#045 一場春夢
「紅音?‥‥‥紅音だよね?」
「うん。」
「よかった。私,どうしたらいいのか分からなくて。」
「何があったの?」
「気が付いたらここに居て‥‥‥」
「記憶がないって事?」
「みんな高校生くらいになっているし,私も昔の制服を着ているし‥‥‥」
「昔の制服って‥‥‥?」
「紅音,何言っているの?貴女だって着ているじゃない。いい大人なのに。」
「えっ?」
千坂紅音は驚いた。この長尾智恵は自分が高校1年生なのにそうではないと思い込んでいる。
それは長尾智恵自身が千坂紅音も含めて既に高校はおろか大学も卒業した社会人であると考えていて発言しているのだと感じた。
でもそれは仕方のない事かも知れない。
今の千坂紅音は15歳には見えない身体をしているのだから。
「もしかして‥‥‥智恵って,今何歳?」
「何を言っているのよ,紅音。同じ歳なんだから訊かないでよ。」
「それでも答えて。」
千坂紅音は長尾智恵に答えを求める。
「もう,24歳でしょ。」
千坂紅音と長尾智恵は1か月しか誕生日が変わらないからほぼ一緒と考えていいのだろう。
「でもね‥‥‥私は15歳だよ。」
「えっ?嘘でしょ?だって15歳の時の紅音はそんなに身長もバストもなかったはずだよ。」
「うん。そうだけど‥‥‥」
「そういう冗談は止めてよ,もう。びっくりするじゃない。」
長尾智恵は千坂紅音が15歳だとは思っていない。誤解を解かないと‥‥‥思った。
不意を突いて長尾智恵は千坂紅音を抱いてきた。
「この感触はこの前みんなで旅行に行った時に温泉でじゃれ合って抱き着いた時と同じだよ。」
千坂紅音は自分が24歳だと信じている長尾智恵に何を言っても無駄なんだろうと感じ始めた。
ならば未来の自分の事を聴くのも悪くはないとも思い始めていた。
「智恵って,今は何しているの?私さ,ちょっと記憶が混乱していて思い出せないんだよね。」
「病気?それとも怪我でもしたの?大丈夫なの?」
「もう大丈夫だよ。一時的な記憶喪失みたいなものだから。」
千坂紅音は自分がこんな出鱈目な発言をポイポイと口からよく出せるものだと思っていた。
でも現実の世界では交通事故に遭い,今昏睡状態で眠っているなんて事は知る由もないのだが。
「そうなんだ‥‥‥だって温泉旅行から帰ったら直ぐにまた海外に行くって言っていたから何で日本に居るんだろうって思っていた。」
『私が海外?』
千坂紅音は一瞬どういう事なのか状況が分からなくなっていた。
「高校を卒業してからもドイツに留学したり,オーストリアに居たりで全然会えなかったしさ。」
「それって‥‥‥もしかして‥‥‥」
「その記憶も曖昧なんだね。国際的なコンクールで優勝して海外でも活躍できる音楽家になったんじゃないのよ。私たち幼馴染の中では一番の出世頭だよ。」
千坂紅音は長尾智恵の言葉に言葉を詰まらせた。驚きと嬉しさが半々だった。
未来の自分は現在の自分でも夢にも思っていなかった現実を手に入れていた。
今,音楽部に居るのはあくまでも趣味の延長であり,中等部で何か部活をやらなければいけないと考えた時に選んだだけだった。
確かに今の音楽部の中ではトップの演奏者であるのは確かだし,地方のコンクールでも受賞できる実力はある。
でもその程度の実力で音楽で食べて生けるとは思っても居なかった。
だからこその趣味のはずだった。
「私はさ,こうやって母校で教員資格を取得して,ようやく教師として一歩を踏み出したばかりだけどね‥‥‥」
長尾智恵は照れるように笑う。そこには嫉妬や羨望とかはない。
あくまでも友人の出世を喜び,活躍を願っている姿があるだけだった。
「‥‥‥紅音!‥‥‥紅音!どこに居るの?」
廊下から千坂紅音を呼ぶ叫び声が響いた。
千坂紅音は扉に向かい,開け放つ。
「ここだよ!美鳥!」
廊下の向こう用務室の前に居る加地美鳥を呼ぶ。
「智恵,居たよ!」
「本当?」
「早く!」
廊下を駆けてくる加地美鳥に千坂紅音は手を振る。
加地美鳥が千坂紅音の居る部屋に滑り込んで来て,千坂紅音も部屋の中に視線を戻した。
でもそこには長尾智恵の姿はなかった。
長尾智恵が廊下に出れば,加地美鳥が見ていただろうし,外に出ようにも総ての窓には鍵が掛かっている。
