#072 形勢一変
長尾智恵は星空を楽しみながら街道を進んで行く。
空は彩った星たちがその姿を徐々に隠し始めて白んできた。
背中に夏の日差しを受けてチリチリと熱を感じる。
そして目の前には岩肌の連山を抱く麓の門前町に辿り着いた。
道中では街道沿いに幾つかの集落があったものの人の気配を感じる事は出来ず,2人を見付けられなかった。
「ここに居ればいいんだけど‥‥‥」
長尾智恵は家々を確認しながら街の中心までやって来た。
正面には参道があり,山の中腹にある神社に繋がっているのであろう。
左右に伸びる道には茶屋や飯屋,宿屋があったのであろう看板の掲げている建物が並んでいる。
その中で一際大きい建物を見付けると中に入った。
多分,この門前町で一番の有力者が住んでいたのであろう。
家というよりは大店の屋敷で2階建ての建物の間口は30間はあり,地方ではかなりの有力者の部類に入るのだろう。
中に入ると幅2間ほどの土間があり,真正面には階段があって左右は障子で仕切られた部屋が並んでいる。
片側は囲炉裏のある板の間の居間であると思われる座敷,その奥には大きな竈が3基もある土間の台所,もう一方は儀式や接客を行う格式の高い書院造りの真の表座敷,次の間を挟み,仏間となっている落ち着きのある書院造りの行の奥座敷,表座敷と敷居を挟んだ所には数寄屋として使用される草の座敷,そしてそれぞれの座敷には掛け軸や壷などの調度品が多数あり,さらには一番奥に寝所となる納戸がある造りとなっていた。
2階に上がると1階とは違い簡素な造りの8畳で仕切られた部屋が多数あり,ここはこの屋敷の奉公人が住んでいたのだろうと感じた。
「これが江戸時代の御屋敷なんだ‥‥‥」
長尾智恵は日本史で口伝でしか聞いた事のない民の暮らしというものを実感できたのが面白かった。ここに来るまではそんな事を考えたり,学んだりという余裕がなさ過ぎた。
実際には現代に戻ったところでこの話をしても信じてはもらえないだろう。
でも少なくとも自分の経験値としては大きいと思うし,こういう体験こそが歴史の学習だと思っている。
ガタッ
階下から何か物音がした。
この世界に居るのは自分,山県先生と一条日向,それに春日結菜だけのはずでそれ以外には動物も含めて生きる者は居ないはず。
であれば3人のうちの誰かが下に居る可能性が高いが,必ずしもそうとは限らない。
長尾智恵は物音を立てないように慎重に階段に近付き,そっと階下を覗き込む。
視認できる範囲には誰の姿も見えない。
下りるにしてもこの階段はギシギシと音を立てるのは上がる時に知っていた。
だから確認のために下手に階段を下りる訳にもいかない。
『もう一度物音がするか,山県先生たちが居るのなら声がするだろうし‥‥‥』
かなりの持久戦になるだろうがここから声が聞こえるか,姿を見せるのを待っていた方がいいだろうと心に決めた。
暫くすると下からボソボソと誰かが会話をする声が聞こえた。
この時点で2人以上の人物が居る事は確認が出来た。
でもそれが確実に山県先生と一条日向であるとは言えない。
確かにこの世界に来てから現地の人間と出会ってはいないが,それは自分が会っていないだけであって,イコール誰も居ない訳ではない。
長尾智恵はそこを間違えてはいけないと思った。
階段上から見える位置にその声の持ち主が出て来ないかと声を潜めて只管待ち続ける。
緊張で彼女の呼吸音と心臓音が昂る。その音が相手に聞こえてしまうのではないかと思うほどに。
ハー‥‥‥ハー‥‥‥
ドクン‥‥‥ドクン‥‥‥
絶対に止める訳にはいかない音。自分でもそれぞれの音が大きくなっていく感じを受ける。
次第に呼吸の間隔が短くなり,心臓の動きが早くなるのが分かる。
暫くして表座敷から玄関の土間に出て来た人影を見た。
