#063 存在意義
松田院長は目を覚ました。瞼を開けるとそこはまだ眠る前の石室の中だった。
明り取りの小窓から差し込む陽光は眠る前とは変わらない感じだった。
しかしもう動じる事もない。開き直りの境地にいるのだから。
あれから何週間が過ぎたのだろうか。いや数か月かも知れないし,数年かも知れない。
相変わらず喉の渇きも,空腹も,鏡がないから分からないが老化もないだろう。
新陳代謝が,そして生命活動すら停止しているのではないかと疑いたくなる。
彼女は左胸に手を当ててみる。心音を感じる事は出来る。
そして自分はまだ生きているのだと実感する。
でももう自分の力ではこの石室から脱出する方法はない。
可能性は低いが外から誰かに助けてもらうしかないのだと。
いや,そもそも外がどうなっているのか,天井に近いあの明り取りの小窓を覗けたら分かるのかもしれないが,それは土台無理な話である。
ベッドは床に固定されていてビクともしなかった。動かそうなんて考えていたのが間違いだった。
そしてベッドの敷板の上で寝るのにも慣れてしまった。
最初は背中に痛みを感じていたが寝方を工夫すれば,それも心地良さになっている。
松田院長は慣れとは恐いものだと感じていたが,そんな思考すらするのも面倒になっていた。
この部屋に監禁されて直ぐには退屈が嫌だったが,それすらも受け入れている。
まるで植物のようでもあった。
いや植物だって根を生やしたその場から動けなくても成長はするし,老化だってある。
だとしたらここに居る松田院長の存在とはいったい何なのか‥‥‥
誰かに助けて欲しいが彼女がここに閉じ込められている等と誰か知る事が出来るのか‥‥‥
もしかしたら舌を噛めば死ぬ事が出来るのかもしれない。
でも試そうなんて勇気は生憎持ち合わせていない。
『死ぬのは恐い‥‥‥』
永遠に死ぬ事も出来ず,ここに閉じ込められ続けると考えると気が狂いそうになる。
『だからこそ余計な事を考えずに‥‥‥』
いや考えるという唯一人間に神から与えられたであろう行為そのものをを放棄した。
『仮に助けられたとして‥‥‥』
元の世界に戻れた時,それは自分の生きていた時代なのか?
『その保証はない‥‥‥』
でも希望だけは捨てずに,ただただ生存を保証されたこの空間で生き長らえる。
そして松田院長はまたベッドに横たわり眠りに就く。
それをただ只管繰り返すのみだった。
春日結菜は敢えて長尾智恵と樋口ソフィアそれぞれに招待状を出した。
2人の仲を取り持とうとカフェテリアでアフタヌーンティーパーティーを開催する事にしたからだった。
彼女は楽しそうに厨房に籠ってスイーツ作りに勤しんだ。
その日,長尾智恵と樋口ソフィアは別々に100周年記念館で朝食を食べ,別々に図書館に行き,別々に調べものをしていた。
お互いが午後からのティーパーティーに招待されているとも知らずに。
『ティーパーティーだから読みたい本を持ち込んで優雅に紅茶を愉しむのもありだよね。』
2人はそう考えて図書館の中を読みたい本を探していた。
長尾智恵は童話や伝奇の集められた書棚で妙に魅かれる本を見付けた。
彼女はタイトルや著者には見覚えはない。
しかし物凄く読んでみたい衝動に駆られる。
こんな事は完全閉架図書のコーナーで見掛けたあの赤い背表紙の本以来だと感じた。
今ここで読んでみたいと思いもしたが,そこはやはりお茶をしながらにしようと我慢をして借りていく事にした。
時を同じくして‥‥‥
樋口ソフィアは人文や歴史の集められた書棚で凄く魅かれる本を見付けた。
彼女もタイトルや著者に見覚えはなかった。
しかし物凄く読んでみたい衝動に駆られる。
今までたくさんの本を読んできたが,手に取ったらまるで電気が走るかのように痺れた。
こんな出会い方をした本は初めてだった。
今ここで読んでみたいと思いもしたが,そこはやはりお茶をしながらにしようと我慢をして借りていく事にした。
『面白そうな本を見付けられて良かった‥‥‥』
カフェテリアの指定されたテーブルにはまだ何も用意はされていなかった。
そこに春日結菜が店内からサービスワゴンを押して現れる。
テーブル中央にスイーツスタンドを置くと手際よくスコーンやマカロン,クッキーなどを彩りを考えて並べていく。
そうしていると遊歩道を図書館の方から長尾智恵が現れた。
脇に本を抱えて楽しそうに颯爽と歩いてくる様はまるでモデルのようでもあった。
「春日さんですよね。この度は御招待頂きましてありがとうございます。」
両手でスカートの裾をつまみ軽く持ち上げ,腰を曲げて頭を深々と下げた見事なコーテシーで挨拶をする。
「これは,これは。ありがとうございます。こちらにお座りください。」
