覚えのない追跡者
仕事を終わっての楽しみは、部屋に帰ってナナに会うことだ。
帰り道に小型トラックを走らせながら妄想する。玄関の鍵を開ける前から、中から聞こえてくる、その、甘い声を。
毎日遅くなる俺をナナはずっと待ってくれている。
扉を開けると純白のナナが駆け出してきて、アパートの部屋の前のコンクリートにゴロゴロ転がり、喜びを全身で表現してくれる。
『ただいま、ナナ』
俺が言うと、彼女は目を細め、かわいい口を笑うように開いて、『な~』と言うだろう。
チンチラ猫のナナをお迎えして1ヶ月。もうすぐ生後4ヶ月の可愛い盛りだ。毎日会えるのが待ち遠しくてたまらない。
片側二車線とはいえ県道は少し狭い。小型トラックを走らせるスピードがどうにも上がってしまう。いけない、いけない。社内制限速度をあまり超えるとボーナスに影響する。ナナにいっぱい玩具を買ってやるんだ。ナナをかわいく演出してくれる玩具をな。フフフ……、ウフフ。栄養満点のカリカリも買えなくならないよう気をつけねば。
逸る想いを抑えながら、左車線を社内制限速度以下で走った。23時の県道は交通量はそこそこあるが信号が少なく、スイスイ走っていける。
しばらく走っていると、やたらと後方が白く明るいことに気づいた。
小型トラックとはいえ箱車なので後ろはよく見えない。荷台がアルミの四角い箱になっているので、死角が多いのだ。バックモニターもついていないので真後ろの確認が出来ないが、どうやらケツにビタづけしている車がいるようだった。
『煽りかな? いや、やたらと車間距離の近いやつ、よくいるからな……。二車線あるんだから抜いて行けよな……』
俺は気にしないことにした。ナナのかわいい顔を浮かべて気を紛らわせる。
すると後ろにビタづけしていた車が右車線にレーンチェンジした。ウィンカーは出していないようだった。スーッとスピードを上げて、俺の真横に並んだ。
青いスズキスイフトだった。運転席は向こう側なので運転手の姿は見えない。助手席には誰も乗っていない。
やがて俺をゆっくりと追い越すと、ギリギリの近い距離で前に入り込んできた。
「危ないなぁ……」
俺は仕方なくアクセルを緩める。
「こういうやつ、いるんだよなぁ……。後ろの車との距離感すらわからないほどヘタクソなのに、イキった運転をするというか……」
スイフトが急ブレーキを踏んだ。
「おいっ!」
俺も急ブレーキを踏まされた。幸い荷台には何も積んでいないので荷物事故にはなりようがないが、いつものようにドレッシングの瓶を大量に積んでいたら損害賠償を請求しているところだ。
スイフトがやたらノロノロと走りはじめた。追い越そうとすると、ノーウィンカーで向こうも車線変更し、前をブロックしてくる。
「な……、何なんだ……」
夏だというのに背筋に冷たいものが走りはじめた。
「き……、キチ◯イなのか?」
スイフトが速度を上げた。そのまま前に消えていってくれと願っていると、またノロノロになって車間が詰まりはじめる。俺が右にウィンカーを出すと『そうはさせるか』とばかりにスイフトが先行ブロックしてくる。
早く帰ってナナに会いたいのは山々だが、事故を起こしたらとんでもなく遅くなる。下手をしたらもう二度と会えなくなるかもしれない。俺はスイフトに殺意を確かに感じていた。
「停まってやり過ごそう」
口に出してそう言い、俺は小型トラックを路肩に停めた。
すると少し先でスイフトも停まった。
俺のてのひらを冷たい汗が滴った。降りて来るのだろうか? それにしても、俺が何をしたというのだろうか?
スイフトの運転席のドアが開いた。
ユラユラと中から現れたのは、40歳台ぐらいの男だった。緑色のパーカーを着て、フードを被っている。
俺は慌ててスマートフォンを手に取った。110番しようとしていると、男が近づいて来た。その手には大きな金槌を持っている。
思い切り振りかぶり、男が俺のすぐ横のガラスを金槌で叩いた。
雷のような音と振動を俺は覚えた。車のガラスは簡単には割れないものと思っていたが、サイドガラスはいとも容易く砕け散り、俺は破片を横っ腹に浴びた。
男はふつうにどこにでもいるようなオッサンだった。殺意をありありと表情に浮かべ、俺を見下している。
「な……、なんなんだ、アンタ!」
俺には他人から恨みを買われるような覚えはない。真面目に生きて来たつもりだし、女絡みで恨みを買おうにも、そんな女もいたことがない。ただわけがわからず喚くばかりだった。
「誰なんだよ、アンタ!? 俺はアンタなんかしらないし、こんなことをされる覚えもないぞ!?」
すると男がニヤリと笑い、感情を圧し殺したような声で、言った。
「俺はあの時おまえが追い越した運転手だよ」
お、覚えがない……!
あの時って……? 俺はずっと左車線を走っていただけだが……。
「バカにしやがって……」
男が歯軋りとともに、呻き声を漏らした。
「俺をバカにしやがって!」
咄嗟に俺はギヤを2速に入れ、車を急発進させた。サイドブレーキを引いてなくてよかった。
男が何か叫ぶのが聞こえた。窓を見ると金槌を窓枠に引っ掛けて、足が道路から浮いた状態で、ついて来ている。
「ぎゃああああっ!」
俺は絶叫しながらスピードを上げた。