第8話 リシェル・ブロンジェ公爵令嬢
『テンセイキッチン』をオープンさせてから一か月が経過した。
従業員達も作業に慣れてくれて、少しずつお客様も増えてきたし、ヴィリーさんを追い返して以降大きなトラブルもなくすっかり順調だった。
にまにましながら移動教室のために渡り廊下を歩いていると、私を呼びとめる声がした。振り向くと級友のカルラ様が笑顔で駆け寄ってくる。いつもにこやかで感じの良い方なのだけど、今日はまた一段と機嫌がよさそうに見えた。
「ごきげんようエレノア様。是非お耳に入れたい話がありまして、よろしければ聞いてくださいます?」
「ごきげんよう。なんだか楽しそうですわね、一体どういたしましたの」
「最近巷に、『テンセイキッチン』というとても素晴らしいレストランが出来たそうですのよ。大衆向けのレストランなのですが、高級店にひけをとらない味だとか」
「へ、へえ!?そそそ、そんなレストランが?」
とっさの事に思わずどもってしまったが、興奮気味のカルラ様は気が付いた様子はない。
「そこでウチの叔父がオーナー様に交渉しておりまして、ゆくゆくは大通りに2号店を開こうという話もあるそうですの!その時には少しレシピを改良して、若者受けするお洒落なお店にするそうですわ。試作品を味見させて頂いたんですけど、それが本当に美味しくて!お店が開店の際には是非エレノア様も一緒に行ってみましょう?」
あっ、交渉していたリードさんってカルラ様の親戚筋だったんだぁ。広いようで世間は狭いな……って、バレたらどうしよう。
「ま、まあ楽しみですこと。開店した時には必ずお店に伺いますわ」
(お客様じゃなく、オーナー兼シェフとしてだけどね……)
だけど正体を知らないはずのカルラ様がこんなに絶賛してくれたことは本当に嬉しかった。
私はこれまで誰かの役に立てるような特技も無かったし、前世のことがなければずっと何も出来ないままだっただろう。それは恵まれているけれどもどこか物足りなく、本当の意味で自分の人生を歩いていないような虚しさを伴っていた。
誰かの小さな喜びになれること。それは私にとってなによりも幸せな奇跡だった。
「ああ嫌だ。こんな所に来てまで浅ましく身内の商売の話だなんて、みっともないですわ」
(……えっ、何……?)
「本当です。こんな下品な方たちが堂々とのさばっているだなんて気分が悪いですね」
「ええ、そうですよね。恥ずかしげもなく、慎みがありませんわ」
クスクスと嫌な笑いがおきる。
声のする方を向くと、リシェル公女様とそのお友達らしい一行がこちらを蔑んだように見ていた。ムッとしたが相手は公爵令嬢。言い返したって分が悪いだけだし、最悪実家に迷惑がかかるかもしれない。
「……行きましょう、カルラ様」
「え、ええ……」
「あら、どちらに逃げますの?」
挑発と分かっていても逃げるという言葉は心外だ。どうやら向こうは私達を見逃がす気は無いらしい。
標的はきっと私一人。公女様の目は私だけをじっと見つめている。気に入らないならわざわざ関わってこなければいいのに、そういうわけにはいかないようだ。
「あのう、公爵令嬢は誤解されています。私は何も学園の中で押し売りをしているわけじゃ……!」
公女様は難癖をつけてきただけで、どこまで本気で私達の会話を不適切だと感じていたのかは分からない。だけどカルラ様は公爵令嬢達の言葉に思いのほか傷ついたようだった。貴族の中ではあまり身分が高くない男爵令嬢であるうえに、元は平民の大商人だったカルラ様を悪くいう輩がいるのは知っていた。貴族社会の中で労働や金儲けを異常に毛嫌いする風潮があることも。
今まで受けてきた仕打ちもあり、カルラ様は熱くなっているようだったが今回は相手が悪すぎる。
「だって結局は店の宣伝のお話でしょう?そもそも大衆向けの飲食店だなんて下品ですわ。貴族なら採算が取れずとも、もっと高潔な名誉ある仕事をするべきです」
「そんな……ひどい!」
その時、すぐにカルラ様をフォローすべきだったのだろう。
だけど公女様の言葉が胸に突き刺さり、私は思わず硬直していた。その言葉は悪意と偏見に満ちていたけれど、確かに一部の貴族の本音であることは事実だったから。わかっているつもりだったのに、改めて言葉にされると自分の大切なものを否定されたようで辛かった。
ショックで立ちすくんでいる間に二人の言い争いは過熱していき、気がついた時にはついにカルラ様が公女様を突飛ばそうとしていた。
(駄目……何があっても公女様に手出しをしたらお終いよ!)
私は慌てて二人の間に割って入った。と同時に小さな影も同じように走り、タイミング悪く公女様を除く三人でぶつかり合う結果になってしまった。
ドンッ!
