#071 多重人格
樋口ソフィアの中に居る誰かが人間如きに馬鹿にされたと怒り,江戸城内を破壊しまくっていた。
一発で総てを吹き飛ばす事も可能だがそれでは面白くない。
内堀,外堀に架かる橋を全部落とし,堀の中には溶岩を発生させて城内に居る人間を逃がさないようにしている。
そして見えた建物を丁寧に1つずつ塵も残さずに消滅させていく。
城内は阿鼻叫喚に包まれた。
強度のパニックに陥った者はもう助からないと溶岩の海に飛び込む。
正常性バイアスに罹った者は城内の凄惨な光景をただ眺めている。
それでも樋口ソフィアは手を緩める事なく建物を処分していく。
城内にあった屋敷,櫓,城壁,城門だけでなく草木すらも燃やし尽くし,生けとし生けるものはもう何も残っていない。
城内に居たはずの将軍ですら行方不明になっている。
城下ではその様子を見ていた武士や町民がいったい城で何が起きているのかも分からず,眺めているだけだった。
外堀端まで来て見物していた者が濛々と立ち昇る煙の中に人影を見付けて指を差す。それを見た周りの者もそれがいったい何なのかと騒ぎ始めた。
樋口ソフィアは騒ぎ立てる町民にイラッとした。もうこうなると無差別である。
高さ300メートルくらいまで跳び上がると両手を広げた。
掌を軽く広げて十指は力の限りに開く。
彼女はクルクルとゆっくり回転を始める。その回転速度がドンドンと増していき,そこには巨大な竜巻が出来て,その先端が地上に到達すると土煙を巻き上げる。
見物人たちはその様子を黙って見ていた。
竜巻の中でパッと光が解き放たれた。
光は南は品川,西は淀橋,北は千住,東は江戸川の地表まで届く。
光が着弾した場所は一瞬にして蒸発した。
蒸発を免れてもその余熱で周辺は燃え上がる。
さらに回転が加わっているためにその同心円上にあるものも例外なく全て蒸発していく。
その円は徐々にその範囲が城の方に向かって狭めていく。
その中に居る人間や動物,植物の総てに逃げ出す術はない。
死を覚悟する事なく消滅していく。まさに全滅である。
人間だけでも100万は居ると言われた街は10分もせずこの世から消えた。
樋口ソフィア自身はそれを黙って見ているしかなかった。
これは自分の中に居る誰かの仕業だが,それを仕出かしているのは自分の身体である。
でも不思議と罪悪感はない。
『凄い‥‥‥』
そうまるでパニック映画のリアル感のあるCGのワンシーンを視ている感覚。
その中で100万人の人生が露と消えている。彼女にはそんな感じがしない。
子供が遊びで蟻の巣を潰すのと同じものなのだ。
城を中心に直径20キロ近い範囲の建物が全て,光と熱と炎の中で失せて,その後には荒涼とした大地が露わとなった。
樋口ソフィアは紅葉山のあった場所に降り立つ。
そして中に居た誰かの意識が消えて,自分だけになる。
ヤルダバオトとソピアーに呼び掛けるが返事はない。
まるでここには彼らが居ないのではないかと感じた。
手元にはメダイの破片がある。
グッと強く握り締め掌が破片の角で内出血をしてしまう。
でも何の反応もない。
彼らに幾ら呼び掛けても交信できないのは彼らの意図したものなのか,それとも完全に断絶しているのか分からないが。
「今は春日結菜を捜しに行こう‥‥‥」
その一心で江戸の跡地を脱出する事にした。
何も無くなった荒野を真っ直ぐ歩く。
本当に何もない。砂漠のような土だけの表面を進む。
ここについさっきまでたくさんの人間が居て暮らしていたとは知らない人間が見たら思えない。
人骨の破片はおろか建物の残骸すら転がっていないのだから。
もう数キロ歩いてきただろうか‥‥‥
遠く地平の全てから煙が上がっているのが見えてきた。
さらに数キロ進むとそこは自分の打ち出した光線の着弾地点。
実際は自分ではなく自分の中に居る誰かなのだが‥‥‥それはどうでもいい。
