#009 暗中模索
チュン,チュン,チュン‥‥‥
ベランダの柵に留まりお互いを啄ばむ雀の囀りと窓のレースのカーテン越しにベッドに差し込む朝日の眩しさに樋口ソフィアは目を覚ました。
「うーん!」
体を起こしてベッドの上で手を挙げて思い切り背伸びをする。何か久しぶりに清々しい気分の朝だ。少し窓のカーテンを開けて外を眺めてみる。そして,昨日の事を反芻してみる。
『まさか朝からあんなサプライズがあるなんて思いもしなかったな。』
昨日は朝の通学バスの中で高梨瑠璃に声を掛けられるという今までになかった展開から始まった。自分で見ている明晰夢だとしてもこんな展開は予想もしていなかった。
『バスを降りてから一緒に登校していっぱいお喋りできたし。下校も一緒に帰れた。あ,でもそのせいで他の子とはお喋りできなかったな。今日は順番から行くと加地さんか安田さんだろう。それと他の子ともまたお話ししてみたいし。』
枕元の時計を見ると時刻は6時になるところだった。
「さてと起きて準備しなきゃ。」
ベッドから起き上がり制服に着替えて洗面所に向かう。鏡で自分の顔を見ると目の下に隈のあるような暗い雰囲気ではなく,憑き物が取れたように明るい雰囲気になっていた。正直,自分でも驚いてしまったが,取りあえず顔を洗い,歯を磨いて,軽くファンデーションを塗り,身支度を整える。ウキウキと軽い足取りでキッチンに入り,朝食の準備をする。
厚切りのパン・ド・ミをトースターに入れて,ターンオーバーの目玉焼きを専用のフライパンで焼き,生野菜サラダを盛り付ける。出来上がった朝食をダイニングテーブルに並べて椅子に座る。こんがりきつね色に焼けたバターの照りとイチゴのジャムの塗られた美味しそうなトーストを適当な大きさに千切って頬張り,冷たいミルクで口の奥へと流し込む。朝ご飯を食べながらニヤニヤが止まらない。
「さてと‥‥‥」
食べ終わったお皿やコップをシンクで軽く洗い,食洗器に仕舞ってスイッチを入れる。鞄を持って玄関に向かい靴を履いて扉に手を掛けた刹那,玄関のチャイムがピーンポーンと鳴った。樋口ソフィアはドキッとして体が硬直してしまったが,それはこんな時間に家を訪問してくるような人は今までに居なかったからだ。
ハッと我に返り鍵を開けて扉を開けるとそこには安田晶良が立っていた。
「迎えに来たよ!ソフィア!」
「えっ!?」
思わぬ展開に樋口ソフィアはまたフリーズしてしまった。声を掛けてもまるで動かないその姿を見て安田晶良が近づき,両手で樋口ソフィアの肩を掴んで揺らすと暫くして再起動した。
「えっ!?どうしたの?何で安田さんがここにいるの?」
「何でって迎えに来たからここにいるんだよ。」
樋口ソフィアは矢継ぎ早に質問をぶつけるが,安田晶良は要領を得ない答えに終始する。
「さあ,遅れちゃうよ。早く学校に行くよ!ソフィア!」
安田晶良はそう言うと樋口ソフィアの手首を掴み,グイグイと引き摺るように引っ張って走り出す。
「いやいや,ちょっと待ってよー!!なにこれー!!!」
虚しく樋口ソフィアの悲鳴に近い雄叫びのような声が木霊の如く響いた。
結局,樋口ソフィアは安田晶良に引っ張られるままにバス停まで連れられそうになったが,鍵を掛けていないのに気が付き,安田晶良を何とか説得して家に戻った。
危うくいつもの路線バスに乗り遅れるところだったが何とか間に合った。
そして今日は席に座れなくて吊革に掴まり立っている。さらに違うのは隣に安田晶良が樋口ソフィアと腕を組んで一緒に立っていることだ。
安田晶良の雰囲気はまさにルンルン気分という感じで,樋口ソフィアもなぜそこまで楽しそうなのか理解に苦しむくらいで引き気味だった。
「ねぇ,どうしたの?」
「ん?何が?」
「何がって,そんなに強く腕を組まれてたら身動き取れないよ‥‥‥」
「混んでいるんだから離れないようにしているんだし,別にいいじゃない。」
「ところで何で家まで迎えに来たの?」
