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聖ウェヌス女学院  作者: Paddyside
第1章 不思議のメダイ -Mysterious Medal-
8/215

#008 周章狼狽

チュン,チュン,チュン‥‥‥


ベランダの柵に留まりお互いを啄ばむ雀の囀りと窓のレースのカーテン越しにベッドに差し込む朝日の眩しさに樋口ソフィアは目を覚ました。

枕元の時計を確認すると表示は5時30分で,ここまではこの6日間と変わらない。起き上がり鏡台の前に座ると鏡に映る自分の顔を見ながら思わずニヤニヤしてしまう。

昨日の事を思い出すと樋口ソフィアにとって今まで生きてきた中で至福の時間であった。


「はぁ~。昨日は楽しかったなぁ。しかも帰りのバスまで一緒に乗れたし。今日はどうしようかな?」






昨日,樋口ソフィアは本庄真珠と水原光莉の部活動が終わるのを教室の窓から眺めていて,ひっそりと背後に近づく気配にはまるで気が付かなかった。


「ねぇ,私たちと一緒に帰らない?」

「わっ!びっくりしたぁ!」


樋口ソフィアの横にそっと立ち,耳元に囁くように声を掛けてきたのは本庄真珠だった。

樋口ソフィアは驚きのあまり,「ドンッ!」と飛び上がるように立ち上がり,思わず座っていた椅子を後ろに盛大に倒してしまった。


「もう何やっているのよ‥‥‥」


微笑み掛ける本庄真珠と水原光莉の2人。椅子を起こし直した樋口ソフィアの手首を掴み,水原光莉が教室の外へと引っ張って行く。本庄真珠は樋口ソフィアの鞄を手に取ると2人の後ろを追い掛ける。強引とも云える力だったが,その感触さえ樋口ソフィアには心地良さがあった。


樋口ソフィアにとって聖ウェヌス女学院前のバス停までの会話も今までに味わったことのない楽しさだった。長尾智恵たちはいつもこんな楽しい登下校をしていたのかと思うと羨ましさ,妬み,口惜しさが沸き起こった。本来,本庄真珠や水原光莉はこのバス停から出る2系統ある路線バスのうち樋口ソフィアとは違うはずなのだが,今日は2人が一緒に付いてくると言ってくれた。


樋口ソフィアたちが乗る路線バスがバス停に入って来る寸前,ちょうど交差点の向こう側に信号待ちで立つ長尾智恵たちの姿が見えた。自分たちの様子を見て,焦っている姿に無意識にふと嘲笑を浮かべている事にハッと気が付いた。自分がこんなにも嫉妬深く,了見が狭かったのかと。でもこの優越感に浸っている自分を誇らしげに思う自分もいた。


路線バスは信号が変わる前に発車し,長尾智恵たちが間に合うことはなかった。どちらにしても彼女たちが乗車する系統ではないから乗ってくることもなかっただろうが‥‥‥本庄真珠と水原光莉は長尾智恵たちに気が付くことなく自分との会話を弾ませる事を楽しんでいた。






昨日の事を反芻していた樋口ソフィアはうっとりとしていたが,ピピピピッとなった目覚まし時計に我に返った。時間を確認するともう家を出る時間になっている。朝食を摂る時間も既になく,慌てて制服に着替え家を飛び出す。


「あら,おはよう。ソフィアちゃん。」

「おはようございます。おばさん。」


このおばさんはこの前,樋口ソフィアが夜中に出掛けて帰って来たのを見たという方だ。とは言ってもおばさんの中では日にちは進んでおらず,その事は覚えていないはず‥‥‥だった。


「今日は出掛けるのが遅いのね。昨日は真夜中に帰って来たから起きれなかった?」

「えっ?!どういうことですか?」

「どういうことって‥‥‥昨日はうちの主人の帰りが遅くなって,タクシーで家まで乗り付けて来たのを迎えに出たら,ちょうどあなたが家に入るのを見たんだけど‥声を掛けてもボーッとしている感じで返事もなかったから疲れていたのかと思ってね。」

「それって,何時頃ですか?」

「そうね,午前2時は過ぎてたと思うけど‥‥‥」

「えっ?」


『またか‥‥‥』


樋口ソフィアは思った。彼女の中では3日前にも同じ言葉をこのおばさんから言われた。一昨日からは考え方を前向きに出来ていて気持ちが浮かれていたからその事を忘れていた。そして,樋口ソフィアはそんな真夜中に出掛けた記憶は毛頭ない。ではその正体はいったい何なのか?