直撃を免れたのが不幸だとしか思えない状況が広がっている。
可燃物という可燃物が燃え上がり,辺りは火の海に包まれている。
既に逃げられる者は避難を終えているのか周辺に生きている者は居ない。
街道上には熱波で火傷を負い動けなくなった者などが倒れて死に絶えている。
そして街中には気持ち悪くなるような臭いが風に乗って漂ってくる。
樋口ソフィアは持っていたハンカチで口と鼻を押さえ,胃から食道へとこみ上げて来るものを喉の奥で必死に抑えようとする。
耐えられなくなり早足でその宿場町を駆け抜けた。
暫く街道を進むと宿場町から逃げて行く人の列が連なっていた。
ある意味自分がやらかした事であるが,この光景もパニック映画のワンシーンにしか見えない。
心のどこかでは春日結菜を救ったらもうこの世界自体消滅させてもいいのでは‥‥‥などという気持ちが去来する。
それはこの国の歴史の事は半年間習った程度で詳しく知らないし,ましてやこの世界は自分が生まれてくる世界とは違うのだから破滅させたところで自分には何も関係ない。
それが自分の本心なのか,誰かに操られたものなのか‥‥‥
でもそんなのは些細な事だ。
またあの映画のようなワンシーンを見てみたい衝動に駆られている。
『面白いかも‥‥‥』
そう思った瞬間,自分の身体の中を何かが巡る。
手の先,足の先,末梢血管,末端神経,身体の隅々にまで至り,ものの数秒で駆け巡った。
樋口ソフィアの意識に別の意識が加わる。
そして,フワッと数メートルほど浮かび上がり,空中で停止した。
逃げる事に必死だった周囲に居た人々が足を止めて彼女を指差して見上げる。
樋口ソフィアが光の玉で覆われる。
その玉が次第に大きくなり,地表に達すると彼女を中心とした半球状になった。
気が付けば半球の直径は数百メートルになっており,遠く川向こうの宿場町からもその球体が確認できたという。
パンッ
そんな音がしたかは分からないが,何せ球体が弾けた瞬間,その中に居たであろう1000人規模の人間がその熱量に,中心付近に居た者は蒸発し,中心を離れる程に即死を免れ,怪我の程度は軽くなっていくが,それは単に苦痛の度合いと感じる時間が長くなるという反比例を生んでいた。
『何だあ‥‥‥』
彼女は特に何の感想もなく,高高度まで上がると春日結菜を捜すために飛び去って行った。
樋口ソフィアは雑木林の中に着地すると街道に戻り,次の宿場町に向かい歩いた。
街に入ると先ほど消滅させたの宿場町の方から聞こえた爆発音で大騒ぎになっていた。
そしてその方向から来た彼女を見て,何が起きたのかと尋ねて来る。
「私も音を聞いただけで何があったかは分からないんです。」
「そうですか‥‥‥」
ここで自分がやったと言っても信じてもらえないだろうし,面倒事に巻き込まれるのも嫌だったので誤魔化してやり過ごした。
特にこれと云った名物や名産品もなく,街も見て回るほどでもなかったので,宿場町を後にする事にした。
これが今までの宿場町のように意識に誰かが加わればこの街も消滅していただろうが。
一先ずこの街は難を逃れたというところだろう。
樋口ソフィアは街道を昼夜問わずに目的地高崎へと向かう。
3日後,神流川を渡り,高崎の領内に到達した。
江戸の街は既に消滅しているので,ここに樋口ソフィアが来訪するとの先触れは来ていないし,無論江戸の様子など知る者もいない。
彼女は城下町を抜けて廃城跡に急いだ。
「ここが話に聞いていた城址ね‥‥‥」
城跡を見上げる。自分が考えていたよりも大きく,この中に居るかもしれない春日結菜を捜すのは流石に骨が折れると感じた。
そしてこんな時こそ自分の中に居る誰かの力を借りて空へ飛び,上空から見れば簡単だと思い呼び掛けてみる。
しかしその誰かは彼女の呼び掛けに応じない。
「何で‥‥‥」
