#079 我田引水
「では直ぐにでも神棚だけは設置をしましょう。それに合わせて店内の改装も少し必要ですね。ここを潜れば誰でも神域に行けるのかしら?」
馬場学長は自分も是非神域に行って神々に会ってみたいようで,食い気味に興奮して捲し立てるように質問をぶつけてくる。
「神域に行けるのは向こうに居る神に認められた者だけですよ,学長。」
「そうなんですか‥‥‥何で私ではなくて‥‥‥春日さんなのでしょうか‥‥‥」
馬場学長は春日結菜に対する嫉妬から自分の愚痴が独り言ではなくなっているのにすら気が付いていない。
そんな馬場学長の様子を春日結菜は訝しげに見ながら苦笑いを浮かべるしかなかった。
その日のうちにお店には神棚が設置が始まった。
神社の社殿建築を模した宮形と呼ばれる神棚で壁の上方に天井から吊るされた三社造りとなっている。
大神官により古典祝詞が奉唱されて,春日結菜は神域から持ち帰った神果を使い調理したスイーツを神棚として三方に献上した。
その神饌はスーッと空間に吸い込まれる。それを見た馬場学長は目の前で起きた出来事に手を合わせて拝む。そして神棚に置かれた神鏡がピカッと眩しく光る。神棚の前に居た春日結菜,馬場学長,大神官,神棚を設置した宮大工たちは一斉に瞼を閉じた。
光が収まり全員がやっとの重い瞼を開くとそこにはたくさん積まれた果実が入った籠が置かれていた。春日結菜は神棚の設置とスイーツのお返しだろうとその場に居た全員に話し,馬場学長は他言無用と念を押した。
春日結菜は送られてきた神果を何個か切り分けると全員に振舞う。その神果を食べた者たちは,甘いだけではなく含まれる水分や酸味のバランスの絶妙加減が美味しさを増していて,ふと1回だけ全員が目を見合わせただけで後は何も喋らず,一口サイズに剥かれた神果をひたすら口へと運び続けた。
皿に盛られた神果を食べ切ると春日結菜以外の者は近くにあった椅子に腰を落として愉悦に浸っていた。恍惚の境地に至ったと言わんばかりの表情の中にはまだ食べたいという衝動が抑えきれない様子もあった。
「さあさあ,皆さん。もう設置は終わったのでお店から出ましょうね。」
馬場学長は春日結菜を残して店内に居た人間を追い出す。そして扉を閉めて鍵を掛けると戻って来て椅子に腰掛け,春日結菜に自分の目の前の椅子に座るように促す。
「まさに神の果物でしたね。」
「はい。私も食べた人があんなになるなんて思いも寄らなかったです。」
「私はまだ試練を受けて神に近い存在との接触がありましたからあそこまでにはなりませんでしたけど,気を抜いたら危なかったですね。」
「そうなんですか?」
「ええ。でもこれはお店で出せるような代物ではありません。」
「確かにそうですね。」
「これはあくまでも神饌として貴女が作り奉納するだけにした方がいいでしょう。ただあの量の神果ですから使い切るのも大変でしょうか‥‥‥」
馬場学長は厨房の冷蔵庫に入りきらず調理台に積まれた神果を見て溜息を吐く。
こちらに帰って来た以上,この店の仕事に影響が出ない程度に作るとしてもあまりにも多すぎる。
「例えば‥‥‥ですよ。山県先生や一条さん,長尾さんや樋口さんのように試練に絡んで神に接触した人に振舞うなら問題はありませんか?」
「うーん‥‥‥私でも気を張りながら食べていたくらいですから他の人たちはどうか分からないですね。」
「それにこれは神果ですから何か身体的や精神的に影響ってあるのですか?」
馬場学長は春日結菜の発言にハッとして口を手で押さえる。正直そこまで考えてもみなかった。
何も影響がないとは考えられない。逆に言えば影響があると考えた方がいいのだろう。
「さっき食べた人たちも‥‥‥」
春日結菜を店の中に残して馬場学長は外に飛び出す。遊歩道まで出て見回すが誰かが歩いている雰囲気は感じない。
『まさかもう何か影響が出たの?』
馬場学長はフラフラと店に戻って来た。春日結菜は焦燥とした雰囲気を醸し出す馬場学長に何も声を掛けられない。