長尾智恵はその後ろ姿に見覚えがあった。
「山県先生だ。」
立ち上がると階段を踏み外して落ちたのではないかと錯覚するような感じで下りた。
その音に山県先生はビクッと大きく震え,ゆっくりと後ろに振り返る。
「えっ?長尾‥‥‥さん?」
「先生!」
山県先生は何故ここに長尾智恵が居るのかが分からず,状況を理解するのに時間が掛かった。
その間に台所に居た一条日向が玄関に来て再会を喜んだ。
「何でここに長尾さんが‥‥‥」
「先生たちを助けに来たんです。」
「でもどうやって元の世界に帰るというの?」
「それも大丈夫です。戻り方は分かっているので。」
「じゃあ‥‥‥」
「はい。任せてください。」
山県先生と一条日向は飛び跳ねて歓喜の声を上げた。
ただ2人はこの世界でどうしても実証と確認しておきたい事あるらしく時間が欲しいという。
長尾智恵も時間に制約がある訳でもないので了承した。
ただ彼女には春日結菜と馬場学長が心配でもあるので,あまり長い時間掛かるようなら途中で強制的に打ち切るつもりでいた。
それまで時間が出来た事もあり彼女はこの地域の散策を進めた。
街中の散歩を終えた後,山の方へと足を向けた。
ここには岩肌を露わにした連山を御神体と崇める神社がある。
江戸の戌亥の天門を鎮めるために座した信仰の対象で,現代に於いてこの神社に参拝をしたことのある長尾智恵はこの時代とどう違うのかを見てみたくなった。
何せ1000年にも及ぶ歴史を持つ神社なのだからどのように改修・増築されてきたのか興味深々だった。
自分の知る御本殿はまだ建築中だったらしく完成していなかった。
そこで手前にあった現代では旧本殿と呼ばれる社を参拝した。
参拝を終えて山を下りようとするが,彼女は視線を山の上の方から感じた。
いや視線というよりも背中をチリチリと突き刺すような熱のようでもあった。
後ろに振り向き見上げると中腹辺りから点滅する光源を発見する。
「何だろう‥‥‥まるで私を呼んでいるような‥‥‥」
長尾智恵はその光に魅了されてフラフラと歩き出すと山林の中へ入って行った。
山中を彷徨う‥‥‥事なく光源の場所まで辿り着く。
「えっ‥‥‥ここはどこ‥‥‥」
長尾智恵は光源の強い光の点滅を浴びて我に返った。
そして自然と腕を前に出して光源に触れようとする。
強い光なのに眩しさは感じない。何か不思議な感じがしている。
掌が光源に触れた瞬間,光が彼女を包み込む。
さらにその光が彼女の中に入って来る。
その許容量が超えた時,彼女は自分から光を発するようになる。
それとは逆に光源は失われて漆黒の闇の穴となっており,奥から何かが迫ってくるのが見えた。
徐々にそれは姿を大きくなり人だと認識できるようになる。
瞬きをして目を外してしまった一瞬でそれは長尾智恵にぶつかって来ていた。
「うっ‥‥‥うーん‥‥‥ソ‥‥‥ソフィア‥‥‥ちゃん?」
「うっ‥‥‥うーん‥‥‥こ‥‥‥ここはどこ‥‥‥?」
勢いよくぶつかった衝撃で長尾智恵と樋口ソフィアは抱き合いながら吹き飛んでいた。
マウントを取っていた樋口ソフィアは下敷きなっているのが長尾智恵だと気が付くと襟首を掴み凄む。
「春日さんは!春日さんをどこに置いてきたのよ!」
「そ,それは‥‥‥」
「春日さんを見捨てるなんて!何でよ!」
「だ,だから‥‥‥」
長尾智恵は懸命に弁解しようとするが,樋口ソフィアはまるで聞く耳を持たない。
2人は取っ組み合いするが,上に乗っている分だけ樋口ソフィアの方が分がある。
「お願い‥‥‥聴いて‥‥‥」
長尾智恵は首が絞まってきて喋られず肩にタップするが,樋口ソフィアはそれに気付かず締め上げ続ける。
そして息の出来なくなった長尾智恵は気を失った。
彼女はだらりと腕は垂らし,足は投げ出され,首は樋口ソフィアの腕に委ねて項垂れる。
