#085 学園生活
「あら?皆さんで揃って閉鎖空間に逃げ込んだようね。」
「そのようですね。でもあの空間ならまだ手の出しようがありそうですわ。」
「どうなさいます?姉様たち。」
モイライ3姉妹は樋口ソフィアがヤハウェとヤルダバオトの創造した閉鎖空間に入ったのを水鏡を囲んで覗いていた。
「あの空間はソピアーではなく彼女の眷属たちが造ったものですから私たち3人がいればいとも容易に入り込めるでしょうね。でも油断はダメですよ。」
「そうですね,姉様。アーテーだってあっさり捕獲されてしまったようですし。」
「まあ,あの子は本能の赴くままに動くだけで何も考えていない節がありますから今まで捕まらなかった方が不思議ですけどね。ふふふ‥‥‥」
不敵な笑みを浮かべて水鏡を眺める3姉妹の女神。どうにかしてあの閉鎖空間を我が物にしようと画策しているが,まだ実行力のある策が思い浮かばず,笑みの裏側で苦虫を潰すような苛立ちを感じていた。
「クロートー姉様,私いい事を思いつきましたわ。」
次女ラケシスが満面の笑みを浮かべて2人に考え付いた策を披露した。
「ラケシス姉様。それはなかなか面白そうですわね。試してみる価値はありそうですわ。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
末妹アトロポスが同調して,長姉クロートーは黙っていた。
「それではさっそく‥‥‥」
長姉スロートーは嫌な予感がするもののそれだけでは反対理由としては弱いと感じていたが,返事を待たずに次女ラケシスは空間転移して姿を消した。
「まあ,何かあれば助ければいいだけですし‥‥‥」
「何でもやってみなければ分かりませんわよ。クロートー姉様。」
長姉クロートーの呟きに末妹アトロポスが反応する。それでも拭いきれない一抹の不安感に長姉クロートーは何やら息苦しさを覚えていた。
「確かヤルダバオトには眷属が居たわよね‥‥‥」
次女ラケシスはとある空間を訪れていた。誰ひとり存在しない白雲の上に青空の広がる明るい空間。雲間からは見えるのは白波も立たない静かな蒼海。
「確か‥‥‥ルシファー,サタン,レヴィアタン,ベルフェゴール,マモン,ベルゼブブ,アスモデウスだったわよね‥‥‥あの眷属を従えてしまえば‥‥‥」
ヤルダバオトの勢力を削ぐ事が出来ればヤハウェとともに創造した閉鎖空間の維持も儘ならなくなるはずだと考えていた。
さらに彼女は眷属がその精神エネルギーを人間の感情から得ていると聞いていた。であれば,その精神エネルギーの基になっている人間がその閉鎖空間に居ると考えるのが一番妥当だろうと。
ただ一気にソピアーを切り崩す事も可能だと思う反面,罠の可能性もある。
姉や妹を伴って3人で動けば‥‥‥陽動も出来るし作戦の成功率が上がるかもしれないが,罠だったら3人とも危うくなる。
自分がひとりで動けば‥‥‥総ての作戦を独りで遣る以上何かあればそこで終わりだが,姉や妹に疑惑は向けられても被害自体は自分だけ。
「本当に遣り難い相手だわ‥‥‥やはり慎重に慎重を期した方がいいわね。」
次女ラケシスが居るこの世界は元々彼女が1人で管理していた場所なのだが,3姉妹で共同管理する事にした長姉クロートーの世界の方が色々と愉しめたためにすっかり放置されていた。
この世界にも箱庭には生物も神域には彼女の側仕えたる天使も存在していた。しかし彼女はその管理を放棄した事で衰退し滅んだのだった。
ソピアーとポモナがしたように統合も可能だったが,そこは彼女たちモイライの司っている運命,というよりも死に対する興味から自分の世界に居る者たちの死を覗く行為だけに固執した。
次々と死んでいく生物や天使たちを恍惚に満たされた眼で,水鏡に映る映像を3姉妹はまるで映画館の大画面で映画を鑑賞するかの如く眺めていたのだ。
