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聖ウェヌス女学院  作者: Paddyside
第1章 不思議のメダイ -Mysterious Medal-
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#097 光陰矢如

その後も長尾智恵と馬場学長の面会は続いていた。

ナースステーションに居る担当看護師は数時間も面会が続いている状態に長尾智恵の体力が耐えられるのかと心配していたが担当医師はこの世界に関わる問題を話しているのだから邪魔してはいけないと言われている。


「それに何かあればナースコールがあるはずだ。」


でも何かあってから呼ばれても正直困るのは自分たちで馬場学長は何も出来ないではないかと訝しげに思っていた。悶々とした時間だけが過ぎて行った。






「もし私の仮説が正しいなら意識を失った状態の神の分霊を持った者が3年前にどこかに飛ばされたという事になるはずです。であれば,松田院長も神の分霊を体内に持っているという事になります。」

「確かに‥‥‥」


長尾智恵の仮説に馬場学長は顎を手で押さえて唸る。

しかも松田院長がどの時点で神の分霊を持つ事になったのかによっては馬場学長,戸田愛乃,山内円佳,水野紫苑にも影響があると長尾智恵は考えていた。

しかし馬場学長は長尾智恵の仮説に違う可能性を考えていた。幼馴染の北条美織が交通事故に遭い死亡した一件だ。

北条祈里の母親である北条美織はとある組織に狙われて事件に巻き込まれていた。その末に交通事故で死亡したのだ。しかも聖ウェヌス女学院総合病院に運び込まれた遺体が消失するという事件まで起きた。それほどまでに北条美織の持つ何かを執拗に狙っていた。

今思えば,それが神の分霊だったとするのなら納得もいく。

そして神の分霊が北条美織の娘たちに受け継がれたかどうかは別にしても特殊な能力が備わっていた。そのうち,末娘の北条祈里には彼女の血を輸血されると輸血された者同士が精神を感応し合えるという珍しいものだ。強い力ではないために意識しないといけない上に相手の心を読めるところまではいかないが,今回の試練には大変に役に立った。

そして自分が思い付かないような利用方法があるのではと考えた時,北条祈里の身に危険が及ぶのではないかと考えた。


『でもこれは長尾さんに背負わせる訳にはいかないから話せることではないわね‥‥‥』


それに場合によってはまだ能力が分かっていないとはいえ北条祈里の姉・北条花織と北条咲織の身にも危険が及ぶ可能性だってある。

現実の世界の状況がまるで掴めない以上,余計な心配させる訳にはいかないと馬場学長は考えた。


「それで‥‥‥」


神の力による結界が強くなり過ぎて馬場学長や樋口ソフィアの世界巡廻の術が行使できなくなったのだとしたら例えば一緒に術の行使をしてみたらいいのではないかと話した。

ただ世界巡廻の術を使う場合,飛びたい場所のイメージをするので,2人以上で行使するにしてもそのイメージを合わせる必要があるはずで,合わせられないと神の力による結界も破れない可能性もある。

一番いいのはソピアーの居る神域をイメージできればいいのだが,馬場学長は神域に行った事はない。樋口ソフィアと馬場学長がイメージできるのは八意思兼神の世界だが,あそこはもう存在しない。現時点では完全に手詰まりだった。

長尾智恵は自分のリハビリを早く済ませて樋口ソフィアと一緒に神域に向けて世界巡廻の術を行使するのが一番だろうと考えるが,正直樋口ソフィアがその提案を受けてくれるか分からないし,3年前だとしても自分にとっては昨日の事でまだ気持ちの中に蟠りが残っているから無理だと思っている。


「あとは‥‥‥」


学長室の消失した扉を復活させるのがベストだろうと考えるが,いまいちその方法が思い浮かばない。例えば,馬場学長と樋口ソフィア,それに自分の3人で扉のあったところで世界巡廻の術を行使して繋げられないかとか,カフェテリア・ポーモーナルにある神域の門やウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の扉にある門と同じようなものを設置できればなど曖昧な方法はあるのだが実効性があるかと言われたら分からない。


「はっきりしているのは‥‥‥」


神々の閉鎖空間を維持する力が強くなり過ぎて人間の力ではそれに対抗できなくなっているのは確かで,神がこの世界に来てくれれば一番早い解決方法なのだとは思うが,彼らがいつ現れるかなんて予想もつかない。