その段になって樋口ソフィアは自分のした事に気が付いた。
「えっ?長尾さん?まさか,私‥‥‥」
長尾智恵は死んではいなかったが,気が動転してしまった樋口ソフィアは混乱して彼女を置き去りにして逃げ出した。
自分が直接手を掛けて人を殺してしまったのではないかという恐怖を感じて。
考えてみれば,先の世界では100万以上の人々を殺めたが,それは自分が直接手を掛けた訳ではない。映画やドラマの中で読める次の展開としての大量殺戮。
しかし今は自分の両方の掌に首を絞めたという感触がまだ感じられる。
それを考えると手が震えてしまう。
『半年とは云え同じ教室で机を並べ一緒に勉強したクラスメイトを‥‥‥』
樋口ソフィアは禁断の領域に手を出してしまったのだと実感した。
山道を転んだり躓いたりしながら,手や足,顔にまで擦り傷や切り傷を作りながらもあの場から早く逃亡したい一心で走り続ける。
「ハァ‥‥‥ハァ‥‥‥ハァ‥‥‥」
着物をボロボロにして,息を切らしながら麓の門前町まで樋口ソフィアは漸く戻って来た。
そしてその目の前には山県先生と一条日向が立っており樋口ソフィアを呆然と見ている。
「樋口さん!どうしたのその恰好‥‥‥それにその傷は‥‥‥」
殆んど疲れる事を知らなかったはずの樋口ソフィアだったが,この時は精神的に参り切ってしまい,2人に肩で担がれながらお屋敷へと為すがままに連れて行かれた。
一条日向は樋口ソフィアに怪我の治療をする。
と言っても包帯や絆創膏がある訳もなく,現代医学の治療薬がある訳でもない。
ここはこの地の有力者の御屋敷らしく,薬師を雇っていたのか,それとも出入りの薬売りが訪問していたようで漢方薬や傷薬など置き薬が多数あった。
古文書を読むのが好きで病院務めの一条日向だったので薬の説明書も読む事が出来て,その薬効についても知識があったのが幸いした。
一条日向は治療を終えると山県先生に布団を敷かせて樋口ソフィアを休ませた。
「どうしたのかしらね。こんな傷まで負って‥‥‥」
「それよりも長尾さんといい,この娘まで何でここに来られたのかしら‥‥‥」
「確かに。」
2人はここで推測をしていても仕方がないと長尾智恵が戻るか樋口ソフィアが目覚めるのを待つ事にした。
「戻って来ないわね‥‥‥」
樋口ソフィアを寝かせてから2人は必要な調査を進めた。
そして日没を迎え,外は暗闇に包まれていた。
長尾智恵は一向に戻って来ない。現代と違い,この時代には街燈などある訳もなく,ましてやこの世界には人間の存在を確認できていない。
それは灯りを取るという人類の智恵から生まれた方法を使う者が居ないという事だ。
山県先生は長尾智恵から山に入ると聴かされていた。
しかしこの山にはそれなりに緑があると言っても火を起こし灯りにする事は簡単ではない。
だから陽が沈む前に‥‥‥特にこの辺りは西側にある山に因って暗がりになりやすいから早めに戻るように言っておいた。
彼女は頭が良いからそんな事は重々承知しているだろうし,自分も念を押したのだから約束を破るような事はない。
そんな長尾智恵がまだ戻って来ない。
それは彼女がトラブルに巻き込まれたか何かあったのは確実だろう。
かと言って2人の女性が碌な準備もなく捜索に出るのは2次被害を生むだけだ。
2人は相談して翌朝明るくなってから捜索に出よう。今夜はそのために早く床に就く事にした。
山県先生と一条日向の2人はすっかり眠っていた。
明朝の長尾智恵の捜索もあり,まだ日付が変わる前だったがスースーと静かに寝息を立てていた。
2人の間で眠っていた樋口ソフィアの瞼がゆっくりと開かれる。
そして自分が長尾智恵にしてしまった事を思い出す。
手を目の前に挙げてジッと眺める。
「この手でクラスメイトを殺してしまった‥‥‥」
