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──ここは、どこなのか。
目を覚ますとそこは見知った場所ではなく暗闇で、アリーシャの身体だけが白く光って見える。
果てしなく続く暗闇。あたたかくも寒くもない。いつからここにいるのか。何故ここにいるのか。
今にも泣き出しそうなノアに触れたくても触れられず、そこで意識を失ったのは覚えている。あれから、どれほど眠っていたのだろう。
ノアは、街の人々は、大丈夫だろうか。
早く戻りたい。あの街へ、あの城へ。──ノアの元へ。
「ようやく気が付いた?」
どこからともなく聞こえてくる男性の声に、アリーシャはびくりと肩を震わせて周りを見た。だが、どこを見渡しても暗闇で何もわからない。
「そのまままっすぐに歩いておいで。君に何が起きているのか説明してあげるよ」
アリーシャは息を呑んだ。説明はほしいところだが、本当に男性の言葉を信じてもいいのか。
怪しさしかない。それしかないが──残念ながらアリーシャには何の手立てもない。この言葉に従うほかないだろう。
何より、早く戻りたいのだ。覚悟を決めて、言われたとおりまっすぐに歩いていく。
しかし、周りはどこまでも続く暗闇。歩いているはずだが、本当に前に進んでいるのかわからない。男性が何も言ってこないところをみると合ってはいるようだが。
いつまで歩けばいいのかと疲れが滲み始めたとき、これまでは何も見えなかったはずなのに、石でできた大きな塔が姿を現した。
それは、アリーシャがいた世界でいつからそこにあるのかわからない、何らかの魔法がかかった謎の塔と似ている。
実際、この塔も何らかの魔法がかかっている。
「よく来たね」
「あの、あなたは……この塔に、いらっしゃるのですか?」
塔はあるものの、男性の声だけが聞こえ、その姿は見えない。
「そうだよ。弟子に閉じ込められちゃって。まあ、最強の魔法使いの僕なら自力で出られるんだけど」
「あなたも魔法使いなのですか?」
アリーシャが驚くと、自称最強の魔法使いの男性は笑っているようだった。
それにしても、弟子に閉じ込められたというのに明るくいられるのも不思議だが、自力で何とかできるのならば、何故出てこない。首を傾げていると、男性はその疑問に答えるかのように話し始めた。
「だってさあ、騙し討ちで僕を閉じ込めたんだよ? しばらく閉じ籠ってやれば気が済むかと思えば、調子に乗ってさ」
自分以外にこの魔法は解けないと、弟子が周りに豪語していたことが気に入らないと吐き捨てた。
何だか、どこかで聞いたことがある話だ。元の世界の謎の塔にまつわる逸話だったような気がするが──。
「だから、僕でもない、弟子でもない。まったく関係のない者に解いてもらうことで、その自信を折ってやろうと思って」
「そう、ですか。それよりも、わたしの身に何が起きているのですか? わたしは、早く戻りたいのです」
ここまで男性の声に従い歩いてきたのは、アリーシャの身に起きていることを説明してもらうためだ。このような話をするためではない。
「説明はすぐにでもしてあげる。でも、君には一つやってもらいたいことがあるんだ」
「やってもらいたいこと?」
「言っただろう? まったく関係のない者にこの塔の魔法を解いてもらいたいと」
その言葉を聞いて、アリーシャは絶句した。
そんなこと、できるわけがないと。
アリーシャは、治癒と防御魔法しか扱えない落ちこぼれ。この塔に魔法がかかっていることはわかるが、解くことは不可能だ。到底、できるはずがない。
頷くことも首を横に振ることもせずに黙っていると、男性は静かに話し始めた。
「僕は誰にでもこう言ってるわけじゃないよ? 僕と並ぶ魔法使いまたは魔女にしか言わないと決めていた」
この男性と、アリーシャが並ぶ──そんなことはありえない。
本当は自力でこの塔から出られると、男性自身がそう言っていた。それは、アリーシャにはできないこと。おそらく、一生この塔に閉じ込められたままになるだろう。