『ともかく今は学校に急がないと‥‥‥遅刻しちゃう‥‥‥』


樋口ソフィアは軽く会釈して,おばさんに挨拶すると踵を返してバス停へと急ぐ。




路線バスの中でいつもの座席に座り樋口ソフィアは考え込んでいた。

3日前に続き今日もおばさんから真夜中に家を抜け出して何処かに行っていた事を指摘された。その時間なら既に布団に入っており熟睡もしていたはず。


「私,夢遊病なのかな?」


思わず口から漏らした独り言。吊革に掴まり横に立っていた乗客に聞かれたかと思い,ハッと口に手を当てて誤魔化す。ということはもしかしたら3日前と昨日に限らず,この状況になってからは毎日真夜中に何処かを徘徊しているのかもしれない。そして彷徨いながらいったい何をしているのか?そう考えた時,その不明瞭な状態の自分に恐怖を覚えた。


「おはよう!ソフィア。」

「えっ?」


考え事していて自分の殻の中に閉じこもっていた樋口ソフィアは路線バスの中で突然不意を突かれた事でかなり動揺をして,大きな声を上げてしまい,周囲の乗客から視線を集めてしまった。さっきの独り言と云い,危ない娘になっている感じがして顔が火照っているのが自分でも分かる。


「高梨さんって‥‥‥このバスだっけ?」

「そうだよ。普段は体操の練習があるからこの時間に乗らないけど。だからソフィアにこんなとこで会うなんて思ってもみなかった。」


樋口ソフィアはおかしい事に気付いた。以前,高梨瑠璃は登下校で長尾智恵たちと一緒の路線バスに乗り込んでいるのを見た‥‥‥その時乗っていたのはこの路線バスとは別系統だった事を。それに一人で乗車するのを学校の前の停留所でも見たが,やはりこの系統ではなかった。


『いったいどういう事だろう?』


でも怖くて聴けない。しかも今日は学校の中ではなく予想外の路線バスの中での展開で,そこまで周囲が意識してはいないと思うが衆目環視に晒され慣れていない樋口ソフィアにとっては何と言っていいのかが分からなかった。


「ん?どうしたの,ソフィア。」

「いや,何でもないよ。大丈夫だよ,高梨さん。」

「高梨さんは辞めて。瑠璃でいいよ。」

「うん。じゃあ,瑠璃。」


樋口ソフィアは疑問を抱いていた。以前から今展開している状況は自分の明晰夢だと思っていたし,自分の望んでいたモノは手に入っているのだが,どうも自分の思い通りにならない道筋が存在しているように感じ始めている。


『隣のおばさんの発言,今日は高梨瑠璃がバスの中で接触してくるという状況などを考えるともしかしたら明晰夢ではないのか?そうだとしたら何なのか?誰か他人の明晰夢の中で踊らされている?それとももっと大きな力の中で弄ばれている?』


でもあまりに材料が少なくて判断するのは難しい。浮かれているよりも何か調べたり,別のアクションを取った方がいいのか?それとも誰かに相談した方が本当はいいのか?


いつの間にか俯いて考え込んでいた樋口ソフィアの肩を高梨瑠璃がポンっと叩き,樋口ソフィアはハッとして高梨瑠璃の方に顔を上げた。


「ソフィアどうしたの?本当に大丈夫?もう次降りるよ。」

「あ,ごめん。私どうかしてた。うん,本当に大丈夫。」






樋口ソフィアと高梨瑠璃の乗車していた路線バスが聖ウェヌス女学院の停留所に到着し,他の女子生徒たちに続いて2人も降車してきた。樋口ソフィアが停留所の後方を見るともう1台別系統の路線バスが入ってきて降車扉を開けたところだった。ちょうど長尾智恵が降りてくるのが見えた。高梨瑠璃は気付かなかったのか,樋口ソフィアの手を引き正門に向かって歩いて行く。


「瑠璃,おはよう!ちょっと‥‥‥」


前を歩く高梨瑠璃と樋口ソフィアに長尾智恵が気が付いて声を掛けようとするが,2人の歩く速度にいくら急いでも追いつけず,他の女子生徒の間をスルスルと擦り抜け,その差は広がるばかりだった。


