#007 心機一転
チュン,チュン,チュン‥‥‥
ベランダの柵に留まりお互いを啄ばむ雀の囀りと窓のレースのカーテン越しにベッドに差し込む朝日の眩しさに樋口ソフィアは目を覚ました。
枕元の時計を確認すると表示は5時30分で,ここまではこの5日間と変わらない。昨日の寝るまでの記憶もしっかりとある。今日の支度も昨晩のうちに済ませてあるし,あとは何時もと同じように朝ご飯を食べて学校に向かうことにする。
今日も始業式なのは確かだろう。樋口ソフィア自身がそれを認めて,そうであって欲しいと思っているからだ。そして今日は試してみたい事が幾つかある。ひとつは今日話し掛けてくるであろう誰かと登校時だけでなく,始業式が終了して帰りも一緒できるかどうか。ひとつは昨日までに話し掛けてきた本庄真珠,水原光莉,千坂紅音の3人とも教室で話ができるかどうか。そしてその3人と一緒に下校できるかもやってみたい。
『‥‥‥どうせ夢の中なんだったら,私のやりたい事を好きなようにやったっていいじゃない‥‥‥』
そんな事を考えると今までとは違いテンションも高くなるし,妙に気持ちもソワソワしてくる。こんな高揚感は生まれてこの方感じた事のない初体験だ。今日は学校に行くのも楽しみで仕方なく,バスの座席に座りながら早く着かないかなと一人ウキウキしてしまっている。ふと窓の外に目線を送った時そこに写った自分のニヤニヤした横顔を見て我に返り,気持ちを落ち着けてそんないやらしい顔を抑えるが,前に向き直るとまたニヤついてしまっている。
「次は聖ウェヌス女学院前‥‥‥」
樋口ソフィアは待ち構えていた降車ボタンの上に添えた指に力を込めて押す。
バスは青信号に替わった交差点に入り走行していたが,樋口ソフィアは待ち切れずに座席から立ち上がり,降車扉の前に進もうとするが,その瞬間,バスの前に割り込んできたタクシーを避けるため強めのブレーキが踏まれて,思わず踉く。
「お客様,危ないので立ち上がるのは停車してからでお願いします。」
バスの運転手が注意するためにアナウンスをするが,樋口ソフィアは気持ちが高ぶりすぎていて,まるで耳に入っていない。もうソワソワし過ぎていて,扉が開いた途端,ターフを蹴り上げ,ゴールを目指し真っ先にゲートを飛び出す競走馬の逃げ馬如く駆け出しそうなくらい興奮した雰囲気だ。
「おはようございます!」
「はい,おはよう。」
聖ウェヌス女学院の正門を潜ったところには担任の山県先生が立っていた。樋口ソフィアの妙に高いテンションに山県先生は違和感を覚えたが,夏休みに何かいい事があったのだろう程度に思い,友だちも作ってくれて学校生活を楽しんでくれれば‥‥‥とスルーした。
濃緑の菩提樹の下をウキウキと歩く樋口ソフィア。その妙なテンションに周囲の生徒たち訝し気な目でチラ見しつつ若干距離を置いて遊歩道を進む。
「おはよう!ソフィアちゃん!」
「あっ!おはよう!」
後ろから駆けて来て声を掛けてきたのはいつも通り長尾智恵だった。
「あれっ?テンション高いね。何かいい事でもあったの?」
「うん,これからいい事があるの。それを考えるともう‥‥‥」
そう言葉を切り出した刹那,樋口ソフィアは背中をポンッと叩かれた。
「お・は・よッ!ソフィア!」
「おはよう!」
「おはよう,由里。」
「智恵もおはよう。」
樋口ソフィアに背後から挨拶してきたのは齋藤由里だった。樋口ソフィアの横に居た長尾智恵も齋藤由里に挨拶はしたものの一瞬何が起きたのか分からなかった。
「さあ,さあ,急ごうよ!ソフィア!」
「あっ,うん。そうだね。齋藤さん。」
そう言って齋藤由里は樋口ソフィアの制服の袖を掴み,長尾智恵を置き去りにして校舎へと続く小路へと急ぎ足で入って行く。長尾智恵は状況がまるで掴めず呆然と立ち尽くしている。
『由里,いったいどうしたんだろう?』
樋口ソフィアと齋藤由里が居なくなってどれくらいの時が経ったのだろう‥‥‥長尾智恵は思わず独り言を溢したが,その言葉でハッと我に返り,気持ちを切り替えようと首をブンブンと振り回す。
そんな長尾智恵らしくもない滑稽な様子を見て近づいて来たのは加地美鳥だった。
「おはよう,智恵?朝から大丈夫?」
「えっ?あっ!うん,大丈夫だよ,美鳥。おはよう!」
「後ろから見ていたら全然大丈夫に見えなかったけど‥‥‥」
「ああ,もう大丈夫だから‥‥‥」