「どう考えても手詰まりですね‥‥‥」


でも長尾智恵は早くリハビリをして動けるようになり,思い付いた方法をやってみてからまた次の対策を考えればいいと思っている。馬場学長もその意見に賛成だった。

そして馬場学長は長尾智恵のリハビリ期間中に樋口ソフィアの懐柔を試みる事にした。

翌日から長尾智恵は3年間を取り戻すための行動を始めた。






樋口ソフィアは朝起きた時から異常なまでにイライラしている。その原因が長尾智恵だとは知らなかった。

例え井の中の蛙と言われたとしても自分がこの閉鎖空間という小さな世界を掌握し君臨しているという支配欲に満たされていた。しかも閉鎖空間に居る者たちは自らの自由意志で行動していると思っているが,実は樋口ソフィアの誘導を受けている。それがまた樋口ソフィアにとって面白くて仕方がない。その気持ちを揺るがすような不安に苛まれていた。


「何なの‥‥‥いったい‥‥‥気持ち悪い‥‥‥」


悍ましいまでの不安がもぞもぞ這い回るように身体の中を駆け巡り,体表に鳥肌となって現れる。

彼女はこの感覚に覚えがある。それは同族嫌悪。


「‥‥‥まさか。」


長尾智恵が戻った事は病院側から馬場学長に伝えられているだけで教員たちですらまだ知らない。だから生徒にも無論教えられていなかった。しかし樋口ソフィアは長尾智恵の存在を第六感で感知しているようだった。

それから樋口ソフィアは情報収集に走った。

でも今朝,病院から馬場学長に連絡が入り,長尾智恵の事を考えると面会は馬場学長1人で行った方がいいと判断し,情報の遮断がされた事で樋口ソフィアは何の手掛かりも掴めなかった。

そもそも樋口ソフィアは今まで孤独の中で生きてきたために情報管理の重要性というものに疎かった。それが仇になったと言える。さらに閉鎖空間を支配しているという傲りもあって,周囲にアンテナを張り気を配るという事が出来ていなかった。いざとなれば強権で何とか出来ると思っていた部分もあったのだろう。

馬場学長が総合病院に長尾智恵のお見舞いに行く前に面会したにも関わらず,情報を引き出せないでいた。

それにちゃんと馬場学長の動向を探っていれば,午後に病院に向かったのも掴めたのに樋口ソフィアはそれをしていなかった。3年の間に支配と平穏の狭間で過ごしてきて,そういった感覚が明らかに鈍っていたのだった。

樋口ソフィアは病院に向かったが,病院には入れてもらえなかった。

3年前に戸田愛乃たち、山県先生と一条日向が退院してから病院は医師による医学の研究と看護師の技術の研鑚の場となっており,生活の場は学院のみとしていて,よほど重い病気でもない限りは基本的に関係者以外立ち入り禁止となっていた。


「別に,何も,変りはないようね。」


病院の敷地を出たところでゆっくりと振り返り病棟を一瞥すると樋口ソフィアは学院へと戻った。

まだ心のイライラは消えない。それどころか増す一方だった。

総てが思い通りになっていて掌握していたはずの小さな世界の3年間。

それが脆くも瓦解していくような感覚に襲われる。

北門を潜って,緑豊かな菩提樹の遊歩道を進み,大学棟の前を通り過ぎると春日結菜の居るカフェテリア・ポーモーナルが見えてくる。

相変わらずポモナからは神饌用の食材が送られてくるがこちらから作ったものを返す事は出来なかった。そのためにこの世界に住む者たちはその食材で春日結菜の作った料理を朝昼晩とこのカフェテリアで食べていた。


「今日の夕食は何だろう‥‥‥」


樋口ソフィアは春日結菜の料理の大ファンだった。

彼女の料理は苛つく気持ちを落ち着けるリラックスをはじめ様々な効果がある。それは神饌用の食材を使っている事でハーブよりも強い効果があるようだった。


カラン,カラン,カラーン‥‥‥


樋口ソフィアはカフェテリア・ポーモーナルの扉を開けて店内に入る。

奥の厨房から春日結菜が音に気が付いて出て来た。


「あら。夕飯の時間には随分と早いようだけど。」

「少し気持ちを落ち着けたいので御茶したくて‥‥‥」

「では,ちょっと待っててね。」


春日結菜は奥の厨房に戻った

樋口ソフィアはテーブル席に着き,椅子に腰掛けて大きな全面窓から愁いの籠った瞳で外を眺める。店内にはハーブの香りが立ち始め,静かだった店内にお湯の沸くケトルの音が響いてくる。