「そんなのいつもの事じゃない。何で今さらそんな事を聞くの?」
「えっ!?‥‥‥」
『いつもの事って,どういう事?』
樋口ソフィアはそう言葉を紡ごうとしたが押し殺した。多分それに聞いても返ってくる言葉は予想できる。だとしたら聞くだけ野暮というものだ。
樋口ソフィアは安田晶良に何を言ってももう無駄なんだと思い諦めた。
樋口ソフィアと安田晶良を乗せた路線バスは聖ウェヌス女学院前のバス停に着いた。前方には別系統の路線バスが停車しており,そのバスからは長尾智恵と加地美鳥がちょうど下車するところで,樋口ソフィアと安田晶良には気付かずに楽しそうに会話をしながら正門の方へと歩き始めた。
路線バスから降りた樋口ソフィアはその様子を見ながら安田晶良には前を歩く2人に気付かせないように話題を振りながらゆっくりと歩を進める。安田晶良は樋口ソフィアと腕を組み,顔を覗き込むように話しているせいか前の様子を気にすることはなかった。
「おはよう!」
「おはようございます!」
「はい,おはよう。」
久しぶりに顔を合わす友だちや正門前に立つ先生と挨拶を交わしながらわいわいと賑やかに女子生徒たちが女学院内に入り,遊歩道をそれぞれの校舎へ向かって歩いて行く。
「ねぇねぇ,夏休みどうだったのよ?」
「これ,写メ見て,これが新しい彼氏!夏祭りでナンパされたんだけどぉ‥‥‥大会に出られるほどテニスが上手でぇ,スマートで身長も高いしぃ‥‥‥それから,それから‥‥‥」
「いいなぁ,私は花火大会の時に二股掛けてた彼氏に振られちゃったし‥‥‥」
「ほら,そこの3人は学校の入口で馬鹿な会話していない!」
女子生徒たちが一昔前の初心で夏休み明けには何処でもありそうなお約束の,他愛もない会話を交わしていて,嬉しそうに自慢げに話す子もいれば,どよーんと沈みダンマリを決めて涙ぐむ子もいる‥‥‥そばで生徒指導の先生に会話を聞かれてツッコミを喰らっている。
「ああ,何かこの光景も久しぶりだなあ。」
「ん?ソフィアどうしたの?」
「いや,なんでもないよ‥‥‥」
そういえば,この2日間ほどこの会話を聞いていなかったと樋口ソフィアは思った。
「安田さんちょっと先に行っててくれる?」
「‥‥‥いいけど。遅れないようにね,ソフィア。」
「うん。大丈夫だよ。」
安田晶良は何回か振り返りながら手を振り駆け出して行った。
見送った樋口ソフィアは高等部校舎へ向かわずにウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂に来ていた。そして,いつものように扉のノブに手を掛けて回そうとするが動かない。
『あれ?鍵が掛かっている?今までこんな事なかったのに‥‥‥』
おかしい‥‥‥樋口ソフィアは首を傾げて建物の周囲を見渡すもここで考え込んでいても仕方ないのは分かっているので高等部校舎へ駆け足で向かった。
ウェヌス・ウィクトリクス講堂での始業式が終わって,生徒たちは各自の教室に戻り,ホームルームが始まった。1年A組では担任の山県先生が席替えや新学期のカリキュラムの説明など諸々の伝達を淡々と進めていく。
樋口ソフィアは自分の席で考え事をしていた。
『そういえば‥‥‥今思えば,これって私の明晰夢‥‥‥夢の中だと思っていたけど何か不自然な感じがする。言ってしまえば夢であればある意味やりたい放題なのだからこんなチマチマしたやり方で始業式という日の日常を繰り返す必要なないはず‥‥‥それは私が望んでいる事ではない。』
そう考え始めた時,ふとある2つの会話が頭を過った。
ひとつは隣のおばさんが私が真夜中に出掛けて帰って来るのを2回見掛けていること。
もうひとつは今朝もそうだが遊歩道のところで聞いた女子生徒と先生の会話だ。
あり得るのかどうかは分からないけど見ている夢の中で夢遊病みたいな事をしてしまうのか?そうでないとしたらこれは夢の中ではないのではないか?