「ならいいんだけどさ‥‥‥」
「さあ,私たちも急ごう!」
2人の会話を割くように校舎から予鈴のチャイムが鳴る。
『由里とは帰りに話しをすればいいかな‥‥‥それにソフィアちゃんのこれからのいい事って?』
樋口ソフィアのいい事という言葉がどうにも気になり教室に入ると長尾智恵は樋口ソフィアに話し掛けようとしたが,本庄真珠と水原光莉が絡んできた。さらに間髪入れず担任の山県先生も現れて教室移動をクラスの生徒全員に促した。仕方がないので委員長の長尾智恵はクラスメイトを廊下に並ばせてウェヌス・ウィクトリクス講堂に向かうように指示をする。気持ちを切り替えて始業式に向かった。
「ソフィアちゃん,夏休みはどうだった?私はね‥‥‥」
「休みは‥‥‥あまり出掛けなかったんだ‥‥‥」
「今度の休みは何処かに出掛けたいね。デートしよっ!」
「そうだね。どうせなら3人で行かない?」
講堂への移動のために2列縦隊で廊下を進む1年A組の生徒たち。先頭に担任の山県先生と委員長の長尾智恵の先導で引率しており,その後ろをほぼ出席番号順で並んでいるため,本庄真珠,水原光莉は真ん中から少し後ろの辺りで樋口ソフィアと談笑しながら歩いている。加地美鳥は背中でその会話の弾む様子に違和感を覚え,安田晶良は目の前で展開する異様な光景にその会話の渦に入る事が出来ずにいた。
ウェヌス・ウィクトリクス講堂での始業式が終わって,生徒たちは各自の教室に戻り,ホームルームが始まった。1年A組では担任の山県先生が席替えや新学期のカリキュラムの説明など諸々の伝達を淡々と進めていく。
「さっきの教室移動の時のあの様子を見てたら,真珠と光莉ってソフィアと何かあったのかな?」
「今朝の由里の様子もちょっとおかしかったし。まあ,仲が良くなるのは悪い事でないんだけどさあ‥‥‥」
席替えで隣の席になった安田晶良と加地美鳥は本庄真珠,水原光莉そして齋藤由里の急な変貌ぶりに驚愕し,お互いに情報を出し合って,こそこそと小声で話し合っていた。先生にばれたくないのもあったが,二人のすぐ前の席には樋口ソフィアもおり聴かれたくないのもあったからだった。しかし,樋口ソフィアの方はというと自分の後ろでそんな会話をしているとは露とも思わず,先ほどの本庄真珠,水原光莉との楽しかった会話を反芻して,頬を紅潮させ心ここにあらずの状態で先生の話も耳に入らず,ボーッと呆けていた。
「‥‥‥では,これでホームルームを終わります。委員長お願いします。」
「起立!礼!」
長尾智恵の合図でクラスメイトたちは立ち上がり,一礼する。
礼を直り,ホームルームが終わって生徒たちは帰りの準備を始める。
「智恵,ちょっと由里たちの事で話をしたいから私たちの部活動が終わるのを待っていてくれない?」
「うん,いいけど‥‥‥」
「じゃあ,1時間くらいで終わるから玄関ホールで待ち合わせしよう。」
「うん,いいよ。」
加地美鳥は安田晶良と一緒に長尾智恵の席に近づいて来て話し掛けてきた。長尾智恵は齋藤由里の事が気になっていたが,礼を直った後すぐに確認した時にはすでにその姿は居なくなっていた。
『美鳥たちと待ち合わせするなら由里とも一緒に帰る事ができるかな?そうすれば話もできるだろうし。』
齋藤由里は高等部体育館にある剣道場で稽古をしていた。通常のメニューは準備運動に始まり,素振り,足捌き,切り返し,打ち込みと進んで行くが,夏休みが明けた初日なので,準備運動の後に模擬試合をしようという事になっていた。
齋藤由里は怪我をしてからの久しぶりの実戦形式に心を高ぶらせ気が逸っていた。
私生活では足の支障はない状態であるが,競技で打ち込む際には居付いてしまい若干の怖さがあった。しかし,今日は根拠があるわけではないが打ち込みをやっても平気だと思える何かを直感していた。
齋藤由里の順番が来た。徐に立ち上がりラインの内側に入る。今日の試合相手は1つ上の先輩だった。試合相手とお互いに向かい合い一礼をする。気を静めつつ3歩で仕切り線の前に出る。竹刀を構えて蹲踞の姿勢で剣先を交える。
齋藤由里は今までこの先輩との対戦で負けた事はなかったが,実戦から離れていたためか勘が鈍っていないかと緊張をしている。でもこの緊張感が剣の道に戻って来たのを実感させてくれている事も分かっている。
開始の合図までの刹那をこれほど長く感じたのも初めてかもしれない。
「はじめっ!」