それでも長尾智恵の姿は風に吹かれた煙のように消えていた。
千坂紅音は自分も幻を見ていたのかもしれないと思った。
そして未来の事は自分の心の奥底にある願望を長尾智恵が口にしただけなのかもしれない。
ここで何か言えばさっきのように口論になるのかもしれない。
そう考えるとさっき見た事を話すべきではない‥‥‥と感じていた。
「ねえ,紅音。聞いて欲しい事があるんだけど,いい?」
「いいけど。何?」
「聞いてもさっきみたいに否定しないのなら話すけど‥‥‥」
だとすれば,加地美鳥が話したい事はさっき見たという少女の事だろうと思った。
自分も大人の長尾智恵を見てしまった以上,否定できるはずもない。
「うん。今度はちゃんと聞く。」
「分かった。あのね‥‥‥」
加地美鳥は千坂紅音と別れて用務員室に入り長尾智恵を捜した事を‥‥‥
そこで自分には産まれてくる事の出来なかった双子の妹が居て出会った事を‥‥‥
その妹に思いの丈をぶつけられて,最後に彼女に千鳥という名前を付けた事を‥‥‥
千坂紅音に立て板に水が流れるように語った。
「そんな事があったんだ‥‥‥」
「うん。」
千坂紅音の瞳には自然と涙が溢れ,頬を伝い床に流れ落ちていた。
加地美鳥は先ほどと違い黙って話を聞いてくれただけでなく,自分の話を信じてくれて涙まで流してくれた事が嬉しかった。
「実はね‥‥‥」
そして千坂紅音は涙を拭うと言葉を切り出した。
自分が加地美鳥がこの部屋に来るまでに体験した事を‥‥‥
「紅音も‥‥‥なんだ。」
「うん。」
加地美鳥とは違い暗い過去の話ではない。明るい希望の持てる未来の話。相反する体験。
それでも2人は自分たちの体験した事が現実であるとお互いを認めあった。
他の誰かがその体験談を否定したとしても2人は信じあえる。そんな関係を築けた。
「うむ。なかなかいい傾向だな。」
本庄真珠,水原光莉,高梨瑠璃,齋藤由里,安田晶良の運動部5人は秋山先生を取り囲んで事情を聴いた後,話し合いをしていた。
「ねえ,これからどうする?」
「やっぱり智恵を捜すしかないでしょ。」
「先生たちに任せておけないもんね。」
「そうだよね。」
「5人で一緒に居てもあれだから3人と2人に分かれて捜さない?」
本庄真珠の提案で5人は本庄真珠と高梨瑠璃と齋藤由里,水原光莉と安田晶良の2班に分かれた。
「じゃあ,捜しに行こう。それと何か情報があったら直ぐにグループチャットにね。」
「了解!」
本庄真珠の班は体育館を出て高等部の校舎へ向かった。水原光莉の班はグラウンドに出て,高等部の敷地を捜す事にした。
「取り敢えず1階からね。」
本庄真珠を先頭にして校舎の1階フロアの部屋という部屋を捜し回っていた。
「1階はここで最後だね。」
部屋の扉を開けるとそこには1人の制服を着た女性が窓際に立っていた。
3人はその後ろ姿を見て,いったい誰だろう?と思い,お互いの顔を見合わせる。
「そこに居るのは誰?」
本庄真珠が声を掛けるとその女性はゆっくりと振り向く。
「もしかして真珠?それに瑠璃と由里?‥‥‥いや,そんな事はないわよね。ごめんなさい。」
3人はその女性が誰かまだ分からないが,自分たちの名前を言い当てた事に驚き,それなのに何故謝ってきたのか?まるで理解できない事ばかりだった。
「いえ‥‥‥私は真珠ですし,2人の名前も合っていますが,それより貴女はいったい誰なんですか?」
「私‥‥‥私の名前?」
「はい。答えてもらえますか?」
「私は‥‥‥」
長くて短い沈黙の時が部屋を支配する。
「誰だろう?それに何で制服なんて着ているのかしら。」
本庄真珠たちはその女性の発言に戸惑ってしまった。
「分からないのですか?」
「思い出せない‥‥‥」
本庄真珠は彼女が一時的な記憶喪失に陥っているのでは‥‥‥と確信した。
「何か身元の分かるものは持っていませんか?」
その女性は制服のポケットに何か入っていないかと弄る。
「これ‥‥‥」
その手に持っていたのは聖ウェヌス女学院の教職員用IDカードだった。
その女性は名前を見て呆然としていた。
「長尾‥‥‥智恵‥‥‥」
「えっ?」
本庄真珠たちは女性の発した名前を聞いて驚愕する。
「長尾智恵?」
