#091 神経衰弱
「そんな折だが‥‥‥」
別の世界から飛んできた少女が居たのだという。八意思兼神は彼女には神かそれに近い存在の力が宿っているのを感じて,彼女の保護に加えて彼女の力を借りて,世界の維持をしようと考えた。
変に自分の世界をウロウロされるよりましだと思い,記憶領域である石のドームに監禁状態になってしまうが部屋を与えた。その後2人の少女が世界を渡って来たので,同じように維持する力として使うために部屋を与えた。
それが戸田愛乃,山内円佳,水野紫苑の3人だったのだ。
しかし暫くすると別の世界から何人もの人間が渡ってきた。そのうちの1人が馬場学長で彼女は記憶領域に直接来たので領域の維持のために部屋に監禁した。それ以外の人間たちは虚数空間の方に入ってしまったのだという。
渡ってきた人間がほぼ同じ世界から来ているので先に渡ってきた人間を助けるために来たのだろうと八意思兼神は考えた。
渡ってきた人間の世界の神の命を受けたのであれば,自分が明らかに違反を犯しているためにその罪は免れない。そして長尾智恵が部屋に監禁していた人間を解放した事で領域の維持が困難になり,崩壊したのだと。
長尾智恵は居た堪れない気持ちになった。自分のした事で1つの世界が消滅した。知らなかった事とは言え罪悪感が彼女の心を苛む。八意思兼神は元はと云えば自分がした事に問題があり,気にしなくてもよいと言ったが素直にその言葉を受け入れる事は出来なかった。
それ以上に別に渡ってきたもう1人の少女が虚数空間の人間を1つの国ごと消滅させており,そちらの方が影響が大きかったのだと八意思兼神は言う。
「それってソフィアちゃんじゃ‥‥‥」
樋口ソフィアはその世界の江戸の街を壊滅させたらしい。100万人近い数の人間が巻き添えになり江戸の街は無に帰した。ある意味それでこの世界は崩壊したのだという。
世界中に散らばる人間をバラバラに管理するよりは1つの場所に集めて管理する方が楽だと考えて集約させていたのが仇になったと言えた。
「儂は古事記や日本書紀と呼ばれる書物の中では知恵を司ると言われるがそれはあくまで天岩戸に籠った天照大御神を外に出す知恵を与えただけなのだ。」
だからゼウスのように全知全能という訳ではないという。実際はゼウス自身も不完全な部分があり,それは彼の世界の人間と一緒で,自分たちの作った人間が不完全なのも当たり前なのだと。だから自分を写す鏡として人間が存在し,それを見る事で自分の不完全な所を見付け,少しずつその不完全な所を直していき,完全な者へと昇華しようとしている‥‥‥それが今の神なのだと。
「そういう意味ではソピアーが一番進んでいるのだがな。」
ソピアーは自身の世界で様々な考察,実験,観察,調査を繰り返しているらしい。それで今でも箱庭を発展させ続けており,そこに存在する生態系は多様な進化を遂げている。自分の存在を消して他の世界の神を信仰させるなど他の神でもした事のない方法で信仰のエネルギーを得たりと目まぐるしいほどの成果を得ているのだという。
長尾智恵にとって日本に住んでいると信仰に対してそこまでのように感じていなかったが,初詣をはじめ季節毎でのイベントなどでも充分なのだという。要は神仏に向き合うと言うのが重要であって,それはほぼ誰でもしている事だった。
「しかしな‥‥‥」
不完全な部分を修正せずに己の欲望や本能に従い翻弄されている神も居るという。それは長尾智恵の世界で云うところの魔とか悪魔と呼ばれる存在だが,あくまでも神なのだという。
「魔神のようなものでしょうか‥‥‥」
「うむ。魔神か‥‥‥言い得て妙だな。」
「やはりソピアーの世界の者は面白い発想するものですね。」
長尾智恵の言葉に八意思兼神とエポナはお互いを見て頷く。
他の世界では基本的に神には善悪というものはないらしい。長尾智恵が悪だと感じてもそれがその世界における神の真理であり,その神を疑う者がほとんど居ないのだ。