審判の合図とともに2人は立ち上がり,齋藤由里は一足一刀の間合いで懸待一致の隙のない正眼の構えで相手に臨む。中段に構えていた相手は気圧され,上段に構え直したところを捨て身で打ち込んできた。齋藤由里は摺り足で体を捌き,開き足で半身の態勢で横に摺り抜ける。
「うん,やれる!これなら足の心配もない。」
さっきの直感が確信に変わった。齋藤由里は八相に構え直し,先の先を取って相手の振り向いた瞬間を突いて,胴を狙う。その剣先はパーンッ!という反響音を残し,相手の防具を的確に打ち抜いて,齋藤由里は残心の構えで元に直った。
「一本っ!」
その合図で2人は仕切り線に戻り,蹲踞の姿勢になってから竹刀を納め,再び立ち上がり後ろに下がり一礼をして,退場した。一連の美しい所作に剣道部の部員たちは静まり返り見守っていたが,齋藤由里は周囲がそんな状態なのも我関せず道場内にある神棚の下に進み見上げた。
「もう怪我の不安はない。昇段審査に向けて頑張ろう。」
昨日までのあの不安感は一体何だったのだろうか。齎された心境の変化の理由を齋藤由里は理解できていないが,ともかくまた剣の道を邁進出来る嬉しさに勝るものはない。
同時刻 ――――― 同じく高等部体育館にある体操部の練習場では準備運動で柔軟をする高梨瑠璃の姿があった。ここ最近の彼女は急な身長の伸びや第二次性徴のせいで身体的にも精神的にもバランス感覚に崩れが出てきて,難度の高い技で精彩を欠くようになっていた。
小柄な選手が多い体操の世界で高梨瑠璃も例に漏れず中学3年生で140センチにも届かなかった。最近ではサプリなどを使って身長を年間で20センチも伸ばしたりする事もある。しかし,高梨瑠璃の場合は特別な事をやっていないにも関わらず150センチを超えてきてバストサイズも大きくなり,大人の女性らしさが滲み出るようになってきた。しかも成長は留まる事を知らず,まだまだ伸びている。
海外では女子でも170センチを超える選手もいるので問題はないが,それでも成長痛である膝の骨端症によって高梨瑠璃の得意とする床運動で着地における衝撃に耐えきれず着地姿勢を崩すようになっていた。次の大会に向けて新技の練習もしたいところだが何も出来ないもどかしさには辛いものがある。そのため,今は筋肉を付けて少しでもその衝撃を和らげられないかと四苦八苦しているところであった。そして,今日も高梨瑠璃はその痛みを感じつつも地道に練習に励んでいた。
今日の樋口ソフィアは今までの彼女とは違い非常に浮かれていた。それは朝の登校時に齋藤由里に話し掛けられた事,始業式前の教室移動の際に本庄真珠,水原光莉と談笑できた事が大きな要因だった。でも本庄真珠たちと一緒に帰ろうとまでは言えず,だからと言って諦めきれない気持ちからホームルームが終わった後,2人の部活動が終わるのを待って,高等部の校舎内を徘徊した後,誰も居なくなった教室に戻っていた。本当ならウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂に行ってお祈りをしてきてもいいのだが,彼女たちの部活動がいつ終わるのかも知らないため,彼女たちの行動の見える場所に居たかったというのが正直なところだった。
眼下にあるグラウンドでは本庄真珠の所属する陸上部の部員たちがグラウンドで走り込みをする姿が見えており,その向こうにある室内プールでは水原光莉の所属する水泳部が練習をしているのが朧気ながら眺めることができた。樋口ソフィアは早く2人の練習が終わらないかとソワソワしており,窓際からグラウンドと室内プールの2か所を確認できる席で立っては座り,座っては立ちを繰り返している。
「何だろう?今までこんな気持ち味わったことがない。友だちが居るってこんなにもウキウキするものなのかな。」
初めて味わう心地良さ‥‥‥目の敵にしてきたとも云える長尾智恵は毎日こんな気持ちでいたのか?その羨ましさに嫉妬をしていた樋口ソフィアは妙な優越感を覚えた。何せ長尾智恵からいつも一緒に居た2人を引き離したのだから‥‥‥
そんな高揚感もあり,「ヤッター!」と大きな声で叫んでみたい!抑えきれない衝動に駆られていた。
ホームルームが終わって1時間が経ち,既に長尾智恵は玄関ホールの下駄箱の前に来ていた。もちろん,加地美鳥,安田晶良と待ち合わせのためである。あわよくば齋藤由里を掴まえられればという気持ちもある。