そして,遊歩道での女子生徒の会話は一言一句変わらずに毎回同じ。これはゲームの中のNPCと呼ばれるノンプレイヤーキャラクターの会話ではないのかと。もしそう仮定すれば今の状況は俗に言われるリセマラ,リセットマラソンでプレイヤーが一番望む状況が出るまでリセットを掛けて繰り返しているのではないだろうか?と。
「ふっ。それはあり得ない。」
しかめ面で考えていた樋口ソフィアは思わず失笑してしまう。
「それでは私が生きている人間ではなく,ゲームの中のデータようなものになってしまっているという事になる。そんな馬鹿な考えに至ってしまうなんて‥‥‥でもだとしたらどういう事なんだろう?ともかく普通ではないのは確か。」
キーンコーンカーンコーン‥‥‥
教室の中にチャイムが鳴り響く。その音に樋口ソフィアは我を取り戻した。
「‥‥‥では,これでホームルームを終わります。委員長お願いします。」
「起立!礼!」
長尾智恵の合図でクラスメイトたちは一斉に立ち上がり,一礼する。樋口ソフィアはボーッとしていたためにワンテンポ出遅れてしまった。
礼を直り,ホームルームが終わって生徒たちは帰りの準備を始める。
「まっ,今は楽しいし,生活にも不都合が出ているわけじゃないからいいか‥‥‥」
そして樋口ソフィアは安田晶良と一緒に帰ろうと思い,声を掛けようと座席の方を見てみるとすでにそこには姿がなかった。それではと考えて本庄真珠,水原光莉,千坂紅音との姿を次々と目で追うが誰も居なかった。
『もうみんな部活動に行っちゃったのかな?そしたらひとまず礼拝堂にお祈りに行ってこようかな。さっきは鍵が掛かっていたけど,もしかしたら開いているかもしれないし。』
樋口ソフィアは鞄を手に取り教室を出た。
長尾智恵は生徒会の会合もないし,久しぶりに幼馴染たちと一緒に帰宅しようと考えていたので時間潰しに図書館に来ていた。
『そういえば夏休み前に山県先生から馬場学長に提出するようにレポートを頼まれたし,調べてみようかな?でも提出期限がなくて,しかも「カテキズムと聖ウェヌス女学院の存在意義」なんて高校生ではなくて大学生に出す課題のような感じもするんだけど‥‥‥』
この課題を聞いた時,長尾智恵は訝しげな表情を浮かべた。クラス全員に出された課題ではなく,長尾智恵個人に与えられた課題のようで特に成績に影響するわけでもなく,正直言うと何のためにやるのかが分からなかった。それで手を付けることなく今の今まで放置して忘れていたのだが,急に頭を過り思い出したかのようにやってみようと意欲が出たのだ。
『聖ウェヌス女学院の存在意義というのは校訓や理念,学是と呼ばれる建学の精神を指しているんだろう。カテキズムはキリスト教に於ける教理を指すからキリスト教の教えと学校の関係についてレポートを書けばいいのかな?』
どちらにしても高校生には難しい問題なのは間違いないと長尾智恵は思った。
一先ず,関係のありそうな公開書架を見て回り様々な本を手に取っては積み重ねていく。
聖ウェヌス女学院の歴史に関する本を見ていたらそこには興味深い内容があった。