しかしそれを他の神々は咎める事はしない。干渉に当たるためだ。自分の造ったものをどうしようが,それは造った神の決める事で生かすも殺すも勝手なのだ。
ただ明らかに自分の造った物に他の神が勝手に干渉するのはご法度だ。その罪が明らかになれば罰が与えられる。それはアーテーがこれからどのようになるのかを考えれば早い。
「さてと‥‥‥」
ヤルダバオトの眷属をそして彼らのエネルギー源となっている者たちをどうやってここに誘引するか‥‥‥
どうも自分が居ない間にここに出入りしていたのは分かっているし,それを罪に裁ければいいが‥‥‥と考えたものの人間が勝手に世界を渡る事に関しては罪に問えないのが事実だ。
あくまでもここに出入りした人間は感情をエネルギー源にされているだけなのだ。眷属の本体ではない。
でも人間たちが出入りしている以上,また渡ってくる可能性がないわけではない。
そこで捕えられればアーテーのように誘導したのとは違う。
「そこまで待てるほどの余裕はないか‥‥‥」
しかし誘導しなければいつ渡ってくるか分からない人間を待つというのは現実的ではないだろうとも考える。神にとっては瞬きする程度の時間でも人間にとっては一生涯が終わってしまう。
「何か方法が‥‥‥」
次女ラケシスは思い違いをしていた。時間が加速された閉鎖空間に居るという事は彼女たちの元の世界の時間がほぼ動いていないという事を。そこはどうしても時間の感覚の違う神と人間の差を理解しているつもりでも判断が出来ないという事なのだろう。
「ヤルダバオトの眷属を調略して,その眷属のエネルギー源となっている人間をこの世界に呼び出せれば苦労はないのだけど‥‥‥天使を使えば簡単だったかしら‥‥‥」
次女ラケシスは少し後悔していた。彼女の創造した世界‥‥‥神域も箱庭も滅びて仕えるべき天使はもういないのだ。
「人間の運命の糸を‥‥‥運命の図柄を描くのはとても簡単なのに自分の運命は本当に儘ならないものですね。」
頬に手を当てホ~ッと溜息を吐いた。
本庄真珠や水原光莉,高梨瑠璃,齋藤由里に安田晶良の運動部所属の5人組は午前中にはトレーニングルームで共同の体力作りを,午後には個々で各部の練習を熟すという学院の休講直後のメニューを行っていた。
加地美鳥と千坂紅音の文化部所属の2人組は午前中には取れ任ぐルームでストレッチをした後,午後には校舎の部室に場所を移してそれぞれの練習というメニューをする事になっている。
「気持ちいいし‥‥‥楽しい‥‥‥」
グラウンドでは本庄真珠がトラックで走り込みをしていた。脚を一歩一歩踏み出す度に夏休み直後のような異常なまでのタイムを出せるような感じはしない。でも夏休み前のような記録を残せないという精神的に追い込まれた状態と違い,駆けていて楽しいという陸上を始めた頃の気分を取り戻せた‥‥‥そう感じていた。
「気持ちいいし‥‥‥楽しい‥‥‥」
屋内競泳プールでは水原光莉が短水路のコースでひたすら泳いでいた。腕を一掻き一掻きする度にストロークが夏休み前の状態に戻っているという感覚を感じた。タイムも以前に戻っているのだが,泳いだ後の体力消耗具合が少なく,疲れを感じなくなっている気がする。それに泳ぐ事自体の楽しさを思い出せて,幾らでも泳いでいたい‥‥‥そんな気持ちだった。
「気持ちいいし‥‥‥楽しい‥‥‥」
体育館にある12メートル四方の競技スペースの角に高梨瑠璃が立つと手を挙げて演技を始める。アクロバット,ジャンプとターンの組み合わせて演技していく。決め技の宙返りはE難度を極めたに留まったが,彼女にとっては満足のいく演技で,それを見ていた体操部員たちはスタンディングオベーションをしていて,その雰囲気に涙していた。
「気持ちいいし‥‥‥楽しい‥‥‥」