「智恵!ごめんね。」
「美鳥,大丈夫だよ。」
「待たせちゃったよね。私が圧しちゃったもんだから。」
「別に気にしなくていいよ,晶良。」
「じゃあ,行こう。」
加地美鳥が促して3人並んで玄関ホールから外へと出て行く。高等部の敷地を抜けて,遊歩道に出ると安田晶良が口火を切った。
「講堂へ移動する時なんだけどね,真珠と光莉がソフィアと楽しそうにお喋りしていたんだよ。あまりに今まで考えられない光景だったからびっくりしちゃった。」
「私の並んでいたところにその声が聞こえてきたから驚いたよ。でもソフィアちゃんと仲良くするのは別に悪い事じゃないからそれはそれでいいと思うんだ。」
長尾智恵にもその声はかすかに聞こえていたから何を話しているのかは気になっていた。2人も詳しい内容までは聞いていなかったようだ。
「確かに。それに私は登校の時の由里の態度が気になって‥‥‥」
「美鳥,今朝何かあったの?」
「そうか晶良は知らなかったんだよね。由里がね,智恵を置き去りにしてソフィアちゃんと登校してたんだよね。」
安田晶良はさらに驚いたのか思わず手に持っていた鞄を落としてしまった。そしてしゃがみ込み鞄を拾いながら長尾智恵の顔を見上げるようにして切り出す。
「えっ?いくら何でもそれはないんじゃないの?どうなの,知恵。」
「それもそうなんだけど,ソフィアちゃんがね。「これからいい事がある」と言ってたんだよね。それが私はずっと気になっていて‥‥‥」
「いい事‥‥‥って?」
「私にもよく分からない。でもその時の意味深な顔が妙に気になるんだよね。」
そんな長尾智恵たちの様子を遊歩道の菩提樹の後ろから顔を出してじっと見つめる人影があった。
「あともう少しで‥‥‥次はあの娘にしよう‥‥‥」
そう呟くとその人影はスーッと菩提樹の陰へと吸い込まれて消えた。
聖ウェヌス女学院の正門前には交差点があり,横断歩道を渡った向こうの右手側には「聖ウェヌス女学院前」バス停がある。このバス停からは近くの2つの駅まで学バスと呼ばれる一般の路線バスより運賃を値引きされた路線が運行されている。だからこの路線バスを使って通学する生徒も多数いる。御多分に洩れず,長尾智恵をはじめ幼馴染たちも樋口ソフィアもこの路線バスを使って通学している。
正門前まで出てきた長尾智恵,加地美鳥,安田晶良の3人は交差点の横断歩道で信号が青になるのを待つ。長尾智恵はふとバス停で待っている乗客の中の姿を見て驚愕した。そこには樋口ソフィア,本庄真珠,水原光莉の3人が一緒にいたからだ。そして,樋口ソフィアは長尾智恵の視線に気が付いたのかあからさまに嘲笑した。
「えっ,バス停にいるの真珠と光莉だよね。一緒に居るのは‥‥‥ソフィアちゃん?」
加地美鳥もその光景に気が付き,驚きのあまり思わず口に出してしまっていた。
直ぐにでも追い掛けたい気持ちに駆られる長尾智恵たちだったが,既に停留所にはバスが到着しており,信号が変わるのを待つと明らかに間に合わないのは確実だった。ここは大人しく見送るしかない。
「でも,私ずっと玄関ホールに居たけどあの3人が通ったのは見なかった‥‥‥いつ外へ出たんだろう?」
校舎の玄関ホールに居れば,部活動や委員会にも入っていない樋口ソフィアは先に敷地外に出ている可能性もあり見掛けないにしても,部活動をしていた本庄真珠と水原光莉は玄関ホールを通らなければ高等部の敷地外に出ることは出来ない。待ち合わせの前まで長尾智恵は少なくともグラウンドで練習していた陸上部の部員たちが居たのを確認している。あまり意識していなかったためその中に本庄真珠が居たのか居なかったのかまでははっきり覚えていないのだが。
加地美鳥と安田晶良は声を上げて呼び掛けたが,周囲の音にかき消されているのか声は届いていないようで本庄真珠と水原光莉は無反応のまま路線バスに乗り込んでしまった。。
「真珠と光莉が乗ったのっていつも乗るバスじゃないよね?」
「確かにそうだね。あれだと帰るのに遠回りになるはずだよ。」
「3人でどこかに寄り道するのかな?」
長尾智恵,加地美鳥,安田晶良は先ほどまで仲良くするのは別に構わないという気持ちだったが,あまりの不自然さに心にモヤモヤしたものがあって,気まずい雰囲気に3人とも路線バスに乗り込んでも何を話していいのか分からずに口を噤んでしまった。