鼻腔を擽る心地良いハーブの香りとお湯の沸騰する甲高いケトルの音,嗅覚が安静を齎し,聴覚が不快を煽る。相反する感覚が動揺と混乱を招き,不安を増長する。

正直,樋口ソフィアはこんな日常生活に有り触れている臭いや音に敏感に反応して,いちいち心を揺らす事など今までにはなかった。それほど精神的に不安定に陥っているのだろう。でも本人はそんな事をこれぽっちも感じてはいない。外的には恐ろしいほど敏感なのに内的にはあり得ないほど鈍感になっていた。


「お待たせ。」


準備を終えた春日結菜が厨房からワゴンを押して現れる。

一歩一歩進むたびにワゴンに載った陶器のティーカップやソーサーが揺れて,カチャカチャと音を立てている。その大して大きくもない音にすら樋口ソフィアは頭を抱えて異常なまでの反応を示してしまう。


「いやぁ!」


樋口ソフィアは大声を上げるとガタッと勢いよく椅子を倒して立ち踵を返して走り出し店から飛び出して行った。

春日結菜はそれを何が起きたのか分からず呆然と見送るしかなかった。

樋口ソフィアは遊歩道へと駆け出したが,暫くすると肩で息をし始めてトボトボと歩くようになった。視界にウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂が目に入る。遊歩道を外れて礼拝堂の入口の石段に腰を下ろした。

まだ夏の暑さを残す夕暮れ前の時間だが,礼拝堂の周りは樹々が多く木蔭もあるので吹き抜ける風が心地よい涼しさを演出してくれる。そして樹々に留まっている蜩たちの鳴く声が風に載って響いてくる。

本当なら蝉の鳴く声を煩いと感じるはずなのに‥‥‥と樋口ソフィアは感じていた。

カフェテリアでのケトルの沸騰音,ティーカップやソーサーの当たる音,そして蜩の声‥‥‥落ち着いてみるとどれが自分にとって一番不快と感じるかと言われれば,今までなら蜩の声と答えただろうと思った。

でも今は違う。風で樹々の葉の揺れる音と蜩の声が耳を擽るように気持ちよく感じている。

まるで自分の好みの感覚自体が変わってしまったかのようだった。

そして樋口ソフィアはポケットに手を入れて不思議のメダイの破片を取り出す。


「そう‥‥‥この破片を手に入れてから何かが変わった気がする‥‥‥」


聞いた話ではこの破片にはアイオーンと呼ばれる存在が宿っていて,2つに割れた事によりそれぞれ長尾智恵の持つヤハウェの宿る破片と自分の持つヤルダバオトの宿る破片となったと。

基本的にヤハウェが善で,ヤルダバオトが悪だとされているが,それはあくまでも人間の解釈であり,神の解釈ではないと聞かされた。

そして,ヤルダバオトには7体の眷属が存在すると‥‥‥

それは人間の世界では悪魔とか堕天使と呼ばれる存在でその中でも高位の者たちとされている。でも彼らは人間の心に発生した悪意を見付け出し,増幅させて喰らいエネルギーを得ると言っていた。ある意味,信仰の力を得て世界を維持している神々とやってる事は変わらないような気がしている。ただ得られたエネルギーをどのように利用しているのかまでは聞いていないし,単純に彼らの生存を賄っているだけなのかもしれない。


「もしかして‥‥‥」


図書館の閉架図書室にその関係の文献や資料があるのではないかと考えた樋口ソフィアは気持ちを切り替えるためにも,今は他の人に関わりたくないという意味からも図書館に籠る決意をした。






長尾智恵は目覚めた翌日からリハビリに取り組んでいた。起き上がる,座る,立つ,歩くの基本練習を反復するのだが,起き上がるのすらなかなか上手く行かない。ベッドに手を突こうにもまず腕が思い通りに動かないのだ。ともかく理学療法士の手を借りて起きる練習を続ける。まるで腹筋運動をしているようでもあった。

そして拳を握る事すら儘ならない。その運動もまるで子供の時に教えられた結んで開いての歌の拍子である。だから手を打ってと言われても思い通りに動かないので最初は綺麗に手を合わせる事が出来ずにスルッと摺り抜けてしまった。

長尾智恵は自分の身体が自分が思うように動かない状況に悲しくなり,流すまいと思えば思うほど目尻からスーッと涙が零れてしまう。

リハビリを担当している理学療法士はまだ初日なのだから仕方がないと慰めてくれるが,長尾智恵は自分が惨めで情けなくて仕方がない。

そんな様子の彼女をを見た理学療法士は今日のリハビリを止める事を提案してくる。しかし長尾智恵はここで挫けては回復するのがドンドンと遅れていくと思い,動かない腕を何とか動かして涙を拭うとリハビリの続行を表明した。


