まどいの鏡
何もかもが嫌だった。自分の顔はパッとしなかったし、きれいでもなかった。何よりも嫌だったのは、お父様やメイドたちが私を嫌っているらしいことだった。
そんなわけで友達もいない私は、家庭教師に勉強を見てもらってない時は屋敷内の図書室で時間をつぶすのが決まりとなっていた。お茶会を開いても訪問してくれる友達もいないし、たまに街に出ても誰もが私を見て笑いをこらえた顔をするものだから、部屋の中に閉じこもり本の世界に逃げ込むのはたやすかった。
本の中の人物は私を否定しない。たまに意見の合わない人物が出てくることがあってもその人が私を傷つけに来ることはない。けれどいつの間にか私はため息をついていた。
「……はあ、私もこの主人公みたいに美人だったらなぁ……。みんな私のとりこになるはずなのに……」
そんなときだった。かすかに耳元で誰かがささやく声が聞こえたような気がした。私はハッとして辺りを見まわしたけど、誰もいなかった。
「気のせい、かな……」
気を取り直して読書に戻ろうとした時だった。
「きれいになりたいかい?」
かすかだけれどさっきよりも声が聞こえた。部屋の中に誰か入ってきたのだろうか。
「だ、誰なのっ?」
「きれいになりたいんでしょ? だったら叶えてあげるっ。その願い。君の部屋にある物を届けてあげるよ。それで君はきれいになれる」
姿の見えない声の主は私が探しだそうとしたとたん消えたようだった。机の下、本棚のそば、どこを見ても誰もいなかった。声の言ったことが気になったが、私はとりあえず部屋に戻ることにした。
部屋に戻ったとき今まで私の部屋にないものがあったので自然に目についた。それは全身を映せる大きな鏡だった。
「いったい誰が……。それとも本当にあの声がこの鏡を持ってきたの?」
私は鏡を見ないようにしながらつぶやいた。あの声の主が持ってきたとしたのなら相当な嫌がらせだ。私は自分の顔に自信を持ってないため、部屋に鏡を飾っていなかったのだ。それなのに今はこれ見よがしのように堂々と鏡が部屋の真ん中でそびえていた。
その日から私はその鏡を捨てようとした。けれど、捨てても捨ててもその鏡は私の部屋に戻ってきた。まるでその鏡が意思を持っているかのようだった。私がその鏡を見るまであきらめまいとしているようだ。
「もうなんなのっ。この鏡はっ。もう割ってやるっ」
ある日とうとう限界が来てその鏡を割ろうとした時だった。図書室から持ってきた大きな本を振り上げ鏡を割ろうとした時私は、その鏡を見てしまった。いや、正確には鏡に映る私自身を見た。
「こ、これ、本当に私……?」
その鏡に映る私はまるで私じゃないみたいだった。顔はきれいだしスタイルもとても良かった。私は怒りも忘れその鏡に見入った。
「どう? 気に入ってくれた?」
その声は鏡から聞こえてきた。私は驚いて鏡の裏を見たが誰もいなかった。それをからかうかのようにもう一度声が聞こえた。
「もう君ったら、何度も鏡を捨てようとするんだもん。参っちゃうよ~。でも、やっと鏡を見てくれたね」
「今まで捨てようとしてごめんなさい。本当にありがとうっ」
「どういたしまして~」
声の主が誰かなんて、どうでもよくなっていた。鏡の中の私は確実に誰よりもきれいなのだ。それから私は、毎日鏡に映る私を覗くのが日課になった。
それからしばらく日が経った時のことだった。私は勉強も裁縫も身に入らなくなっていた。考えるのはいつもあの鏡のことばかりだった。あの鏡に映るのが私であって、ここにいる私は本当の私ではないとまで考えるようになった。そのせいなのか、家庭教師に注意されても今までのように素直に謝らなくなった。
「お嬢様っ! そんな態度はいけませんっ。それでは素敵なレディになれませんよっ」
「いいじゃないそんなこと。こんなもの習ったって意味ないじゃない。どうせ人が見るのは見た目の良さなんだから」
「お嬢様っ!」
口答えするのは初めてだった。家庭教師の傷ついた顔を見るのも初めてだった。けれども私は鏡に魅入られてしまっていた。私は家庭教師に謝らなかった。
そんな日の夜のことだった。お父様に呼びだされた。怒ったお父様を見るのは初めてではないはずなのに、今のお父様の怒りは今までとは違っていた。
「……いったい、どういうことなんだ? そんなに勉強するのが嫌か? それでもあんな態度はとるもんじゃない」
今までなら怒鳴られてきたはずなのにお父様は静かに淡々と怒っていた。私は怖くなってしまったせいか押し黙ってしまった。
「黙っていたらわからないぞ。どういうつもりなんだ?」
きっとお父様は私が話し始めるまで解放してくれないに違いない。私は恐る恐る口を開いた。
「鏡のせいなの。鏡に映る私がきれいだから……」
言ったとたんお父様は不可解な顔をした。私の言ったことがわからない、そんな顔だ。
「鏡? どういうことだ? お前の部屋に鏡はないはずだが」
「一週間前に鏡が送られてきたの。そこに映る私はとてもきれいに見えるの。お父様が送ってくださったんじゃないの?」
言い終えたとき、お父様の顔が青ざめていったのがわかった。
「ほ、本当にそんなものが送られてきたのかっ。そんなものが……」
「ええ。とっても気に入ってるわ。本当の私はあの鏡に映る私のほうなのよ」
そう言いきると、お父様はうなだれたようだった。私にはどうしてそんなに落ち込むのか理解できなかった。
「……説教はもう終わりだ。部屋に戻りなさい」
その日の夜は眠らなかった。お父様のふさぎこんだ顔が頭を離れない。それでも、鏡を見ると気分がよくなった。きれいな顔の私がそこにいる。お父様もきれいな私のほうが好きなはずなのにどうしてあんなに落ち込むのだろう?