もう何時間も経っているというのに未だに掌には長尾智恵の首筋の肌の温もりが残っている感覚に囚われている。
しかし気分が落ち着いてみるとそれは後悔ではなく快楽に近い。
身体を起こして隣で眠る一条日向を覗き込む。
スーッと手が彼女の首へと伸びる。
両手の指頭から掌底までが首の皮膚に触れているのが分かる。
グッと力を入れようとするがそれを身体が拒否している。
精神の方は先ほど昼間に長尾智恵の首を絞めた時にその表情を見る事が出来なかったのを後悔していて,今度はその表情を一条日向でじっくり見たいと考えていたのに。
山県先生は何か物音がしたのを感じて,樋口ソフィアにバレないようにその様子を見ていた。
『もしかしたら‥‥‥長尾さんも彼女の手で‥‥‥』
山県先生の背筋に冷たいものが走るのを感じた。樋口ソフィアに何か得体の知れない者に憑りつかれているのではないかと。
樋口ソフィアの行動を止めようとも思ったが,その前に一条日向から手を離した事で安堵し,朝を迎えて一条日向に顛末を話してからどうするかを決めようと判断した。
それから山県先生はなかなか眠る事ができなかった。自分が樋口ソフィアに襲われる可能性とまた一条日向が被害に遭うかも知れないという心配からだった。
山県先生は一条日向に起こされた。いつの間にか眠ってしまったようだった。
樋口ソフィアは2人の間で寝息も立てずに死んだように眠っている。それは彼女の胸が上下運動しているのが見えたからでもあった。
2人は台所へ移動すると朝食の準備を始める。
そして山県先生は昨夜の自分の見た出来事を話した。
一条日向は最初驚いていたが,実は夢で自分が誰かに首を絞められた感覚を持ったらしい。
「ねえ,朋美‥‥‥だとしたら何でさっきあの娘は目を覚まさなかったのかしら‥‥‥」
一条日向は布団から出た時に寝ている樋口ソフィアの足に蹴り躓き転びそうになって彼女の寝ている布団にドンッと強く手を突いてしまった。
「まさか寝た振りをしていた‥‥‥」
2人は食事の準備を中断して寝所として使っていた表座敷に向かった。
しかしそこには先ほどと同じように樋口ソフィアが眠っていた。
「気にし過ぎだったのかな‥‥‥」
「そうかも‥‥‥」
2人は樋口ソフィアをそのまま寝かして,自分たちは朝食を摂ると長尾智恵を捜しに山の方へと向かった。
参道に入り,周囲の雑木林も隈なく捜索しながら登って行く。
しかし長尾智恵の姿は見えない。
山県先生は彼女がよもや御神体である山の中腹まで登って行ったとは思ってもいない。
それは致し方のない事だ。
長尾智恵は聖ウェヌス女学院で成績優秀,文武両道だと言ってもスポーツ系の部活動をしていた訳ではなく,何の準備もしないまま登山を敢行するとは考えもしなかった。
実際に長尾智恵は何かに導かれるまま山を登り切り御神体に到達している。
2人にはその導きはない。その差は大きかった。
捜索しながら登るというのは特に体力も必要だ。現時点で何の加護も受けていない2人にとって陽が沈むまでに捜索できた範囲はメインの参道沿いを本殿に至るまでの距離が精一杯だった。
「行ったようね。」
2人がお屋敷を出ると樋口ソフィアは起き上がり台所に行って,残されていた2人の朝ご飯を食べると門前町から出て行った。
彼女の目的はもはや山県先生と一条日向の救助ではない。春日結菜の救出のみだった。
春日結菜の作るスイーツ‥‥‥それさえあれば今の樋口ソフィアは幸せで食べられなくなるのを考えたくもなかった。
「ともかく春日さんが居たのは高崎という街の郊外にある廃城だった。だからそこを目指せばいいはず‥‥‥」
ここは自分が最初に着いた土地の神社だから山を下りて江戸の方に戻り,街道に出たらそこから行けると考えていた。
「よしっ!」
意気揚揚と歩き始めた樋口ソフィアだった。