ただし,どの世界でも必ずイレギュラーが発生して信仰を壊してしまうのだという。だから一神教は物凄い信仰のエネルギーを得られる変わりに失うと取り戻すのが大変らしい。ただ神はイレギュラーが起きないように箱庭を十分に監視をしている。だが,それでもイレギュラーは発生するのだという。
「その時はどうするのですか?」
「その時はさっぱり諦めて箱庭の消滅を受け入れるだけだが‥‥‥」
長尾智恵の問いに八意思兼神の答えはあっさりしたものだった。そして長尾智恵はそれが神というものだと感じた。
「ところで貴女の世界はどうなの?」
長尾智恵はエポナにどうしてそういう発想できるのかと訊かれて,自分たちの世界にある神話を教えた。
「なるほどソピアーは様々な神話を人間たちに吹き込む事で巧みに自分の存在を隠しつつ,それぞれの神話の神への信仰のエネルギーを得ているのね。」
「うむ。そのようだな。それにしても神や天使が堕ちて悪魔や堕天使になるとはかなり思い切った発想だな。」
「私たちでは出来ない発想ですね。それにより神や天使への信仰だけでなく,悪魔への信仰もエネルギーとして獲得するとは私では思いつかないですよ。」
「ところでもう少しゆっくりと話を聴きたいが,ここで立ち話というのもなんだ。エポナ,どこかに適当な場所はないか?」
「この隣の建物にはそういうテーブルと座席がありますよ。そちらに移動しましょう。」
「うむ。頼む。」
3人は厩舎から出て隣にある競馬場のメインスタンドになっている建物に向かった。
長尾智恵は会話を愉しむ八意思兼神とエポナ,2人の神の背中を見ながら付いて行く。
『そうだ。神というのは食物連鎖の頂点で,身分制度におけるトップなんだ。だから総てが神の視点に因るもので人間の視点ではないんだ。彼らにしたらあくまでも人間はただのエネルギー源だから,ソピアー様はその中でも異色の存在なんだ‥‥‥』
だとしたら長尾智恵もこれから2人の神と話す場合,あまり人間の視点は捨てた方がいいのだろうと考えた。
『でも簡単に捨てると言ってもどうすればいいのか‥‥‥』
自分が喋らずに2人の神との会話を自分の都合良く誘導するのはまず無理だろうと思った。
それにあまりソピアーが築いてきた世界の事をベラベラとその世界の人間の立場で喋ってしまうのも拙いかと考えた。しかもそれが本当に当たっているのかも分からないのだ。
『そうか‥‥‥曖昧に答えればいいかな‥‥‥自分は詳しい事を知らないと言って‥‥‥』
実際に長尾智恵はそこまで詳しくはないのも事実だ。それに彼らが会話の中で彼らにとって何が有益で何を正解としたいのか‥‥‥それを探るのが一番ではないかと思い始めていた。
『変な駆け引きをしたところで勝てないだろうし‥‥‥』
無駄な考えは丸めて頭の片隅にポイッと捨ててしまう事にした長尾智恵だった。
「神は‥‥‥我々は本来この世界の住人ではない。」
八意思兼神の思いがけない言葉から御茶会は始まった。エポナは基本的に発言を八意思兼神に任せて,円形テーブルの隣の席に座り静かに聞いて頷いているだけだ。
「其方は三界という思想を知っているか?」
「はい。確か無色界,色界,欲界ですよね。」
「うむ。その通りだ。そのうち欲界の四大洲が人間の住む世界で,その上に欲界に属する六欲天,さらに上には色界があり,その中に4つの禅天に18の天が存在し,その上には4つの処がある無色天があるという思想だ。まあ細かい部分は多少相違があるにしても我らはその思想でいうところの色界や無色界に住む住民だ。」
「要は人間より上位の存在‥‥‥という事ですね。」
「うむ。そして人間がドールハウスやジオラマで遊ぶのと同じ感覚なのだ。ただ人間は自分で人形や模型に命を与える事は出来ない。いや仮想現実では可能か。だが,我々は箱庭に最初に設置した造形物に魂を入れる事が出来る。そしてその造形物は命を得て動き始めるのだ。それは其方たちの世界でも神話や伝説として似たものが残っているだろう。」
長尾智恵は俯いて少し考え込んだ後,ハッと顔を上げる。
「まさか,ノアの方舟‥‥‥」
「うむ。その通りだ。あれは簡単に言えば,洪水から逃れるために一対の人間や動物たちが載せられた‥‥‥というものだが,実際には我らによって一対の生物たちが創造されたというのが事実なのだ。そして交雑を繰り返す事で多様な進化を生んでいったのだ。」
