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食べ終え、無事に何事もなく部屋に戻ることができたアリーシャは、灯りも点けずにベッドにごろりと寝転んだ。
腹は満たされていないが、不思議と気が休まっていた。
それもそのはず。怒鳴られずに済んだのは随分と久々だ。それだけ両親とウィリアムの気分が良かったのだろう。
「いつか、わたしも……」
ウィリアムが褒めてもらえていたように。
ふ、と笑みを溢した。そう思って数々の文献や魔導書を読んできたが、幼い頃から何も変わっていない。現状も、アリーシャが扱える魔法も、何もかも。
窓から差し込む月の光が、暗い部屋を照らす。
未来も、このように明るく照らされているだろうか。まだ、家族に認められる夢を持っていてもいいだろうか。アリーシャは静かに目を閉じた。
* * *
眠りを妨げる音が静かな部屋に響く。
何事かとアリーシャは目を開き、上半身を軽く起こしてまだ薄暗い部屋を見渡した。
(扉が……開いている?)
閉めていたはずだ。まさか、と視線を彷徨わせると、ベッドの隣に誰かが立っている。悲鳴を上げようと口を開こうとした瞬間、雲に隠れていた月が顔を出し、光が部屋に差し込んだ。月の光に照らされ、その人物の姿が露わになる。
「……ウィリアム、お兄様?」
何の感情も浮かべずに、ただただアリーシャを見下ろすウィリアム。ペリドットの色をした冷たい瞳に寒気が走る。
「着替えろ。お前に話がある」
それだけを告げると、ウィリアムは部屋を出て行った。
こんな夜中に何の話があるというのか。着替えが必要ということは、外に出るのだろうか。それにしても、何故。
──嫌な予感しかないが、行かないという選択肢は与えられていない。ふう、と息を吐き出し、アリーシャはベッドを降りた。クローゼットを開け、言われたとおり服を着替える。
白のオフショルダーのブラウスに、黒のハイウエストのロングスカート。ブーツは茶色のものを選んだ。
着替え終えると、深呼吸をして部屋を出た。少し離れたところでウィリアムが立っており、アリーシャを一瞥すると無言で歩き始める。
「あの、ウィリアムお兄様。どちらに行かれるのですか?」
前を歩くウィリアムに問いかけるも、返事はない。音を立てずに屋敷を出て、街とは反対方向に進んでいく。
街から外れると人気は少ない。夜中だと尚更だ。そこでする話など、到底良い話ではないはず。そもそも、これまでも話となれば良いことなど一つもなかった。
気が重い。そう思いつつも、月明かりだけを頼りに歩く。しばらくすると、ウィリアムが足を止めた。そこは草木一つない、砂利と砂だけの場所。アリーシャも足を止め、ウィリアムの背を見つめる。
「ホワイト家の恥さらしだという自覚はあるか」
ウィリアムは嫌悪感を滲ませながら振り向いた。
「どの冒険者パーティーにも呼ばれない。恥ずかしい奴だよ、お前は」
「も、申し訳ありません」
厳しい言葉に声が震えた。同時に、アリーシャの胸がずきりと痛む。顔を俯け、痛む胸を両手で押さえた。
じゃり、と靴底と地面が擦れる音が聞こえ、それはアリーシャの方へ近づいてくる。ウィリアムが近づいてきたのかと顔を上げようとしたとき、右肩を強く押され後ろへ大きく倒れた。
地面に身体がついた瞬間、白い光が地面を走る。それは、アリーシャを囲むようにして円を描いた。
(これは、魔法陣?)
夕食時のウィリアムと父の会話を思い出した。アリーシャは慌てて立ち上がり円から出ようとするも、白い光の壁に阻まれてしまう。
「気が付いたか。これは、転送魔法陣。父上から試しておけとアドバイスを頂いたものでな」
「ウィリアムお兄様、どうして……!」
「どうして? わからないのか?」
ウィリアムは肩を竦ませ、口元を大きく歪ませて笑った。
「臭いものには蓋をすると言うだろ」
転送魔法陣を試すには丁度良いと判断されたということだ。父も止めなかったということは──アリーシャの全身から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「この魔法陣は、転送させたい場所にも同じものを描いておく必要がある。だが、描かなければ……どこへ行くかわからない」
もう、何を聞いても驚きはない。今から自分はどこへ行くのだろうか。ここではない別の国か。それとも──。
円の内側には、角度を変えたいくつもの四角形が描かれていく。アリーシャの身体も白い光に包まれ、ふわりと浮き始めた。僅かな期待を込めて、目の前にいるウィリアムに手を伸ばすも、彼はひらひらと手を振って背を向けてしまう。
ああ、やはり。アリーシャのエメラルドグリーンの瞳から涙が溢れ、頬を伝っていく。
これまで、何もしてこなかったわけではない。様々な文献や魔導書を読んでは試してきた。考え得ることは、すべて。
が、何も変わらなかった。何が足りなかったのだろうか。
どうすれば、認められたのだろうか。
「じゃあな、愚昧アリーシャ」
その言葉を残し、ウィリアムは去っていく。魔法陣の光は強くなり、もうウィリアムの背すら見えない。
「誰か、助けて──」
アリーシャは手を伸ばすも、何も掴むことなく声と共にこの場から消えた。