「お強いですね‥‥‥」


理学療法士の言葉に長尾智恵はグッとやる気を漲らせる。


「でも遣り過ぎもダメです。リハビリは1日最大3時間と決められていますからね。」


そんな様子に気が付いた理学療法士は釘を差した。

あれから1週間,長尾智恵は1単位20分の9単位180分のリハビリ訓練を受けていた。

最初はベッドの上で基本的な動作の自立と呼ばれる寝返り,ベッドの上に座る,ベッドサイドで立つ,足踏みに始まり,脚や腕を動かすストレッチ,車椅子に乗って移動したり,歩行訓練として掴まり立ちから歩行器を使ったりしている。

彼女は脳や神経に損傷を受けたりしたわけではないので,筋力さえ戻れば日常生活に支障はないと考えていた。しかしそれは大きな勘違いだったとも言える。

結局長尾智恵のリハビリは一進一退を繰り返しながらも退院できるようになるまで実に3か月を要していた。

季節は夏から秋を通り越して冬を迎えていた。






樋口ソフィアはずっと外部との接触を断ち閉架図書室に隠れていた。食糧や着替えは大学にある購買に行けばいつでも入手できた。行けば欲しい物は必ず陳列されているし,勝手に持ち出しても次に行った時には絶対に補充されていた。だから他の誰にも出会わないように慎重に慎重を期して行動していた。

もちろん馬場学長たちも居なくなった樋口ソフィアの捜索隊が結成して最初の1週間は学内中を隈なく捜索した。でも閉架図書室は許可された者しか入室できない。だから捜索隊に馬場学長が居るか,捜索隊に閉架図書室のIDを渡さなければ捜せない。馬場学長は捜索隊の司令塔として学長室から動かない上に,そこまで気が回らなかったために,樋口ソフィアを発見する事は出来なかった。結局2週間が過ぎたところでには樋口ソフィアの捜索は打ち切られた。

どうせまた別の世界にふらりと行ったのだろう‥‥‥と。

どうせそのうちひょっこり帰って来るのだろう‥‥‥と。

そして長尾智恵だって突然戻って来たのだから‥‥‥と。

馬場学長は慌てる事もなくそう考えていた。

でも樋口ソフィアはそんな事を思われているとは露知らず閉架図書室にある本という本をひたすら読み続けていた。

最初は1日3食きっちり摂りながら睡眠時間もしっかり8時間は取っていた。それが次第に2食になり,1食になり,数日食べない事も当たり前になった。睡眠も6時間,4時間と減っていき,2日徹夜,3日徹夜となっていった。

頬はこけて,目の下にははっきり分かる隈が出来て,不健康極まりない状況になっていた。

それでも樋口ソフィアは本を読み続ける。正直,本人も何故そこまでして読み続けているのか,その目的を忘れていた。

閉架図書室に立て籠もって2か月が経った。漸く彼女はこの部屋の総ての本を読み尽くした。そして分かった事もたくさんあった。当然疲れ切ってはいたが達成感の方が強かった。

思い切り両腕を挙げてフーッと大きく深呼吸すると緊張していた糸がプツンと切れたかのように睡魔が襲ってくる。


『考えてみたら前回寝たのはいつだろう‥‥‥』


記憶にないくらいに昔のような気がする。そもそも彼女の中では閉架図書室に籠ってどれくらいの月日が流れているのかすら覚えていないくらいだった。

‥‥‥ほんの数時間でもいい,今は眠りたかった。スーッと樋口ソフィアは意識を手放していた。


「ふああ‥‥‥」


大きな欠伸をして樋口ソフィアは目が覚めた。あまりの眠たさに椅子に座りテーブルに突っ伏して

眠っていたらしい。少し顔も痛い。

夢も見ないでこんなにぐっすりと寝たのはいつぶりだろう。もう一度大きく欠伸をして両腕を大きく挙げて背伸びをする。閉架図書室には窓がない上時計も設置されていないので時間が分からない。取り敢えずポケットからスマートフォンを出してみる。


「えっ?」


樋口ソフィアは表示された羅列されている数字を見て驚愕の表情を浮かべた。


「12月?!」


そうあれから3か月も経っているという事実をぶつけられたのだった。


「そんな馬鹿な‥‥‥あり得ない‥‥‥」


いつの間にそんなに経っていたのかまるで覚えがない。

確かに夢中になって閉架図書室の本を読み漁っていた。でもそこまで時間を費やしているなどとは当の樋口ソフィアは思いも寄らなかった。


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