「そんな‥‥‥」
長尾智恵の心には世にも言えない迷いと淀みが生まれる。神によって自分たちの存在は造形物でしかないと言われたのだ。それは八意思兼神やエポナの世界ではそうかもしれないが,ソピアーの世界も一緒かと言われたら分からない。にも拘わらず,そこまで思い至る事の出来る状態ではなくなっていた。
「私たちはそうやって自分たちの世界の箱庭の,信仰する知恵を持った生物を造り出すのよ。でも製造物には必ず不具合品が出来る,精密な物を作ろうとすればするほど,不具合の発生率が上がるのよ。だからなるべく単純に造ろうとするのだけど,それでは低次元の魂しか入れる事が出来ない,だから不具合が出ないレベルで精密な物を造ろうとするの。」
エポナも長尾智恵に分かりやすいようにと説明をしてくれるのだが,その所為で余計に長尾智恵の精神は追い込まれていく。
長尾智恵は気持ちを落ち着けようと紅茶を飲むためにカップに手を伸ばす。しかし,持つ手がブルブルと震えてカップを落としテーブルの上にぶちまけてしまう。
『私という存在がいったい何なのか‥‥‥』
考えれば考えるほど疑心暗鬼に陥る。さっきみたいポイッと思考を捨てられればどれだけ良いか‥‥‥無心になろうとしても‥‥‥今まで考えもしなかった事が‥‥‥頭の中いっぱいになる。
長尾智恵がそんな事を考えていて虚ろになっていても八意思兼神とエポナはまさに神託ともいえる言葉を彼女に与えているのだが,もうその声は彼女の耳には届いていなかった。
馬場学長がカフェテリアに到着すると店内のテーブル席に案内された。
樋口ソフィアが同席している事に少し驚いたが,馬場学長は樋口ソフィアが少しでも他人に興味を持ち,心を開いてくれるのならいい傾向だと黙認した。
「それで‥‥‥これが春日さんの作った飾り菓子ですね。」
テーブルの真ん中に置かれた大きな神像‥‥‥店の入口から遠目で見てもかなりの存在感を示していたが,近くで見ても知らなければこれが飾り菓子だとは思えないほどの出来栄えだ。
上の方からじっくりと眺めていき,下の方へと視線を移していくと台座がなく,テーブルに置かれたトレイとの間が不自然に空いていると感じた。思わず首を真横にして覗き込むが向こう側が透けて見える。
そこに明らかに何かがあるとは思えない宙に浮いているように見える。
「これはいったい‥‥‥」
春日結菜は樋口ソフィアと同じ反応をしている事を面白がっている。そして樋口ソフィアにしたように説明をし,馬場学長に触ってもらう。
「これはまた大変なものを作りましたね‥‥‥」
「まあ,向こうでは絶対に出せない代物だと考えています。だからポモナ様に奉納したらこの製法は秘匿します。」
「それが良いでしょうね。」
馬場学長はこれだけの力量があれば学院のカフェテリアで働かずともやっていけるとは思っている。でも修業時代やコンテストを受ける中で様々な嫌がらせや軋轢を感じて,平穏にお菓子作りに勤しみたいと頼ってきた彼女を馬場学長は突き放す事が出来ない。
「そうそう。向こうでも今後カフェテリアの名前をポーモーナルに変更する手続きも終わりましたし,貴女の希望通りの看板も製作始めましたよ。」
馬場学長はそう言って春日結菜に看板の基になる写メを見せた。
「ありがとうございます。凄いいいです。」
「出来上がりは約1か月だそうですよ。」
「じゃあ来月には‥‥‥」
「ええ。これはポモナ様に納めるとして,砂糖かチョコで小さい神像を作って新規開店記念に飾ってみたらいいのでは?」
「はい。そうします。」
ポモナとウェルトゥムヌスの神像のお披露目は終了して馬場学長は学長室に帰って行く。
春日結菜は樋口ソフィアを誘い,神像を持ってポモナの神域へと向かう事にした。
「これが私たちを模した飾り菓子の像ですか。いいですね。ねえ,ウェルトゥムヌス。」
「うむ。少し恥ずかしいがな。」
豊穣を司る夫婦神にも満足して頂けたようで春日結菜も樋口ソフィアも安心した。
「それにここで穫れた材料で新しいスイーツにも挑戦しているようね。」