体育館にある道場でストレッチの後,型の演武を行い久しぶりに顧問の板垣先生と自由組手をしたのだった。板垣先生は黒帯の有段者だが年齢がまだ若いために錬士などの称号は得ていない。それでも齋藤由里は聖ウェヌス女学院に入学して空手に触れて以来の師匠として崇めてきた。そんな板垣先生と組手が出来るだけでも気持ちの高揚を抑えられなかった。
「うん‥‥‥絶好調‥‥‥」
安田晶良は弓道場に来ていた。日にちはほとんど経っていないもののもう1週間以上も弓を握っていなかった感覚があり,彼女は矢を番えずに射法八節の確認をする事にした。足踏みと呼ばれる基本動作から入り,胴造り,弓構え,打起し,引分け,会,離れ,残心まで淀みなく熟していく。そして矢を使い近的で4本射ると皆中させていた。
「何をしようかしら‥‥‥」
加地美鳥は演劇部の部室に来たもののこちらの世界では1人きりだし図書館で借りて来た本を読む事にした。大学生が講義で使うような心理学の教科書とも言うべき書籍だったが,この1週間ほどの間で様々な経験を積んできた彼女はその体験を基にさらに探究を進めるために改めて読み返してみようと思い至ったのだった。
「気持ちいいし‥‥‥楽しい‥‥‥」
千坂紅音は音楽部顧問の真田先生と一緒に音楽室に来ていた。今日は秋のコンテストの前に一度課題曲の選定と練習をしておこうと思っていたからだ。しかもこの1週間は交通事故に遭った上にドタバタ続きで真面な練習も出来ていなかった。それまでは試験期間中であっても気分転換の意味も含めて鍵盤に触れなかった日はなかったのだ。腕が鈍っていなければいいと思ったが,さほど影響は少なかった。前回真田先生に聴いてもらった最高難易度の「ベートーベン作曲ピアノソナタ第23番『熱情』作品57」は弾けなかったが,それでも満足のいく演奏は出来たと自負できた。
「でもさっきのは‥‥‥」
弾いている最中に恍惚感が身体を巡り,それによって帯びた熱が血管を通り全身に伝わっていく感じに頬が紅潮し耳朶までもが朱に染まる。鍵盤を叩きながら気持ちが盛り上がり顔を勢いで上げるとボブヘアの髪先からは汗が飛び散る。まるで自分が自分でなくなる快感が精神をも支配していくような感覚になる。もしかしたらこれが男女が身体を合わせた事による絶頂と同じなのではないかと錯覚するほどだった。
「ええ‥‥‥はい‥‥‥そうですか。分かりました。宜しくお願いします。」
学長室に居た馬場学長宛に1本の電話が入った。それは閉鎖空間の聖ウェヌス女学院総合病院に転院した患者の容態の報告だった。
戸田愛乃,山内円佳,水野紫苑の3名は肉体的,精神的な回復が目覚ましく早ければ明日にも退院が可能になるという。
松田院長も普通では考えられないような回復を見せているがもう1日入院して様子見が必要だろうという事だった。
そして山県先生と一条日向に関しては回復の基調が見られるもののもう少し退院まで時間が掛かるだろうというものだった。
「それならば戸田さんたちの自室を用意しないといけませんね。」
馬場学長は手隙だった飯富先生を呼び出すと戸田愛乃,山内円佳,水野紫苑にそれぞれ1人部屋を100周年記念館に用意するように指示を出した。
合わせて長尾智恵にはこの世界に居る間の戸田愛乃たち3人含めた学生たちの取り纏め役として班長に任命し,クラス委員長でもある長尾智恵はその任に着くのを快諾した。
「それにしても‥‥‥」
長尾智恵は馬場学長からの電話を切ると思考を巡らせる。
このヤハウェとヤルダバオトが創造した世界で人間に本来備わっていた治癒力や回復力が発揮されたというのならそれはそれでいいと思っている。でも40年もの間,何も食べず何も飲まずで過ごしてきた人間が年齢を重ねる事なく生命を維持する事など可能ではないはず‥‥‥彼女たちの身体にいったい何が起きているのか?