あれだけ勝手に出て来て自分の身体を使い,既に100万を超える人間の人生を壊してきたというのに‥‥‥自分が何かして欲しい時には出て来ない。
樋口ソフィアはその時違和感を覚えた。
「そもそもあれって自分ではない誰かだったのか‥‥‥大量殺戮をしたのが自分ではないと思いたくて別の人格を作っただけではないのか‥‥‥解離性同一性障害‥‥‥」
その可能性を考えた時,樋口ソフィアの中で何かが弾けた。
よく云われるのはジキル博士とハイド氏に代表されるように基本的には本人にとり堪えられない状況を自分の事ではないと感じさせ,解離性健忘症としてある時期の感情や記憶を切り離して思い出せなくし,心のダメージを回避させる。
だからお互いの人格がお互いの存在を知らないというのが症状としては多い。
しかし極稀に感情や記憶を切り離さないどころか共有してしまう事例もあるという。
でも今の樋口ソフィアのように別人格だとしても人間としての能力を超えた飛行術や殺傷力を有しているのは明らかにおかしい。
「だとしたら‥‥‥」
そして1つの結論に達する。
「実は私は本当に神なのではないか‥‥‥もしかするとそれを自覚すると超能力をはっきするのではないか‥‥‥」
ただ自分が神だと思うだけでは覚醒しなかった。何度も試したが無理だった。
何か切っ掛けのようなものが要るのか。
そう考えた時,異常なまでの感情の昂り‥‥‥この世界に来て能力を発揮した切っ掛けだった。
でもこの世に生を受けてからそんな感情の昂りなどを意識的に出す事が自分に有っただろうか。
「ない。」
断言できる。思い出してみても綺麗な風景を見て感動する。
そういう感情の昂りはあったが,それでも覚醒はしない。
数時間様々な方法を考えては実施してを繰り返したが徒労に終わった。
「仕方がない。私自身の手で捜しますか。」
到着した時には夕闇迫る黄昏時だったのが,もう深夜になっており.樋口ソフィアは諦めて城内に入る決意をした。
城内は真っ暗闇に包まれているが,暫く進むと城内で明りが点っている場所があるのを発見した。
その明りは10数メートルの半球体であり,彼女はそれが春日結菜なのだと感じた。
幾層にも複雑に敵の侵入を阻むように作られた通路に何度も迷わされたが,何とか明りのある場所に到達した。
明りの中心で膝を抱えて座っているのは見覚えがある‥‥‥確かに春日結菜だった。
樋口ソフィアは手を差し伸べるように前に出し,ゆっくり一歩一歩と近付いていく。
もう目の前に立っているというのに自分に一向に気付く気配もなく顔を埋めて動こうともしない。
彼女に触れようとするが,身体を摺り抜けてしまい直接触る事が出来ない。
「春日さん,春日さん,結菜さん!」
幾ら呼び掛けても反応がない。
まるで音声OFFになったテレビ画面に独り言を話し掛けているような感覚‥‥‥
「そうだ。これは映像なんだ。理由は分からないけれども春日さんは別の世界に居て偶々この世界のこの場所に映像が流れているだけなのでは‥‥‥」
だとしたら樋口ソフィアがその世界に居る理由もない。
彼女の居る世界へ向かえばいい。
しかしこの世界に於いて別の世界に渡る方法が分からない。
この世界に来るときはウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の扉があったが,この世界というかこの時代にはその礼拝堂が存在していない。
仮にあったとしても自分が吹き飛ばしてしまったはずだ。
「どうしよう。早く助けに行きたいのに‥‥‥」
何か方法はないのか。考えを巡らせるが何も思い浮かばない。
もう朝が近いのか‥‥‥東の空が白み始めた。
春日結菜の方に視線を戻すとそこには彼女はおろか包んでいた半球体の光も消えていた。
「そうか‥‥‥日没から日の出までしか見えないんだ‥‥‥」
今はとにかく彼女の居るだろう世界に渡る方法を探すしかない。