「はい。」
「これはお願いなんだけど,貴女たちの住む世界で人間が食べている食事も食べてみたいの。ダメかしら?」
「私も料理は出来ますが,御茶会に出す程度の軽食なら大丈夫ですが,流石にパーティー用などになると私ひとりでは厳しいです。」
「もちろんソピアーの許可を得てからになりますが,貴女の友人で信頼の出来る料理人はいらっしゃいます?」
「それは居ますけど‥‥‥どういった料理を御所望ですか?」
「そうね。ここで穫れたものが中心になるから‥‥‥野菜,果実,穀物‥‥‥それと野生生物もいるから猪,鹿,山羊,馬,水牛,兎,野鳥なんかもいるわね‥‥‥」
「色んな動物も居るのですね。」
「ええ。この辺は私たちや側仕えの天使たちが居るから近付いてこないのよ。」
「だとしたらジビエですかね。狩猟からやらないといけないですし。」
春日結菜は狩猟も出来て料理も出来る友人を頭の中でリストアップしていく。
『出来れば聖ウェヌス女学院の卒業生の方がいいよね‥‥‥』
春日結菜の中で思い当たるのは同級生の彼女しかいなかった。でも彼女がこんな事を引き受けてくれるかどうかは五分五分なのだ。
「ともかくソピアー様の許可を得られてからですよね?」
「ええ,そうです。」
飾り菓子の神像を奉納し終わるとポモナからは神域で収穫された持ち切れないほどの手土産を頂戴した。それを天使たちに協力してもらい転移の門まで運んでもらうと樋口ソフィアと手分けして放り込んでいく。
「ポモナ様たち,貴女たちと出会われてから本当に元気になられたの。本当に良かったわ。」
総ての荷物を運び終えた後2人が転移の門を潜ろうとした時に天使の1人が春日結菜に話し掛けて来た。
「それって‥‥‥」
「ええ。お2人はもう神域を維持する力も失い掛けていたので最期を御覚悟されていたの。でもそんな折に春日様が現れてソピアー様と話し合われ,この神域が残せるとなったから殊の外お喜びだったの。それにこうして度々貴女たちが神饌を運んできて下されば,それだけで信仰の力を得る事が出来るし,近いうちに貴女たちにも何かしらの御加護があるかも。では‥‥‥」
そこで言葉を打ち切った天使は踵を返して神殿の方へ戻って行った。
春日結菜は気になる一言に問い掛けたかったが言葉が出ず,諦めて転移の門を潜ったのだった。
「‥‥‥ただいま戻りました。」
春日結菜と樋口ソフィアは報告のために学長室に来ていた。
トントンと扉を叩き,学長室に入るとそこには馬場学長の姿はなく,詰めていた真田先生が居るだけだった。
「あの,すみません。馬場学長はどちらに?」
「学長は連絡があって総合病院へ行かれましたよ。」
「何かあったのですか?」
「私も詳しい事までは聞いていないので‥‥‥」
「そうですか‥‥‥」
報告に来た旨を伝えて欲しいとお願いをして春日結菜と樋口ソフィアは学長室を後にした。春日結菜はカフェテリアに戻り,樋口ソフィアは図書館に向かった。
馬場学長は緊急で呼び出されて聖ウェヌス女学院総合病院に来ていた。
「愛乃,大丈夫かしら‥‥‥」
看護師からの電話で戸田愛乃のバイタルが不安定になり気を失ったと連絡が入った。本当なら今日彼女も含めて山内円佳と水野紫苑の3名は退院する予定だったが,戸田愛乃は退院できないと言われた山内円佳と水野紫苑が付き添うために残りたいと言っているらしい。
「2人は退院をさせるにしても,もし可能なら付き添いは認めて欲しい。」
馬場学長は病院側に申し入れをしてそれは許可が出た。そして病院側も一旦閉鎖空間に居る医師や看護師を必要数残して余剰人員は現実世界に戻して欲しいとの事だった。
また緊急事態が起きた場合に閉鎖空間の方に来るのは吝かではないとの言質ももらったので,閉鎖空間の事は他言無用と釘を差した上で一時帰還を許した。
「それにしてもあんなに元気だった愛乃が何で急に‥‥‥それに長尾さんも行方が分からないのが気になりますね。」
生徒会室は自分でも調査してみたいが立場上あまり動き回るのは良くない。かと言って誰に任せるのかと言われれば候補は1人しか居ないのだった。




