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ノアがいるからだろうか。警戒心が緩み、周りを見ながら歩く余裕が出てきた。とは言え、冒険のようだと楽しめてはいない。
見たことがない花、実。つい先程浮かんだ信じがたい考えが、ますます現実味を帯びていく。何よりも、とアリーシャは少し前を歩くノアの背中を見た。
魔法を目にしたときの、ノアの反応。塵と消えた巨人。おとぎ話に出てくる「聖女」と呼ばれる者。
──間違いであってほしかった。だが、大方この考えは間違いではないのだろう。
ノアには、黙っていていいのだろうか。アリーシャの魔法を素晴らしいと言ってくれた彼に。おとぎ話に出てくる聖女のようだと言ってくれた彼に。
自ずと、その場に立ち止まっていた。
「アリーシャ?」
後ろから足音が聞こえなくなったからだろう。どうした、とノアが振り向いた。
言えば、彼は何を思うのか。落ちこぼれの魔女だと知って、幻滅されてしまうかもしれない。第一、このようなとんでもない話、信じてもらえないかもしれない。食事を終えれば、ノアとも別れることになる。わざわざ言う必要はあるだろうか。
このまま何も明かさずにいよう。そう思い「何でもない」と言おうとするが、アリーシャを見るノアの赤い瞳に口を閉ざした。
(そうでした。ノアは、わたしを)
黙り続けるアリーシャに、ノアが近付いてくる。
「アリーシャ、何かあったのか?」
すぐ近くまで来たノアを見上げた。どこか心配そうに見つめる彼に、アリーシャは「ノア」と彼の名を口にする。
それと共に、ごめんなさい、と心の中で呟いた。浅ましい考えを持ってしまったことに対しての謝罪だ。
ノアの赤い瞳を見て思い出したのだ。まっすぐにアリーシャを見てくれたことを。
そんな彼に、嘘はつけない。ついてはいけない。どう思われようと、話さなければならない。
その決意から、アリーシャは視線を逸らさずに言葉を続けた。
「わたしは、ここではない別の世界から来ました」
* * *
──時折声が震え、指先がひんやりと冷たくなった。ノアの反応が怖かったのだ。
このような突拍子もない話、信じてもらえるのだろうかと。本当のことを知って、がっかりされるのではないかと。自然と視線が地面を向き、指を絡めて両手を組んだ。話すと決めたからにはすべて話すが、不安からどうしてもノアの顔は見ることができなかった。
ノアはというと、ずっと黙っている。もしかすると相槌を打つように頷いていたかもしれないが、ノアの顔を見ずに話しているアリーシャにはわからない。
多少言い淀みながらも止めることなく続け、ここへ来た経緯まで話し終える。とても、とても長い時間話していたような疲労感。ノアはと言えば、やはり一言も発さない。今、彼はどんな表情をしているのだろうか。
気にはなるものの、顔を上げる勇気が出ない。すると、組んでいた両手があたたかい手に包まれた。思いがけない行為に心臓が跳ねる。
「アリーシャ」
名を呼ばれ、どうしても肩に力が入ってしまう。けれど、その声はとても柔らかい。アリーシャはおずおずと顔を上げるものの、思わず息を呑んだ。
ノアは眉間に皺を寄せ、切れ長の目を細めていた。あの柔らかい声は聴き間違いだったのだろうか。赤い瞳には怒りが宿っているようにも見える。これは、信じてもらえなかったのか、あるいは──。どちらにせよ、アリーシャに緊張が走る。早鐘を打つ心臓の音がうるさく、身体はカタカタと小刻みに震え始めた。
「驚きはしたが、アリーシャの話を嘘だとは思っていない」
その声は変わらず柔らかく、震えるアリーシャを安心させるかのように手を包む力が強くなる。同時に、眉間の皺が深くなり、瞳に宿る怒りは更に燃え上がった。
ノアの怒りは、どこに向けられているのか。問いかけるように首を傾げると、ノアは腹の底から絞り出したかのような声で言葉を発した。
「それより何より腹が立つ。アリーシャを蔑ろにする者達が」
「ノア……」
ノアの怒りは、アリーシャを蔑ろにしてきた者達に向けられていた。ゆっくりと、アリーシャの肩の力が抜けていく。