春日結菜は椅子から立ち上がると会釈を返して,長尾智恵に椅子を指し示して案内する。
春日結菜が椅子を引くと長尾智恵は腰を下ろす。
「まだどなたか来られるのですか?」
「ええ。」
長尾智恵は余った1つの椅子を見て尋ねる。それに対して春日結菜はにっこりと微笑む。
長尾智恵はその席に誰が来るのか凡そ分かっていた。
こちらの世界に今居るのは限られているからだった。
ふと2人は視線を遊歩道の向けると樋口ソフィアが歩いてくる。
そしてカフェテリアに入って来ると春日結菜を見付けて近づいてきた。
「やっぱり‥‥‥」
「何で‥‥‥」
長尾智恵は先日の一件があるので少し嫌そうな表情を浮かべる。
樋口ソフィアは春日結菜と2人きりだろうと考えていたので驚いていた。
「さあ,樋口さんもお座りになって。」
樋口ソフィアはまた春日結菜のオペラが食べられるだろうと思い,勧められた椅子に腰掛ける。
春日結菜は席を立つと一旦店内に戻り,ケーキの準備をしている。
長尾智恵と樋口ソフィアは気まずそうに会話は疎か視線も合わせようとはしない。
でもせっかくの招待を自分たちの問題で勝手に席を立てる訳もなく押し黙っていた。
そんな雰囲気の中,春日結菜は3人でも食べきれないのではという大量のケーキをサービスワゴンで運んできた。
それでも長尾智恵と樋口ソフィアは目をキラキラとさせて早く食べたいと胸を躍らさせている。
「早く食べたいです!」
樋口ソフィアは待ち切れずに手を出そうとするが,春日結菜がそれを止める。
「その前にお2人はすべき事があるでしょう?」
春日結菜の言葉に長尾智恵と樋口ソフィアは視線を合わせて見合う。
「そうじゃないとこのお茶会は解散です。もう私のスイーツも食べられなくなりますよ。」
樋口ソフィアは春日結菜のスイーツが金輪際食べられないと聞いて焦り,ガタッと椅子から立ち上がると長尾智恵に向いて深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。」
「ううん,私の方こそ‥‥‥」
長尾智恵が仲直りの握手とばかりに手を差し出す。
その手を視界に捉えた樋口ソフィアもおずおずと手を差し出して,長尾智恵の手を握る。
樋口ソフィアはこうやって他人の手を握ったのは何時振りだろうかと感じた。
そして握った手の温もりに安心感すら覚えていた。
「これで仲直りですね。ではお茶会を始めましょうか。」
春日結菜は手際よく紅茶を淹れてカップを並べていく。
そこからは3人で和気藹々とした雰囲気で楽しくお喋りを楽しみテーブルに置かれたスイーツはどんどんと減っていった。
「そういえば,2人が持っているその本は何ですか?」
「図書館で物凄く気になったので借りて来たんです。」
「私も同じです。」
「どんな本なのですか?」
「タイトルや著者も見覚えがないので内容までは分からないのですが‥‥‥」
長尾智恵は自分の借りて来た本を開いてみる。
「童話や伝奇だと思うのですが‥‥‥」
巻頭のあらすじに書いてある人物名を見て唖然とした。
「松田聖美‥‥‥」
「それって聖ウェヌス女学院総合病院の院長先生では‥‥‥」
「院長先生の伝奇ですか?」
この本自体の初版の出版時期は1960年代前半となっている。
だとしたら馬場学長と同級生だった彼女はまだ生まれていないはず。
生まれる前に伝奇が出ているなんておかしい。
ただの同姓同名の人間のものかとも思ったが,巻末の後書きにはこの松田聖美なる人物の経歴として聖ウェヌス女学院総合病院の院長だと名乗っているとある。
彼女にいったい何が起きたというのか?状況が掴み切れない。
「どういう事でしょうか?」
「よく分かりませんね。それで樋口さんの本の方は?」
樋口ソフィアも自分の借りて来た本を開いてみる。
「私の借りたのは歴史の本なのですが‥‥‥えっ?」
巻頭の目次にある人物名を見て呆然とした。
「山県朋美‥‥‥一条日向‥‥‥先生と先生の同級生‥‥‥」
「どういう事ですか?歴史の本なのですよね?」
「はい。そのはずです。訳が分からないですね。頭が混乱しそうです。」
春日結菜は樋口ソフィアから本を受け取ると色々と調べてみる。
この本の初版は1980年代だが,話の元になっているのは1700年代の実際にあったと云われる逸話だという。
「1700年代にあの2人がタイムスリップをしたと?」
「その可能性はありますが‥‥‥」
春日結菜はその歴史書を読み進めて行く。長尾智恵と樋口ソフィアはそれに耳を傾ける。
事実だとするとあまりにも残酷な描写の連続に3人は眉を顰める。