『明治時代の中期に創立された聖ウェヌス女学院であるが,その歴史は江戸時代初期,天草島原の乱において幕府軍に敗れ逃れたキリシタン達が下野し隠れて作った寺子屋に始まる。そして,キリスト教を中心としつつも隠れ蓑とするために仏教,神道など多種多様な宗教研究も行い,明らかに異端ながら総合的に宗教を学ぶ世界的にも珍しい私塾になり,それが聖ウェヌス女学院の礎となった。』と。
「こんな虐げられてきた歴史があったなんて‥‥‥」
今までは聖ウェヌス女学院創立以来の歴史は学校行事などでも聞かされてきたが,創立前に200年にも及ぶ歴史が存在したのを長尾智恵は初めて知った。
世界史の授業なんかでは宗教改革の話や宗教を理由とした国家などによる迫害の歴史は知っていたのだが。
樋口ソフィアはまたウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂まで来ていた。礼拝堂の入口の前に立ち扉のノブに手を掛ける。
「ガチャ,ガチャ」
「あれ?開かない。やっぱり鍵が掛かっている?」
そうすると遊歩道の方からシスターを務める先生が歩いてきて声を掛けてきた。
「そこの礼拝堂は開きませんよ。礼拝をしたいなら向こうの礼拝堂へ行きなさい。」
「ここはいつも鍵が掛かっているんですか?」
「そうですよ。ここは曰く付きなので常時施錠しています。」
「そうなんですか‥‥‥?」
「確かあなたはこの春からの転入生ですよね。だから知らなくても仕方はありません。ともかく礼拝したいなら,ほら‥‥‥向こうに見えるあの礼拝堂に行きなさい。」
「分かりました。」
シスターは遊歩道を大学校舎の方に歩いて行った。
そして樋口ソフィアは諦めて礼拝堂を後にする。
『‥‥‥にしても転入してきてから,ついこの前まで欠かさずここでお祈りしていたのに‥‥‥さっきのシスターはここはずっと施錠されていると言ってた。だとしたら今まで私はいったいここで何をしていたのだろう‥‥‥』
樋口ソフィアは振り向き様に納得のできない表情で礼拝堂を見上げる。
この礼拝堂の曰くと云われる詳しい内容にまるで狐に化かされていたような感覚に襲われる。そして,これが自分の見ている明晰夢ではないのではという確信を持ち始めた。
『これって私の夢ではなく,もしかしたら誰かの見ている夢なの?だったらいったい誰の夢?』
樋口ソフィアは自分の置かれている状況が掴めなくなって真っ赤な夕日を背負って呆然と礼拝堂の前で立ち尽くしていた。
結局,長尾智恵は図書館で聖ウェヌス女学院の歴史について調べるのに没頭するあまり,幼馴染たちと一緒に下校しようと思っていたのを忘れて本を読み耽ってしまった。
帰宅後も自分の部屋で椅子に座り,窓の外の暗闇を眺めながら考え込んでいた。
中学から歴史の授業で戦国時代のキリスト教の伝来に始まり,国内での布教,江戸時代になってからの迫害,そして天草島原の乱と後のキリシタン潜伏などを習ってきたけど,その裏側では歴史の授業では教えてもらえなかった逸話がたくさんあるのを知った。
しかもそれはキリスト教だけに限らず,仏教や土着の宗教でも同じような布教や迫害の歴史が繰り返されてきた。
『私たちの現在はそういった犠牲の上に成り立っているのだと‥‥‥でもどうやってレポートに纏めようか?これでは本の内容を要約しているだけにしかならないし。私の意見を反映できないといけないはずだよね?』
長尾智恵はこれから待ち受ける運命にまだ気づいていなかった。