「見失ってしまいました‥‥‥私ったら,何をやっても後手後手で‥‥‥」
春日結菜は話題を変えないとこの重い雰囲気を変えられないと思ったが,ではどんな話題がいいのかと言われても分からない状態だった。
その雰囲気を一瞬にして打ち破るように長尾智恵が店に飛び込んできた。
「はあ‥‥‥はあ‥‥‥はあ‥‥‥春日さん,無事だったんですね。よかった‥‥‥」
肩で息をしながら手で膝を押さえて俯き,やっと喋っていた。
「すみませんでした‥‥‥なんて謝って済む問題ではないですよね‥‥‥」
長尾智恵は息を切らせながらもひたすら頭を下げ続けた。春日結菜は彼女に呼吸を整えさせて気持ちを落ち着かせようと抱き寄せた。
「それで何で春日さんが戻って来たのを分かったのですか?貴女は向こうに行ったはずですよね。」
馬場学長が怪訝そうな表情を浮かべ質問する。どうもこの長尾智恵は偽物ではないかと疑っているようだった。
「確かに私は向こうに行きました。そしたら向こうの世界の店に何故か神域へと繋がる門があったんです。それで潜ってみるとポモナと名乗る女神が春日さんの事を教えてくれたのです。」
長尾智恵が言うにはこの門はどうもヤハウェの創造した世界にも理由は分からないが開いてしまったらしい。そしてその世界から門を通るとその世界に戻ってしまうので春日結菜に会いたいなら元の世界に戻る方法を使い,そこから会いに行くといいと教えられたのだという。
「何か物凄いご都合主義ですね。」
春日結菜の言葉に思わず3人は微笑む。さっきまでのギスギスしたような雰囲気が一変する。
そして今後の対策も含めてもう一度話し合うためにお茶会をする事にした。
「そう言えば‥‥‥突然なんですが学長,この店の名前をポーモーナルにしたいのですが,いいですか?」
「急にどうしたのですか?」
「せっかく果樹栽培の神であるポモナ様と縁を結べたのであの方に因んだ名前にしたくて‥‥‥」
「まあ長尾さんの試練とこの店の改装が終わったらにしましょう。」
「はい。ありがとうございます。」
「そう言えば‥‥‥私も神域で向こうの果物を頂いたのですが,こちらの果物と違って流石に神果って感じでしたね。」
「長尾さん‥‥‥神果を食べたのですか?何ともないですか?」
「ええ‥‥‥特には何とも‥‥‥」
長尾智恵は身体を一通り見回す。
「それならいいのですが‥‥‥」
「じゃあ,私の作った神饌用のスイーツも食べてみます?」
「えっ?いいんですか?神域でポモナ様が春日さんの作った神果のスイーツは最高ですとべた褒めだったのです。」
「本当ですか?」
馬場学長の心配を他所にして盛り上がる若い春日結菜と長尾智恵だった。
ヤハウェとヤルダバオトは自分たちにとって瞬きするくらいの短時間の間に進む急激な展開に辟易していた。
「何故にこんな事になったのだ‥‥‥」
「儂らの神域の神が絡んでくるのなら分かるが,どうして他の神域の神までがこうも絡んでくるのだ‥‥‥」
彼らが創造した世界の中の閉鎖された自分たちだけの空間で2人は今後の対応策に追われていた。しかし,どう対応するにしても既に手遅れで増してや自分たちよりも上位の存在が多数介入してきている。自分たちでどうにか出来るレベルではなく,もう成り行きに任せるしかない段階だと感じている。
「もうどうでもいいか‥‥‥」
「そうだな‥‥‥こうなってはどうしようもないものな‥‥‥」
「何か腹立たしくもあるが,表立って批判は出来ないしな。」
「だったら少しだけ抵抗を試みてみるか?」
「何か面白い事でも思い付いたか。」
「儂らの智恵が奴らの叡智に勝てるかは分からんが。」
「でも一泡吹かせるくらい出来れば‥‥‥」
「やってやろうじゃないか。」
相手が自分たちより上位の神だとしても他の神域の神に自分たちの神域の神に許しをもらっている遊びの邪魔をされるなど屈辱でしかないからだ。