正直,江戸時代の中期は大地震や火山噴火などが立て続けに起きて大飢饉が発生したという話は学生の2人は授業で聞いていた。しかし具体的に何が起きたとかは良く知らなかったために春日結菜が読み進めるほどに吐き気を催してくる。
スイーツを食べ過ぎていたのも影響したと言える。
その様子を見た春日結菜は本を読み上げるのを止めた。
「少し休憩にしますか。」
すっかりティーポットが空になっていたので春日結菜は店内に戻り紅茶を淹れ直す事にした。
「それにしても‥‥‥」
樋口ソフィアがポツリと漏らす。
知らなかったとはいえ,こんな内容の本だとは思いにも寄らなかった。
そして長尾智恵の借りて来た本に視線を向ける。
長尾智恵もそれが分かり手に取るとこの本をどうしたらいいものか正直迷っている。
「これも読んでみる?」
「そうだよね。そっちの本にも少なからず知っている人が載っている訳だし‥‥‥」
「でも春日さんが戻って来てからにしよ?」
「そうだね。」
その会話を最後に沈黙がカフェテリアを支配する。
長尾智恵も樋口ソフィアも黙っていてもお互いに何を考えているのかが手に取るように分かるようになった感じがする。
その理由は彼女たちの魂の中にソピアーの分霊体があり,それが握手した事による直接触れ合った影響だとは2人は知らない。
それでも心を通じ合えた感覚に安心感が湧き起こり,今までの同族嫌悪から来る蟠りがなくなり,顔を見て笑い合えるようになっていた。
春日結菜がサービスワゴンを押して戻って来た時,向き合って座る長尾智恵と樋口ソフィアの表情を見て2人の間に何があったかは分からなくても高坂先生の心配していた確執がなくなっていたのを理解した。
「お待たせ。もう少しお茶会を続けましょうか。」
「はい!」
馬場学長は目を覚ました。
どうも鎮静剤の偶発症で血圧が下がり,強い眠気にも襲われていたようだった。
彼女自身,何で眠っていたのかが分からなかったが,次第に意識の状態が正常になり,眠りに就く前に自分が取り乱した事を思い出し恥ずかしくなった。
病室に来ていた巡回看護師が馬場学長の意識覚醒に気が付き担当医師に連絡する。
「大丈夫ですか?」
「はい。かなり取り乱したようですみませんでした。」
「いえ,仕方のない事ですよ。もう血圧,脈拍も正常ですし,明日には退院出来ますね。」
馬場学長は診察が終わるとまた意識を手放した。
今度は薬の副作用や偶発症ではなく,自分の意志による睡眠の欲求として。
ここ1週間ほどは極度の緊張状態に置かれてまともな睡眠も取れてはいなかった。
あっという間に夢も見れないほどの深い睡眠に落ちる。
しかしその深睡眠の中で彼女の深層意識に何者かが訴えかけてくる感じを受けた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「いったい‥‥‥誰‥‥‥?」
何を言っているのかは認識できないが人間の声だと認識は出来た。
「‥‥‥て‥‥‥げて‥‥‥あげて‥‥‥」
殆んど何を言っているのかは分からないままその声は聞こえなくなってしまった。
でも馬場学長はその声に懐かしいものを感じた。
「誰だろう‥‥‥絶対に私はあの声の主を知っている。」
声をリフレインさせて過去の記憶から声の持ち主を身近な者から捜そうとする。
両親,兄弟姉妹,祖父母,叔父叔母,従兄弟に至る親族親戚‥‥‥
松田院長,北条美織などの幼馴染や友人‥‥‥
高坂先生,山県先生などの教職員関係者‥‥‥
長尾智恵,樋口ソフィアなどの学院生徒‥‥‥
思い当たる声が見つからない。でも明らかに聞き覚えはある。
だから自分に近い人物であるのは確実。
彼女はさらに自分の記憶領域の深い部分に潜り込んでいく。
「そうだ‥‥‥梶原学長だ‥‥‥」
馬場学長は声の主を思い出した。
でも梶原学長は既に10年ほど前に亡くなっている。
何故そんな梶原学長の声が聞こえたのか?不思議でならない。
それにここはあくまでも現実の世界。
ヤハウェとヤルダバオトにより創造された世界ではない。
自分の意識が作った幻聴だとは思えない。
何を言っていたのかは分からないが,その声は本物だった‥‥‥はずだと思う。
でも何を「あげて」だったのか?それ以前に誰に?何を?あげるのか‥‥‥
主語がない上,自分が何をすればいいのかまるっきり分からないが,かなり切羽詰まっているのだろうと思った。
「でも今,私のするべき事は身体を休めて回復を急ぐ事‥‥‥」
「梶原先生‥‥‥すみません‥‥‥」
馬場学長は自分には何も出来ないと自覚すると意識を手放し,さらに深い睡眠へと誘われる。
「‥‥‥眠ってはダメ‥‥‥お願い‥‥‥私の声を‥‥‥聞いて‥‥‥」
必死に馬場学長に声は訴えかけてくるが,馬場学長がその声に応える事はなかった。