『瑠璃,どうしたんだろう‥‥‥?』


長尾智恵はその光景を見ながら,いつもと違う雰囲気に何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くしてしまった。


「おはよう,智恵。どうしたの?」

「あ,いや大丈夫だよ。心配させてごめんね。」


長尾智恵の背後から声を掛けてきたのは加地美鳥だった。長尾智恵はフーッと一息吐くと気持ちを落ち着け口を開く。


「今ね,バスを降りたら前のバスに瑠璃が乗っていたの。それにソフィアちゃんも一緒だったの。」

「あれ?確か2人の乗るバスって違うはずだよね?何で一緒だったの?」

「それは私にも分からない‥‥‥でも瑠璃が違うバスに乗っていたのは確か。」

「とにかく教室に行って瑠璃に事情を聞くのが早いんじゃない?」

「そうだね。私,少し気が動転してたかも‥‥‥」


長尾智恵は気を取り直し,加地美鳥と深緑の眩しい菩提樹の遊歩道を校舎へと歩き始めた。






教室に入った長尾智恵は高梨瑠璃の姿を目で追った。教室中を見回したが,高梨瑠璃は居なかった。先に教室に居た本庄真珠たち幼馴染たちにも聞いてみたが,高梨瑠璃を見た者は居なかった。


「そういえば,ソフィアちゃんも居ないよね。」


加地美鳥の言葉に長尾智恵はもう一度教室を見回し,確かに樋口ソフィアも居ないのに気が付いた。


『先に校舎に向かったはずなのに‥‥‥どこに行ったんだろう?』


長尾智恵がそんな事を考えていると担任の山県先生が教室に入って来た。そして,長尾智恵に教室移動の指示を出し,生徒たちは促されてウェヌス・ウィクトリクス講堂に移動するために廊下に出て整列をする。


『瑠璃とは帰りに話しをすればいいかな‥‥‥』



長尾智恵は委員長としての仕事に専念する。促されて廊下に出てきたクラスメイトたちがほぼ出席番号順に整列を始める。その列の中に高梨瑠璃と樋口ソフィアの姿を長尾智恵は見つけた。


『いつの間に‥‥‥教室に居なかったはずなのに‥‥‥』


それでも高梨瑠璃の横には加地美鳥も居たので何か話しをしてくれるだろうと期待して,長尾智恵は一先ず安心の溜息を吐き,前に向き直るとクラスメイトを先導してウェヌス・ウィクトリクス講堂に移動を始めた。






ウェヌス・ウィクトリクス講堂での始業式が終わって,生徒たちは各自の教室に戻り,ホームルームが始まった。1年A組では担任の山県先生が席替えや新学期のカリキュラムの説明など諸々の伝達を淡々と進めていく。


「‥‥‥では,これでホームルームを終わります。委員長お願いします。」

「起立!礼!」


長尾智恵の合図でクラスメイトたちは立ち上がり,一礼する。

礼を直り,ホームルームが終わって生徒たちは帰りの準備を始める。


「智恵,ちょっと瑠璃の事で話をしたいから私の部活動が終わるのを待っていてくれない?」

「うん,いいけど‥‥‥」

「じゃあ,1時間くらいで終わるから玄関ホールで待ち合わせしよう。」

「うん,いいよ。」


加地美鳥は長尾智恵の席に近づいて来て話し掛けてきた。長尾智恵は高梨瑠璃の事が気になっていたが,礼を直った後すぐに確認した時にはすでにその姿は居なくなっていた。


『さてと1時間か‥‥‥久しぶりにちょっと図書館にでも行ってみようかな。』


長尾智恵はふと思いついたように図書館のある施設棟の区画へと向かう。道路を横断して,菩提樹の遊歩道を歩く。9月になったとはいえまだまだ厳しい残暑の中で,この遊歩道は日陰も多いので清涼感もある。散歩していて心地の良い汗の掛ける環境にある。偶然,反対側の歩道に目を向けるとちょうどウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂に人影が入るのが見えて立ち止まった。


『あれ?あの礼拝堂って鍵が掛かっているんじゃなかったっけ?』


少し不審に思ったが,礼拝堂に入ったのがシスターの先生か,清掃の業者かもしれないからおかしいこともないのかなと思い,時間も少なくなるからと踵を返して図書館に急ぐことにした。長尾智恵はウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂に入った人影が樋口ソフィアだとは思いもしていなかった。