そして樋口ソフィアは春日結菜が読んだくれた本の内容を思い返す。
何かそこにヒントがあったのではないかと考えた。
「そうか‥‥‥富士山と浅間山‥‥‥」
自分の居た世界ではこの世紀に関東に近い2つの火山が噴火したと聞いた。
でも先日の将軍の話では1つの火山しか噴火していないと言っていた。
そして春日結菜は2つ目の火山噴火後の世界に来ているはずなのにここではその事象がない。
だと考えれば確かにここに春日結菜が実在しないのは当然だと言える。
「そうか‥‥‥最後の方に‥‥‥」
山県先生と一条日向は確実に現代の,自分たちの世界に戻っている‥‥‥はず。
そこに世界を渡る方法がある‥‥‥と思った。
でもそこにあったのはこの世界で使用できるものではなく,ましてや自分ひとりの力ではどうにもならないものだった。
「私はもう帰る事が出来ないの‥‥‥」
春日結菜を助ける事も出来ず,助ける事が出来ると過信した自分も違う世界から抜け出す事が出来ない。
そのショックは計り知れなかった。
あれから長尾智恵は山県先生と一条日向が置き去りにされているだろう場所に到着していた。
高崎で何の情報も収集が出来ずに落ち込んでいたが,自分の達成するべき使命のためならと翌日には気持ちを切り換えていた。
長尾智恵は相変わらず誰も存在しない世界を独り旅して来たが,目的地に着いて2人の痕跡を発見し,この世界に居る事を確信して喜び頬を緩めた。
しかし,彼女たちの気配がない。既にどこかに移動した後のようだった。
「本の中に何かヒントがあるかも‥‥‥」
2人は陣屋で情報を収集した後,山の方へと移動したのは分かったが,具体的な地名までは分からなかった。
「でもこの辺で山と云うと‥‥‥」
長尾智恵はジッと沈み行く太陽の方角を見やる。
そこには山間に姿を隠そうとしている太陽があり,草木のないごつごつとした岩肌を露わにする連山が紅く染まっていた。
「あそこかな‥‥‥」
彼女は行き違いになるのを恐れて,夜の街道を山の方へと歩き出した。
「どうせ,この世界には自分たち以外に生きている者は居なさそうだし‥‥‥野生動物に襲われたりなんて事もないだろう。それにこの世界に来てから疲れも感じなくなっているし‥‥‥」
そう。長尾智恵はこの世界に来てからもう100キロを超える距離を1週間ほどで歩いているが,小休止や宿泊もしているものの足が筋肉痛を訴える事もなく,疲れて爆睡した事もない。
まるで身体強化でもされたかのように‥‥‥
だったら2人の痕跡を見付けたのだから早々に捜し出して一緒に帰る事を考えよう。
そして2人を連れ帰ったら春日結菜の捜索もしようと心に決めた。
街道沿いに点々とある民家には一切灯りが点っていない。
改めて無人なのだと分からされる。
でも地上には灯りがなくとも天空には無数の星が瞬いている。
現代に於いて都会に居ればプラネタリウムくらいでしか見る事の出来ない綺麗な星空。
正面の空にはおとめ座のスピカが山蔭に隠れようとしており,真西にはうしかい座のアークトゥルスが強く輝き,てんびん座,へびつかい座,ヘラクレス座などの星座が彩りを加えている。
星空を眺めながら歩いているために少し足取りは遅い。
歩きながら不思議な感覚を覚えたがその正体は分からなかった。
でも時々立ち止まり,全天を見渡すと降り注いできそうな大迫力の星空に圧倒されて些細な事はどうでもよくなる。
「ママにも見せてあげたいな‥‥‥」
彼女の母親は高校時代に天文部に所属していて,その影響もあり星が好きだった。
そして彼女自身も天文部を作りたかった。
聖ウェヌス女学院高等部にも昔は天文部があったが随分前に廃部になり,彼女は色々と動いたが,結局部を作るための要件を満たせず諦める事になった。
自分を取り囲む無数の星を見るとまた天文部を作りたい願望が沸々と湧いて来ていた。