ソピアーは突然として自分の分霊を持つ長尾智恵と樋口ソフィアの2人の少女の存在を感じる事が出来なくなってしまい,その動向を頻りに探り続けていた。だからと言って別に焦りはない。こういった事は昔からよくある事だった。
ソピアーの中ではまた別の神域にでも飛ばされたのだろうくらいに簡単に考えているのだが,問題は自分の分霊を持った者がどこの神域に紛れ込んでしまったのかは知っておきたい。もし他の神にでも分霊の存在を知られたら,それこそ弱味を握られるのだ。
それに長尾智恵からも樋口ソフィアからも時々呼び掛けはあったが,あまり自分を頼りにし過ぎるとよくないのは過去の経験から分かっているので関わらないようにしていた。でもそれが仇になるとは思わなかった。
ウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の門はあくまでもこの神域にある世界に繋ぐものであって,他の神域に繋がるなどという事は今までなかった。明らかに今までとは違う異常事態が発生しているのだ。それは取りも直さずこの神域が他の神域と干渉し合う力が働いているか,最悪融合させようとする外的要因があるのかもしれない。
「もしそうだとすれば‥‥‥」
今までにそんな事象は聞いた事もない。自分より上位の神に因って何かの判断が為された‥‥‥と考えるのが妥当だろう。人間が神の試練と受け止めるヤハウェとヤルダバオトの遊び,それが今回は神への試練と重なってしまっているのか‥‥‥もう前回の神への試練は人類が生まれるより遥か昔の事だ。
あの神への試練と同じ事が現在起きているのなら‥‥‥あの時は突如起きた空間崩壊による凄まじいエネルギーを源として無数の神域が1つの宇宙の中に発生した。そんな事例はそれまでの宇宙では初めてで神々はこの宇宙を実験場として推移を見守るという事になった。
神同士で他の神の神域には干渉しないという暗黙の了解のもと自分たちでそれぞれ世界という名の箱庭を作り上げ,その中で実験を繰り返した。既に終焉を迎えた箱庭もあるが,基本的には総ての箱庭は遅かれ早かれ終焉へと向かうのだけは決まっている。
「私は叡智を司る者としてこの箱庭で様々な実験を繰り返してきた。だから1つの生態系が滅んだとしても次の生態系へと繋がるように世界を構築してきた‥‥‥」
他の神は1回の終焉で実験を終了させている神が多く,今は暇を持て余している。9割以上の箱庭が終焉を迎えている現在に於いて残りの1割の存在はある意味邪魔か,悪戯の対象になる?
「約束は神域への不介入であって箱庭は別扱いだった‥‥‥」
自分の創造した箱庭弄りに忙しければ他の神の箱庭までは手を出さないだろうが,暇を持て余した神にすれば,幼稚園で悪戯っ子が自分のやる事に飽きて隣に席に座るクラスメイトの作る粘土細工を弄ったり壊したりするようなものだと‥‥‥
「そう考えれば,この世界を早く壊して他の神が次の箱庭を作る材料にしたいだけなのかも‥‥‥」
ソピアーはまだこの世界の終焉を望んではいない。彼女にしてみたら叡智を得るための実験の途中であり,何より彼女の分霊が長尾智恵と樋口ソフィアの中にあるのだ。最悪それを回収してからでなければ,自分の力の一部が失われてしまう。それだけは避けなければならない。でも現時点で長尾智恵と樋口ソフィアを殺してまで回収したいという気持ちはさらさらない。ソピアーはそれだけ2人に愛着のようなものを感じていた。
「今はうまく立ち回って私の世界を守り抜こう‥‥‥」
ソピアーは決意を固くした。
ポモナとウェルトゥムヌスは満足していた。
この神域に於いて神果をはじめとして様々な食料になる植物が栽培されている。しかし,それらを調理できる神や天使が居ないために出来たものをそのまま食べるという事を数億年続けているのが現状だった。
一応,厨房や調理器具は箱庭に住む人間のを見真似て作ったのだが,厨房に立てる者が居ない上に料理に興味を持つ者が皆無だったために料理が出来なかった。
「あの春日さんを私たちの専属料理人と出来たらいいのですけど。」