「あっ!エレノア様っ!」
公女様の代わりに突き飛ばされた私は体勢を崩し、足首をひねってしまった。突き抜けるような痛みが走るがなんとか堪え、カルラ様に笑って見せる。
「巻き込んでごめんなさい。公女様の狙いはきっと私です。大丈夫ですから、今はカルラ様はお戻りになって下さい」
そっと囁くと、頭が冷えたらしいカルラ様はこくこくと頷いて立ち去ってくれた。
良かった。彼女は生粋の貴族と違って少しカッとなる時がある。その素直さを私は好ましく思うけど、貴族令嬢同士の戦いにおいては有利な性格とは言い難かった。
「あらあら。せっかくのお友達にも見捨てられてしまいましたのね」
リシェル公女様のあざけるような声に顔を上げると、先ほどぶつかってしまった小柄な令嬢が怯えた顔ながらも公女様を守るように立ちはだかっていた。平凡な茶色い髪に茶色い瞳、まるでお姫様のような公女様と並び立つと一層地味にみえる、気弱そうな少女だった。
「おどきなさい、ベス。さっきの礼儀のなっていない令嬢と違って彼女は自分の身分をよくわかってる人でしてよ。そうでしょう?」
公女様に乱暴に手をひかれ、ベスと呼ばれた少女はよろけるように後ろに下がった。乱雑な扱いに、私は思わず眉をひそめる。
「……貴方、お名前は?」
知っているくせに名乗らせるのね。社交界では身分の高い方が名前を訊き、低い方がそれに答える形で自己紹介する。分かりやすいマウントに苛立つけれど、公爵令嬢にあからさまに逆らう事はできない。
「エレノア・ボンネフェルトと申します」
「あら、貴方がボンネフェルト伯爵令嬢ですのね」
そう言って微笑んだまま、自分の名前は名乗らない。これは私から話しかける事は許さないという意思の現れだ。こうなるともう、私は公女に許しをもらえるまで自分から発言することは出来ない。
「そういえば私、最近妙な噂を聞いておりますのよ。とある貴族令嬢が、なにやらお店の経営を直接されているとか……。家門の力で投資を行うならまだしも、自らしゃしゃり出て直接経営をするだなんてはしたない。貴方もそう思いませんこと?」
(え……!?)
心臓が気持ち悪いくらいドクドクと早打ちする。何か知っている?それともカマをかけているだけ?公女様は途端に機嫌が良くなり、にっこりと微笑んだ。左右に控えていた令嬢の取り巻き達もわけ知り顔で目配せをしあっている。
公女は獲物をいたぶる猫のような目つきをしていた。
「そんな恥知らずの貴族令嬢がいるだなんて本当に情けないことですわよね」
「……」
私は何も言い返せなかった。長年貴族として教育を受けてきたのだ。自分の異端さはよく理解している。
「そんな者はもう貴族だなんて呼べませんわ。誰よりも誉れ高く模範となるべき存在が労働に汗するだなんて、貴族全てに対する冒涜ですわよ!」
自分は決して間違っていないと思っていたはずなのに、あまりにも真っ向から否定されると気持ちがぐらついた。
「本人だって本当はわかっているはず。顔も見せずにコソコソしているのが、何よりの証拠ではありませんの」
(たしかに私はお父様達にも内緒で働いていた。本当に恥ずかしくないなら、堂々とするべきだった?だけど、そんな事絶対許されるはずがないと思っている自分がいて、それは私自身も本当は恥ずかしいと思ってるから……?)
勝ち誇るような公女様の言葉にぐらりと眩暈がした。
(私は…間違ってたの…?)
「それは違うぞ、リシェル公女」
誰よりも力強く、自信に溢れた声が私を引き戻した。
「人にはそれぞれ事情がある。事実を告げるにしたってタイミングもある。時には心配をかけまいと配慮することの何が悪いというのだ。たとえずっと表立って顔を出さずとも、本当に大事な事さえぶれてないのなら、それは大した問題ではないだろう」
公女は戸惑った表情で息を飲んだ。
そしてそれは私も同じだった。
そこにはいつも通り偉そうにふんぞり返っているライリーと、息を切らせてこの場に戻ってきたカルラ様がいた。
「ま、まあライリー様。まさか、金儲けに走り回る下賤者を庇うおつもりですの?」
「先程から金、金とずいぶんこだわるな。一番それを気にされているのは貴方自身のようだが」
公女は顔を真っ赤にした。
「な…ありえませんわ!ライリー様、何故そのような事を!」
「そうだな。きっと俺の勘違いだろう」
そう言いながらライリーは私を抱き上げた。
「なっ、ちょっと、ライリー様!いきなり何を……!」
「足を痛めているんだろう?さっきから庇っているのがわかった。このまま馬車まで送るから掴まっていろ」
(だって、公女様の前なのになんで!?)
案の定うしろを見ると、わなわなと肩を震わせ悔しそうに睨みつけるリシェル公爵令嬢と、それをおろおろと見守るベス様や取り巻き達がいた。うう……、今のは見なかった事にしよう。
第一、抵抗しようとしてもライリーはさっさと歩き始めてしまったのだから、私は落とされないようにしがみつくしか他になかった。