「気にすることはないよ。君の父親もいつか分かってくれるはずさ。きれいな顔の君は素敵だからね」
「そう……、よね。気にしたって仕方がないよねっ」
「そうだよ~。だから、今夜はたっぷりときれいな君を味わいなよっ」
朝が来るまで私はその鏡を見続けた。ずっと、ずっとこの顔を見ていたい……。
「このドアを開けてっ! 開けるんだ!」
「誰だね、君はっ! 勝手に入ってきてっ!」
「あの鏡を今すぐ割らないといけませんっ! あれは人を惑わす鏡なんです!」
「……そこまでいうのなら、ドアを開けようっ。スペアキーがここにある。これでこのドアは開く」
部屋の向こう側でお父様と誰だか知らない人の怒鳴りあう声が聞こえてきた。鏡を見続けていた私は思わず声をしたほうを振り向くとドアを開けて入ってきたのは小さい時一緒に遊んだおさななじみの少年だった。しばらく会っていなかったせいか少年と言うより青年になっていた。おさななじみは心配そうな顔をして私を見ていた。
「どうしてきたの……。よくお父様が許してくれたわね。それよりも何の用事なの?」
「僕はこの鏡を割りに来た。街で噂になってるよ。君がこのまどいの鏡に魂を抜かれて別人になってしまったって」
「どっ、どういうこと! 鏡に魂を抜かれるですってっ! 私は抜かれてなんかないわっ!」
取り乱した私にお父様が割って入った。私は振りほどこうとしたが、お父様の力は強く、そのまま鏡から引き離された。
「いやっ! 離してっ! あの鏡を見たいのっ! この鏡は私の欲しいものをくれるのっ!」
「もうすっかり鏡のとりこになってしまってるな……。君、窓を開けてくれたまえ。二人でこの鏡を抱えて窓から落とそう」
「わかりました。では……」
「いや、やめてっ! 欲しいものを見せてあげるから、壊さないでよっ!」
お父様たちが入ってきたことにより押し黙っていた鏡だったが、壊されると感じ必死にお父様たちに取り入ろうとした。つまり、お父様とおさななじみの青年の欲しいものを見せたのである。お父様にはまばゆいばかりの名誉、そしておさななじみの青年のそばには誰かがとなりにいた。しかし、私が見ようとするまでもなく二人は鏡を抱え、窓から放り投げてしまった。
「なんてことをするのっ! あれは欲しいものを見せてくれる鏡なのにっ!」
「……僕はね。あんなものなくていいと思ってる」
「えっ。どうしてっ」
「だって鏡を見たところで本当にその夢がかなうわけじゃないんだ。そうだろ? 本当の幸せは自分で気づいて見つけるものなんだ。僕だって君が自分自身の顔を嫌いなのは知ってる。けど、君にはほかの長所がある」
「うそよっ。美人でもないし、雑だし、手先だって不器用なのに……」
「君の笑顔はみんなを明るくさせるんだ。確かに君はきれいじゃないかもしれない。けど、君の笑顔は誰よりも素敵なんだ。……だから、美人じゃないからと言って自分を貶めるのはやめにしてくれ」
私はそれを聞いて恥ずかしくなった。鏡が届いてからの私は本当に恥ずべき振る舞いをしていた。家庭教師にも威張り散らしていたし、鏡の中の私が本当の私だと思いすぎて周りのことをないがしろにしすぎていたのだ。
「ごめんなさい、私……」
「謝るなよ。それよりも、これからはあまり夢にうつつを抜かすんじゃないぞ。夢ばっかり見てたら、目の前にある大事なものが逃げてくからな」
「え、それって……」
「それじゃ、僕はこれで帰るよ。じゃっ」
おさななじみはそう言うと、来たときと同じようにさっそうとドアから出て行った。お父様はあっけに取られていたが、なぜか安心していたような顔をした。
「これで、お前の将来は安泰だな」
それからは変わり映えのない日常がまた始まった。相変わらず美人じゃないし街に出ると私の顔を見て笑う人がいる。それでも私は気にならなくなった。おさななじみの言葉が私を救ってくれたから。本当に大切なものは探さなくてもそこにあったのだ。