「まさか‥‥‥」
彼女の中に一つの答えが浮かび上がってきた。しかしそれは現在の人間の世界ではあり得ない結論でしかない。
「それとも‥‥‥」
もう一つ浮かんできたのはもっとあり得ない答えだった。それでもここは神に近い存在が創造した世界なのだ。人間の想像してきた幻想や妄想が実は現実にあったとしてもおかしくはないのかもしれない‥‥‥そういうものをこの1週間ほどで色々と見て来たはずではないのか‥‥‥
俗に云う異世界譚の世界では収納魔法とかストレージと呼ばれるものがあるが,あれはあくまで無機物や死んだものしか収納できないとされている。それは時間停止しているために生きていると収納できないという定義があるからだ。それはある意味納得できる。
「だとしたら‥‥‥」
戸田愛乃が願った内容が大きく影響しているのだろうか。確か彼女の願いは不老不死だった。それは40年経っても同じ姿のまま発見されたので叶ったともいえるのだが‥‥‥これが異世界譚でいうところのエルフやドワーフと呼ばれる長命種になっていたとすれば,10代後半から20代前半の若い期間が長くなる‥‥‥しかし彼女たちの精密検査の結果ではそんな話は出ていない。
「まさか‥‥‥検査結果の内容を隠している‥‥‥とか?」
これは絶対に馬場学長に確認する必要があるだろう。
そんな遺伝子レベルで身体の構造を変えてしまう事が可能なのか‥‥‥いや神なら出来てしまうのだろう。それであれば彼女たちの遺伝子を抽出して検査でもしなければ分からない‥‥‥
どちらにしても戸田愛乃たちはもう普通の人間ではない可能性が高いだろう。ただこれはあくまで自分の推論だから今の時点で表立ってどうこうする訳にはいかない。
「いや‥‥‥待ってよ‥‥‥」
30年くらい前のSFロボットアニメの中で主人公がブラックホールの超重力に囚われそうになり何とか脱出したものの帰還したら約12000年後の未来だったというのがあったのを覚えている。とある特殊な環境下に置かれた場合に周囲の時間の進行が急激に進んでしまい,自分の時間が停止に近い状態になるという事なのだろう。
実際に今このヤハウェとヤルダバオトによって創造された空間は周囲の時間が停止に近い状態で自分の時間が進んでいるという逆の状態ではあるが‥‥‥それは相対する対象があるからこそ実感できるものだと思っている。
「あとは‥‥‥」
どちらにしても何か問題が起きた時に動けばいいだろう。それに直面している最大の問題のは試練を終わらせる事なのだから。
「‥‥‥にしても‥‥‥」
彼女にはもう1つ引っ掛かっている事がある。それはヤハウェとヤルダバオトによって創造されたNPCの存在だった。戸田愛乃たちももしかしたらと思った事もあったが‥‥‥彼女たちは別世界に居た訳でそれはないだろうという考えが大勢を占めていたが,まだその考えを拭いきれていないのも事実だった。
「どれかが事実だとしても人智の及ぶものではなさそうね。」
長尾智恵の中では神様の遣る事を粛々と受け入れて,起こる現象を総て記録として残す。それを試練の終わった後にすべき自分のライフワークになると感じている。そのためには戸田愛乃たち旧伝承研究会の部員の力が必要だとも思っている。いっそ伝承研究会を復活させて,彼女たちと人間関係を巧く築かなければと決心していた。
ソピアーは閉鎖空間で繰り広げられる人間たちの日常を覗いていた。実際には彼女たちにとってまだ非日常ではあるのだが,普通の学園生活の雰囲気に戻りつつある状況に少し安堵の表情を浮かべた。
でもヤハウェとヤルダバオトによって始められた試練はまだ終わってはいない。だから長尾智恵と樋口ソフィアにはこれから様々な出来事が起きるだろう。モイライ3姉妹をはじめ他の神に因るちょっかいも入ってくるだろう。
神々にとっては瞬きする程のあっという間短い時間でも人間にとっては人生の中で大きく占める時間であり無駄に出来ないものだとソピアーは理解を示している。でも1人の人生を尊重するあまり世界の崩壊を認めるつもりはない。
ただ長尾智恵と樋口ソフィアは自分の分霊を持つ者であり子供のような存在である。だからあの2人は世界が崩壊しようと守ろうという気持ちが湧いてきている。正直こんな母親の心情にも似た感覚を持つのは初めてだった。分身体であるはずのアカモートを産み出した時も今でさえもそんな気持ちを持った事すらないというのに‥‥‥
「不思議なものね‥‥‥」
ハーッと大きな溜息を吐くソピアー。
「そういえば,ソフィアはどうしているのかしら‥‥‥」
さっき見ていた映像の中に樋口ソフィアのものはなかった。
不安を覚えたソピアーは水鏡に映る映像の中から樋口ソフィアの姿を目で追ったが,どこにも彼女の姿が見当たらない。昨日確かに閉鎖空間に入ったのは確認している。
ソピアーが調べても学長室からもウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の門からも他の世界に渡った形跡も見付からなかった。神の監視の目を盗み,世界巡廻するのは流石に無理がある。
しかも樋口ソフィアはソピアーの分霊を持っているので,同じ世界にいれば必ず存在を感じる事が出来る。
「いったい,どこに行ったというの,ソフィア‥‥‥」
またモイライ3姉妹の手に落ちたのかと考えると恐怖心が芽生えてくる。
「まさか‥‥‥既に‥‥‥」