「それでなくてもここの天使たちに料理を教えてくれるだけでもいいのだがな。」
「でも遣り過ぎると向こうの神であるソピアーから苦情が来るかもしれないですよ。」
「うむ。かと言って向こうにうちの天使を送り込む事も出来ないしな。」
「そもそもこの神域と繋がる門を作ったこと自体,本当は問題視されるのですから。」
「でも彼女の作る料理は御前も食べたいのだろ。」
「それは,そうですけど‥‥‥」
「事後だがやはり,ちゃんと断りを入れて置いた方がよかろうな。」
彼らの神域の箱庭は既に滅亡してしまっている。だから人間を神域に連れて来て料理をさせるなんて事はもう出来ない。
かと言って今から箱庭を一から作るなんて作業を始めても春日結菜のような優秀な料理人が出て来るという保証もないのだ。
それに神域を跨いでの人材交流を神の力を使って行うのは本来禁止事項になっている。それぞれの神が自分たちの裁量に基づいて作った箱庭なのにその中に暮らす生物が気に入らないからと他の神域の箱庭から神が生物を引き抜き認めてしまうと収拾が着かなくなるためだ。
ただし生物自身が自分の力で意識的でも無意識でも神域の壁を越えてしまった場合は目を瞑る事になっていた。
春日結菜はそんな神々の間の取り決めなど知る訳もない。ましてや彼女には自分の居た世界とポモナの居る神域が別物だとは知る由もない。
「取り敢えずソピアーに面会を求めましょう。」
「そうだな。」
ウェルトゥムヌスは側仕えの天使に面会を求める書簡をソピアーに届けるように命令した。
ソピアーの元にウェルトゥムヌスからの書簡が届き,直ぐに会談が行われる事になった。届いた書簡には春日結菜の件についての経緯と今後お願いしたい事を話し合いたいとあった。
ソピアーは話し合う対象が長尾智恵や樋口ソフィアではなく春日結菜なのか理解できなかった。
長尾智恵と樋口ソフィアに春日結菜は接触をしているが,ソピアーの中ではさほど重要視している訳ではなかった。
でもこの交渉が上手く行けばウェルトゥムヌスとポモナ,そして彼らの居る神域と友好的に共闘できる可能性もあり,それがダメでも交渉内容に寄っては彼らの神域より優位な立場を築けるのではないかと考えた。
だから変に時間を置かずに直ぐに会談に応じる事を決めて,取り次ぎに来た天使に返信の書簡を渡して帰らせた。
「彼らの神域の箱庭は既に失われているはずだから今さら人間を手に入れても箱庭には住まわせられないはずよね‥‥‥何のために春日結菜が必要なのかしら‥‥‥」
ウェルトゥムヌスとポモナがどんな形にせよ春日結菜という人材を欲しがっているのだけは確かで,それが交渉材料になるのは確定している。あとは彼らが具体的に彼女に何をさせたいのかで何を取り引きとして引き出せるかがソピアーにとっては重要なのだった。
「今回は面会に応じて頂きありがとうございます,ソピアー。」
「いえ,こちらこそ,ポモナ。」
ソピアーは用意した部屋にウェルトゥムヌスとポモナを案内した後,一旦席を外すとサービスワゴンを押して現れた。
「そう言えば,こちらの神域には側仕えの天使が見受けられないようですが‥‥‥」
「この神域では天使があまりいませんから。それに神だと言っても自分で出来る事は自分でするのが私の神域のやり方です。」
「そうですか。」
ソピアーは紅茶を淹れながらポモナの質問に答えた。ティーカップとお茶請けのケーキを取り分けると2人の前に差し出す。ウェルトゥムヌスの眼の色が変わる。
「もしやこのスイーツは春日結菜の作ったものか?」
「はい。そうです。でもそちらの神域の神果は使用していません。こちらの世界の材料で作っています。どうぞお召し上がりを。」
「うむ。頂くとしよう。」
ウェルトゥムヌスとポモナの表情が一瞬変わったのをソピアーは見逃さなかった。
「美味いな‥‥‥」
「ええ‥‥‥」
2人は美味しいとは言ったもののこちらの世界の材料で作ったスイーツには魅力を感じなかったようだった。