他にも、気になったことがある。
男性は「僕と並ぶ魔法使いが来ることを」という言い方をしていた。
ここにどうやって来たのかと思っていたが、アリーシャが自ら来たような、そんな言い方だ。
そうだとすれば、どのようにして──。
「ここは夢の世界。どこにでも繋がっていて、眠りさえすれば誰でも出入りできる場所だよ。僕は現実の世界でも塔の中だから、夢の中でもこのような状態なんだけどね」
口には出していないはずだが、アリーシャが抱いた疑問に答えるかのように男性は話した。
男性の言葉を信じるのであれば、アリーシャは現実では眠っていることになる。
「そう、眠っている。君は魔力を使いすぎて底をついたんだ」
まただ。何も口にしていないのに、頭に浮かんだ瞬間に男性が答えてきた。
「ああ、ごめんね。僕は夢魔との混血だから、夢の世界にいる間は君の心が手に取るようにわかるんだ」
「夢魔との、混血……?」
「とにかく、君は魔力を使いすぎて深い眠りについている。まあ本来ならもう目覚めていてもおかしくはないけれど……僕が引き留めているから、目覚めない」
現実ではまだ眠り続けているはずだよ、と男性は笑った。
つまり、アリーシャがここにいるのは男性が引き留めているから。
何を笑っているのか。アリーシャにとっては全然笑えない話だ。目覚めを妨げているのは、この塔の魔法を解かせるためなのか。そんなもの、無茶だ。
意識を失う前に見たノアの表情は、今もしっかりと目に焼き付いている。一分でも一秒でも早く彼の元に戻り、安心させたい。
「無茶ではないよ。魔法は、不思議を体現するものだ」
それは、原初の魔法使いマーリンが残した言葉だ。
この言葉を知っているということは、男性はアリーシャと同じ世界に──いや、気にするのはそこではない。
これまでは自分のことばかりでなおざりになっていたが、この男性は何者なのだ。
自分では出られるけれど塔の中に閉じ込められたまま、夢の世界にアリーシャを引き留められる力を持つ男性。
「だけどね、それだけでは足りない。そこに想いがなければ、魔法は完成しないんだ」
夢魔との混血。最強の魔法使い。そして、あの言葉。
思い当たる人物が一人いる。かなりの確率でそうだろうと思いつつも、問いかけてしまった。この男性から、答えてほしかった。
「あ……あなたは、誰なのですか」
「僕はマーリン。君は、ユグドラシルの魔女、アリーシャだよね」
ユグドラシル──それは、アリーシャがいる世界の名だ。
世界樹と呼ばれるトネリコの木が世界の中心であり、世界そのものである。
「君が目覚める前に、少し記憶を覗かせてもらった。だから、僕は君のことを知っている」
治癒と防御魔法しか扱えず、家族による転送魔法陣で別の世界アヴァロンへ飛ばされてきたこと。
モルガン王国の第三王子ノアを魔法で救ったこと。それがきっかけでノアと行動を共にし、魔法や魔力で人々の役に立とうと必死になっていること。
そして──モルガン王国を襲った魔王の手下である竜に傷つけられた者を癒し、壊されたものを元通りにしたこと。
「え……?」
「覚えていないの? あれは君の想いが魔法になったものだよ」
理解が追い付かない。あのときはただただ必死で、これ以上壊されたくなくて、傷つけられたくなくて。
「それが、魔法なんだよ。魔法は不思議を体現し、人々に寄り添うものだからね」
本来は、と男性──マーリンは苦笑交じりに話した。
「僕が君を引き留めた理由はそれだよ。さあ、今度は僕の願いを叶えてくれ」
つまり、塔にかけられている魔法を解くということ。
マーリンの言うとおりであれば想いが魔法になるそうだが、あの竜のときは無意識だった。想いを魔法にしたという実感もない。
「何、これは練習だと思えばいい。君はまだ生まれたての雛のようなものだからね」
失敗をしてもいいと、言ってくれているのだろうか。