ノアが怒る必要などないのだ。
「攻撃魔法が扱えない落ちこぼれだからです。わたしが悪いんですよ。だから」
気にしないでください、と続けるつもりだったが、食い込み気味に「何も悪くない」とノアが遮った。
「アリーシャにはできることがあるだろう。何故、できないことだけを見ているのか」
俺には理解できない、とノアは憤り、目を伏せた。
さあ、と風が通り過ぎる。木々を揺らし、葉がさわさわと音を鳴らす。
魔法使いや魔女が攻撃魔法を扱えないというのは致命的だ。アリーシャができることは、僧侶もできる。付言すると、アリーシャにはできないハイグレードなこともできるのだ。これでは蔑ろにされ、誰からも必要とされないのは当然の結果とも言える。
ゆえに、何の疑問も抱いてこなかった。抱くこともなかった。ただ、必要とされたいと必死だった。
住む世界が異なれば、考え方も異なるのだろうか。だから、ノアの怒りが理解できないのだろうか。いや、もしかすると。
「……ノアは、魔法を初めて見て、感銘を受けたのではありませんか?」
「それでこんなにも憤っていると?」
伏せられていた赤い瞳が、静かにアリーシャを映した。心なしか苛立ちが向けられているように感じ、アリーシャは身を縮こまらせる。
「アリーシャ。俺は、怪我をした者の手当てはできるが、治癒はできない」
何が言いたいかわかるか、と問われるも、アリーシャにはわからない。首を横に振ると、ノアは小さく息を吐き出した。
「救いたくても、その術を持ち得ない俺では、手のひらから命が零れ落ちていく」
だが、と言葉を続ける。
「アリーシャには救う力がある。現に、俺はアリーシャの力……いや、魔法で救われた」
「それは……わたしも、嬉しかったです。わたしの力でも、誰かを救えるんだって。でも、もしあの場にいたのが僧侶の方であれば」
「この場にいない者の話はしていない」
再び言葉が遮られ、アリーシャは口を噤む。
何もおかしなことを言おうとしていたわけではない。あの場にいたのがアリーシャではなく僧侶であれば、時間もかからずにノアは回復していたと言いたかっただけだ。
ノアはしても仕方がない話が気に入らないのだろうか。
「どうして、アリーシャはそんなにも自分を卑下するんだ」
「卑下、ですか?」
ノアは卑下していると言うが、アリーシャ自身の評価としては論を俟たない。何故そのようなことを言うのかと戸惑っていると、苦々しい表情でノアが口を開いた。
「誰かを救えること自体が素晴らしいことなんだ。それなのに、役割が異なるからと、本来の力の使い方ではないからと、不必要と切り捨てる」
そこで気が付いた。ノアの怒りは、アリーシャ自身にも向けられていたのだと。
結局のところ、理解はできない。落ちこぼれであるというところに怒るのであればわかるが、ノアはその部分に怒りを向けていない。
アリーシャが何の疑問も持たずに侮蔑を受け入れていることに怒っているのだ。
周りの評価は正しい。まさか、それを受け入れていることで怒りを向けられるとは。言葉に詰まっていると、ノアが「すまない」と呟いた。
「俺の言っていることは、アリーシャがいた世界では的外れなのだろう。それでも、アリーシャに救われた者として、どうしても言っておきたかった」
得体の知れない巨人を倒したあと、ノアはアリーシャの力を「素晴らしい」と言っていた。綺麗な赤い瞳で、まっすぐにこちらを見ていた。
(そして、今も。わたしの話を聞いても変わらずに、まっすぐに見てくれています)
それなのに──アリーシャは頭を下げた。
「……いえ、わたしの方こそすみませんでした。ノアの言葉を、素直に受け取ることができなくて」
ここで謝るべきは、自分だ。頭を下げながら、唇を少し噛む。
正直なところ、今も素直に受け取ることはできない。そのように言ってもらう資格などない、自分にはもったいない、そう思っている。
されど、それを不快に思っている自分もいた。ノアからの言葉を、素直に受け取りたい。そうできない自分が、心底嫌だと。
(だって、こんなにもまっすぐに見てくれているのに。わたしは)