特にこれを読みたいという本があったわけではなかったのだが,長尾智恵は図書館に入ると何かに引き寄せられるかのように一般書架にある伝記のコーナーへと足を向けていた。そして,無意識のうちにとある1冊の書籍に目を奪われ,その前に立ち尽くしていた。

長尾智恵はその本を手に取るとハッと我に返ったように覚醒して思わず周囲を見回していた。


『あれ?何してたんだろう?』


自分でも分からないくらいに意識がはっきりしていなかったようだ。そして,持っている本を確かめる。


『何でこんな本を‥‥‥』


その本には図書館の本になら背表紙に必ず付いているはずの登録ナンバーのタグがない。さらにかなり古い本なのか本のタイトルが読み取れない。


『誰かの忘れ物なのかな?』


もし忘れ物なら受付に届けたいところだが,スカートのポケットからスマホを取り出し,時刻を見ると加地美鳥との待ち合わせ時間に急がないと間に合わなくなりそうだった。そんなに時間が掛かったはずはないが,今回は申し訳ないと思いながら本を棚に戻すと急いで図書館から遊歩道へ出て,待ち合わせの高等部校舎の玄関ホールへと駆け出した。






長尾智恵が高等部校舎の玄関ホールに着くと加地美鳥はまだ来ていなかった。安心してフーッと一息付いて手に持っていたスマホを見ると時刻は待ち合わせまでまだ10分くらいの余裕があった。


『あれ?どういうこと?』


図書館から高等部校舎まで歩いたら10分弱は掛かる。走ったとはいえどんなに急いでも3分くらいは掛かる。スマホなのだからインターネットに接続して時刻補正している電波時計のように正確な時計のはずだから時刻も大きくずれるはずはない。

色々と思案していると背後から加地美鳥に声を掛けられた。


「お待たせ,智恵。」

「ううん,大丈夫だよ。」

「何かあったの?」

「うーん‥‥‥」

「言いたいことがあるなら言ってよ。気になるし,今さら隠すような仲でもないでしょ?」

「そうだね。」


2人は歩き始めると長尾智恵は加地美鳥にこの1時間であった出来事について話し始めた。鍵の掛かっているはずのウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂に入る人影の事,図書館の書架にあった所有者不明の本の事,そして時計の事‥‥‥。



「確かにあの礼拝堂は特別な行事の時にしか開けないから常時施錠しているはずだし,何か曰くがあるらしいからシスターの先生でも中には1人で入らないとか聞いたことあるし。」

「あっ,そういえばそんな話あったね。忘れてたよ。だとしたら中に入って行ったのって,いったい誰なんだろう?」

「謎よね‥‥‥」


もう今さらそれを確かめる手段はないだろうと長尾智恵は思った。


「図書館の本だってバーコード管理されているし,司書の先生の話だと書架の入り口のゲートで本の持ち込みと持ち出しを管理しているし,貴重な本もあるから警備員が巡回したり,司書の先生が書架のチェックを常にしているから図書館のものじゃない本が棚に紛れ込むのは考えづらいよね。」


確かに加地美鳥の言う通りだ。聖ウェヌス女学院の図書館には創立当時に所蔵されたような歴史的に貴重な資料や書籍さえ存在しており,その管理は国立図書館並みのセキュリティ対策が施されている。だからこそ,入出管理に始まり,手荷物検査,書架の温度湿度などの環境にまで細かく規定がある。


「時計の事も含めて不可解な事が重なり過ぎている感じがする。」

「うん,そうだね。」


その時には気が付かなかったが,思い返すとおかしな事が多すぎる。既に正門前の交差点まで来ており,今から戻って担任の山県先生に相談しようにも何処にいるか分からない。


「とりあえず,明日登校してから山県先生に相談してみようかな?」

「うん,それがいいんじゃない。」


長尾智恵と加地美鳥は横断歩道を渡り,バス停へと向かった。


そんな長尾智恵たちの様子を正門の通用口である小さなアーチの中から顔を出してじっと見つめる人影があった。


「先は見えてきた,油断なく‥‥‥次はあの娘だな‥‥‥」


そう呟くとその人影はスーッと小さなアーチの壁へと吸い込まれて消えた。






ホームルームが終わった後,高梨瑠璃は体操部の練習で体育館に来ていた。今日は最近の調子の悪い状態とは何か違い,筋トレでなく久しぶりに技の練習が出来そうだと感じ,更衣室でレオタードに着替えながらウキウキしていた。そして,周囲の体操部の部員たちもジャージではなくレオタードに着替える高梨瑠璃を見て雰囲気が違うのを感じ取っていた。