長嘆息を漏らすとアリーシャは塔に近付き、左手で軽く触れる。けれど、塔にかかる魔法が触れることを拒んだ。まるで透明の壁があるようだ。
これを、解く。アリーシャの想いを、魔法にして。
──何を想えばいいのか。本音は「この塔の魔法を解きたい」だが、それではない気がする。
では、他に何か。アリーシャは目を瞑る。
(魔法は不思議を体現し、人々に寄り添う)
それは、先程のマーリンの言葉。すうっと胸に沁み込んできた。
これまで、マーリンは何と言っていたか。アリーシャは想いを込める。
「この塔にいるマーリン様を、出してください」
パキ、と音がした。その音は連続して響き渡り、塔にかけられている魔法にヒビが入っていく。
やがて、魔法はガラスが砕け散るように消え、塔は音を立てて崩れた。
「マーリン様!?」
塔は、魔法で支えられていたようだ。積み重なった石の中にマーリンが閉じ込められてしまったと、アリーシャは慌てて石を浮かせようとする。
「やあやあ、上出来じゃないか」
右肩に手を置かれ、後ろから声がした。
振り向くと、そこには妖艶な雰囲気を持つ若い男性が立っていた。
ライラックに似た色のアーモンドアイに、ラピスラズリの色をした長い髪を後ろで三つ編みにしてまとめている。両耳は長くとがっていて、人間ではないと一目でわかる風貌。何より、白皙の肌がこの暗闇でも眩しく感じてしまう。薄い唇は弧を描き、目を丸くしているアリーシャに向けられていた。
「……誰ですか?」
「やだなあ、君に救ってもらったマーリンだよ」
閉じ込められていた割には全身に汚れは見られず、身に着けている白いローブはその白さを保っている。
若い男性の声だとは思っていたが、見目はアリーシャの年齢とそう変わらない。何百年と生きているにも関わらず若い姿をしているのは、夢魔との混血が関係しているのだろうか。
「この塔はそもそも何なのか。まあ僕が閉じ込められていたわけだけど、それがわからなければ解けない仕様なんだよね」
アリーシャの想いは正解だと、マーリンに右肩をトントンと叩かれる。
「それにしても、あのユグドラシルで育った魔女がここまで成長できたものだ。アヴァロンに来たことで成長できたのかな?」
「どういう意味ですか?」
「そうだなあ、またどこかで会ったときにでも話をしてあげよう。僕は一度王のもとへ帰らないといけないし、君も早く戻りたいだろう」
マーリンはパチンと指を鳴らした。途端、アリーシャの左手があたたかくなる。
まるで、誰かに包み込まれているようなあたたかさだ。
「ずっと、君を呼んでいる声が届いていた。今なら君にも届いているはずだよ」
耳を澄ませてみると、確かにアリーシャの名が聞こえる。この声は──。
「ノア……!」
「アリーシャ、君に会えてよかった。誰か一人でも僕の残した魔法を受け継いでくれていたとわかって、嬉しかったよ」
頭上から光が差し込み、辺りも明るくなっていく。よくわからないが、引き留められることもなくなり、アリーシャが目を覚まそうとしているのかもしれない。
つまり、マーリンとの別れを意味する。
「君はこれで魔法とは何かを掴んだはずだ。最初は失敗の連続かもしれないが、恐れずに使っていってほしい」
「はい……」
「かのモルガン・ル・フェも、最初はそうだったからね」
おとぎ話の聖女の名が、何故ここで。
またね、とマーリンはアリーシャに手を振る。その身体は透け始めており、ここから消えようとしていた。
こんなところで話を終えられては消化不良だ。とはいえ、アリーシャ自身もこの世界から消えようとしている。
敢えてこのタイミングでこの話をしたのか、この男は。
意地悪だと怒りを滲ませていると、マーリンは意地の悪そうな笑みを浮かべた。が、それはすぐに艶やかな笑みに変わる。
「アリーシャ。僕は、世界には幸せでいてほしいんだ。そのために、魔法使いや魔女は存在していると思っているよ。モルガンも、そうだった」
そこで、アリーシャの意識は途切れた。
 




