。
地面は薄い茶色の砂と土が平らにされている。ただ、やはり多少の凸凹はあり、歩き慣れていないと躓いてしまいそうだ。家々はどれも石造りでできており、似たような形をしている。
少し離れたところでは、地面とは違う色の土で一面が覆われていた。等間隔で盛り上がった土の列がいくつかあり、そこからは葉のようなものが数多に顔を出している。何かを育てているのだろうか。男性と女性が、柄のついた平たい鉄のようなもので土を掘り起こしていた。かなりの重労働だと思うが、流れる汗を拭う姿が輝いて見え、つい熟視してしまう。
また違うところでは、草木が茂った広い敷地を木で作られた柵で囲んでいる場所があった。
中には白黒斑や赤茶色の皮膚をした、大きな胴体でどっしりとしている生き物がいる。この村のようにのんびりと過ごしていて、見ていると何だか愛おしくなるほどだ。小さな子どもが銀製の容器を生き物の下に置き、何かを握って白い液体を出している。生き物に話しかけながら白い液体を出すその様子は、なかなか手慣れたものだ。
(何だか、ミルクに似ています。この世界では、こうして出しているのでしょうか)
アリーシャの世界にも、ミルクを蓄えている生き物はいる。ただ、それはその生き物にとっては血液のようなもので、ミルクを手に入れるには命を奪わなければならない。躊躇させないようにするためか、この世界の生き物と違い、愛らしさの欠片もない見た目をしている。
命を奪わず、このような方法でミルクが手に入るなんてとても平和だ。何より、男性も女性も、大人も子どもも、誰もが活き活きとしている。とても、眩しいほどに。
素敵な村だ。日常など二の次三の次な元の世界とは違う。
強き者であれ。誰よりも成果を挙げよ。そんな世界だった。ここは、なんて平和で穏やかなのだろう。
(あの巨人に、まおうの手下に壊されなくて、本当によかったです)
村に着く前にノアが話してくれたのだが、どうやらここが襲われようとしていたそうなのだ。直前でノア達が足止めし、直接の被害は避けられたとのこと。負傷者はノア側の兵士のみ。それでも被害は最小に抑えられたと兵士達が言っていた。
すべてノアの的確な指示のおかげだと、誇らしげに。
村を見て回っていると、一人の兵士が鎧をガシャガシャと音を立てて走ってきた。
「ノア王子、あちらの宿を一部屋確保いたしました」
「すまないな。では、臨時詰所で待っていてほしい。後程向かう」
了解しました、と兵士達は離れていく。臨時詰所というのは、此度の負傷で傷ついた兵士達を休ませるために、村の者達が用意してくれたそうだ。
怪我をした者達がいるのであれば治癒魔法で何とか救いたいところだが、まだノア以外には何も話していない。話を終えたあとにでも相談しようと考えていると、ノアから左手が差し出された。
「行こうか、アリーシャ」
つい、触れることに戸惑ってしまい、その手を取ることを躊躇してしまった。
「は……はい」
返事はしたものの、ノアの手を取る勇気がない。
王と呼ばれる存在は、アリーシャの世界でもいる。王や王族は、貴重な宝などを見つけた冒険者パーティーならば謁見もあるが、そう易々と会える存在ではない。両親やウィリアムもまだ会えたことはないはずだ。
そのこともあり、ノアの素性を知ってしまった今は、どうしてもこれまでのような接し方ができなかった。むしろ、これまでの無礼を詫びたいほど。
ノアは辛そうに視線を逸らし、左手を引っ込める。その表情に胸が痛むも、アリーシャは「これでいい」と自分に言い聞かせた。間違ってはいないと。
それでも、ナイフで抉られたかのような痛みが取れることはなかった。
* * *
宿屋に入ると、用意されていた部屋に通された。見た目はアリーシャの世界にもある宿屋と変わらない。最低限の家具に、ベッドはダブルサイズだろうか、それが一つ置かれている。
ノアはベッドの端に腰掛け、膝の上で両手を組んだ。顔は俯けているため、その表情はわからない。アリーシャはというと、ノアと同じように腰掛ける勇気はなく、彼の前に立っていた。ノアが少し顔を上げ、上目遣いでアリーシャを見る。
「座らないのか? 歩き回って疲れただろう」
「あ、い、いえ、わたしは……」
その瞬間、ノアの表情が歪む。悲しみの色をした目を伏せ、そうか、と小さく呟いた。
「……変わった少女だとは思っていた。俺の瞳を見ても、何の反応もなかったからな」
「赤い瞳……綺麗だな、とは思いましたが、王族を示すものだったのですね」
「というより、数人しかいないんだ。俺の父、兄二人、そしてもう一人」
ノアに会ったことがない者でも、このことを知っていれば大体は察しがつくということだ。アリーシャは両手を胸元で握った。
「じゃあ、わたしの話を信じてくれたのは……」
「名を名乗っても、アリーシャの反応は変わらなかった。世間知らずなのか、本当に何も知らないのか。……後者だったな」
ノアは伏せていた目を開け、アリーシャを見て微笑む。
腑に落ちたとはどういう意味なのかと思っていたが、すとんと腹落ちした。とはいえ、まだ気になることはある。
道中、何かを話そうとし、言い淀んでいたことがあった。おそらくだが、きっと自身が王族であるという話だろう。
何故、話してくれなかったのか。言いたくないことならば無理に言わなくてもいいとも言いはしたが。
だが、こんなにも大事なことを、どのようなわけで。
「何度も、アリーシャに話そうと思った。大事なことを話してくれたからこそ」
アリーシャが気にしていることが伝わったのだろう。その疑問に答えるかのようにノアが話し始めた。
ノアは組んでいる両手に視線を向け、肩を少し落としている。
「アリーシャの世界に、王と呼ばれる存在がいれば。話してしまうと、王子として見られてしまうんじゃないか……俺は、それが嫌だった」
「それは、どうして……?」
「王子としてではなく、ただのノアとしていられたのが嬉しかったんだ」
ふっと息を吐くようにして笑うノア。その表情は見えないが、何となく雰囲気で伝わってくる。
今、ノアがどんな気持ちでいるか。
胸元で握る両手に力が入る。本当に、これでいいのかと。このままでいいのかと。
軽く唇を噛み締めて、視線を落とす。
王子だと知ってしまった以上、態度は改めなければならないとは思う。ノアの手を取らなかったことも、隣に座らなかったことも、間違いではない。
けれど、それがノアを悲しませているのだとしたら。
「アリーシャ」
優しくも改まった声で名を呼ばれ、視線をノアに向ける。
ノアの赤い瞳は、これまでと変わらずまっすぐにアリーシャを映す。
「これからも、ノアとして接してくれないだろうか。王子ではなく、一人の、ただのノアとして」
唇が微かに震える。
(できません。きっと、それが正しい答え。ですが、それでは、また)
また、ノアを悲しませる。辛そうに表情を歪め、綺麗な赤い瞳は悲しみに染まってしまう。
思い返すだけで、胸が痛い。
「ノアとして、君と出会った。だから俺は……君の前では、ノアでいたい。ノアで、いさせてほしい」