「どうしたの,瑠璃?レオタードに着替えて。」

「今日は何かやれそうな気がして。」

「本当?」

「筋トレじゃなくて久しぶりに床をやってみようと思う。」

「大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。」

「愉しみにしているね。でも気を付けてよ。」

「うん,ありがと。」


着替え終わった高梨瑠璃は更衣室を出て,準備運動を始めた。

高梨瑠璃は準備運動を終えるとマットの角に立ち,合図とともに軽快に走り始めると第一タンブリングに入る。その回転は今までとは違い,身長の伸びた事による回転の高さと大きさが増しており,そこから生み出される遠心力により繰り出したのはこれまでの後方屈伸2回宙返りではなく後方伸身2回宙返りになっていた。スタンと綺麗に着地を決めた刹那,2本の脚から伝わってきた衝撃は眉を歪めるような痛みと違い,技を成功させた心地良さだった。気持ちに余裕ができ,そこからさらに元気で伸び伸びとした演技がダイナミックさと表現力の豊かさへと繋がり,周りで観ていたほかの体操部の部員たち,そして顧問の甘利先生の視線を釘付けにしていた。

そしてフィニッシュは後方伸身宙返り3回半ひねりを決めポーズを取る。

一瞬の静寂に包まれた後,体育館内はスタンディングオベーションとともに拍手の音が体育館に反響して,館内の他の部活動の生徒たちも何が起こったのかとビクッとして皆が振り向いた。高梨瑠璃も体育館にどよめく歓声にたじろぎ,体を硬直させていた。


しばらく実戦的な演技から離れていた事を差し引いても高梨瑠璃の高い完成度に甘利先生も驚き,彼女に駆け寄り,抱き締めて泣き縋る。そして高梨瑠璃はその抱擁で我に返り,自分の演技を反芻した。






同時刻 ――――― 安田晶良は体育館の奥に併設されている弓道場に居た。この弓道場は近的用に設計されており,30mほどの奥行きを持っている。弓道場全体は安全対策のために防矢ネットが張り巡らされており,的を侯串で刺し立て,矢を受け止めるための土盛りである安土の他に,看的所と呼ばれる安土の脇にあり競技の際に看的をする者が詰めたり,的や安土を整備するための道具を収納したりする部屋,さらに巻藁室と呼ばれる射法稽古用に巻藁を常設した部屋もある。


安田晶良は稽古に入る。まずは矢束の調整だ。喉元に鏃を当てて腕を真っ直ぐに伸ばしその長さに5~6センチを加えたのが矢の長さとなる。彼女も最近急に身長が伸びてきて腕の長さが変わったために矢束の長さも長くなっている。その微妙な変化のせいか今までより的中率も悪くなってきていた。


「うーん,最近身長も伸びたし,それに胸も大きくなったから矢を番える時に少し気になるし。」


この前も練習中に打起しから引分けへの動作の際に胸に弦を引っ掛けてしまった。胸当をしていたので痛みとかはなかったものの違和感ができてしまい,それ以降射法八節の所作の流れに淀みを生んでいる。


「あまり調子が良くないようね。」


声を掛けてきたのは顧問の三枝先生だった。


「あっ,三枝先生。何か今までと感覚が違い過ぎて上手く射ることができないんです。」

「それなら巻藁か,もしくは基本の射法八節の稽古を地道やっていくしかないでしょうね。」

「やはり,そうですか‥‥‥大会もあるから実際に射てみたいんですが‥‥‥」

「あなたは身長も伸びているし,それに胸も大きくなってきているから矢を射る時に体のバランスに崩れが出て,以前より前屈みになってるように感じますよ。それだけで全然,矢の飛ぶ方向は変わりますから。基礎からやり直しましょう。」

「分かりました。」


安田晶良は三枝先生の言葉に頭では理解を示したが,心の中では大会が近いので基礎からやり直すことに不安を感じていた。


「基礎からやり直しって‥‥‥もしかしたら大会の出場メンバーから外されるのかも!?」


安田晶良はもやもやとした厭な気持ちが心に棘を刺したように感じた。


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