本庄真珠はその女性に近づきIDカードを奪うように取り上げると写真と名前を確認する。
写真は確かに目の前に女性そのものでIDカードには間違えるべくもなく長尾智恵の名前が刻まれている。
高梨瑠璃と齋藤由里も近づいて来てIDカードを覗き込み,女性の顔と見比べる。
「智恵?知恵なの?」
「分からない‥‥‥」
「でもこれを見るかぎり智恵だよね。」
「うん。まさか光莉や紅音みたいに大人に成長してしまったのかな?」
「その可能性はあるかもしれないけど‥‥‥どうなんだろう?」
「あの2人が居れば確認できるかもしれないけど‥‥‥私たちじゃ無理か‥‥‥」
本庄真珠たちはその女性の覚えている事や思い出せそうな事を質問していった。
はっきりしたのは,
その女性は名前が長尾智恵で聖ウェヌス女学院高等部で教員をしている事‥‥‥
本庄真珠たちの顔に見覚えがあり,名前も知っているが,彼女の知る本庄真珠たちからすると子供だという事‥‥‥
そして,話をしていくうちに徐々に彼女の記憶が戻り始めた。
彼女は職員室に居て事務作業をしていたが,一旦休憩しようと窓際に立って窓を開けようと手を掛けた刹那,パッと光に覆われて気が付いたらこの空き部屋に居たらしい。
名前も長尾智恵だという事を思い出し,今は24歳だという。
「私たちより約10歳上という事?」
「そういう事になるよね‥‥‥」
本庄真珠たちはその長尾智恵を見つめる。
「どうかしました?」
「いえ,何でも‥‥‥」
本庄真珠たちはこの長尾智恵は水原光莉や千坂紅音のように身体だけが大人になったのではないと理解した。
あり得ない事象だが過去にタイムリープしてきたと考えるしかないと思ったのだった。
「貴女たちが私の知る真珠たちではなく,高校生だというのなら私はタイムスリップしてきたという事なのかしら?そして一時的に記憶を失った‥‥‥」
長尾智恵は目の前に居る少女たちが自分が10年前に一緒に聖ウェヌス女学院に通っていた時の少女なんだと肌に感じた。
だからこそ失われていた記憶を取り戻し,自分の置かれている立場というものを認識し始めたのだろうと思った。
そして本庄真珠は目の前に居る長尾智恵は自分たちが捜している長尾智恵ではないと分かった時点で彼女に対しての興味も失っていた。
今やるべき事は同じ時代を生きている長尾智恵を捜す事なのだと。
「すみません。今ちょっと捜さなきゃいけないものがあって急いでいるので,ここで失礼します。」
本庄真珠はそう言うと高梨瑠璃と齋藤由里の手を引き,部屋の外に出た。
「もう少し色々と話を聴いてもよかったんじゃないの?」
廊下に出たところで齋藤由里は切り出した。
「あの人は智恵かも知れないけど,私たちの知っている智恵じゃない。今捜すべきなのは私たちとともに生きている智恵だよ。」
「でも‥‥‥」
齋藤由里は少し残念に思っていた。
それは彼女が未来から来たのなら自分の未来も知っているという事だ。
未来視‥‥‥超能力と呼ばれるものがあれば,それは齋藤由里が一番欲しいもの。
実際には違うものだが,それでも未来を垣間見る事が出来るのは好奇心を擽ってくる。
特に高校生から大学生,そして社会人という人生に於いて一番の充実期であり,激動の時代でもある部分を知る事が出来れば,自分が何を為すべきかも分かるからだ。
『やっぱり諦めきれない‥‥‥』
齋藤由里は本庄真珠の腕を振り解く。
「どうするつもり?」
「私はあの人からもっと話を聴きたい。これから10年を知る事が出来るんだよ。だから智恵は2人で捜して。」
「何を言っているか分かっているの?あの人は必ずしも私たちがこれから進む未来を知っているとは限らないのよ。」
「それでも私は訊いてみたい。」
「これだけ言っても分からないの?」
「分からないよ。真珠の言う通りかもしれないけど,違うかもしれないじゃない。」
「だったら好きにすれば!」
「うん!好きにするよ!」
齋藤由里は踵を返して長尾智恵の居る部屋へと入って行った。
高梨瑠璃は2人の遣り取りを呆然と見守るしかなかった。
「さあ,由里は放っておいて智恵を捜すよ。」
「う,うん。」
高梨瑠璃は頷いたが,若干後悔もしていた。
自分も訊けるものなら自分の未来を聴いてみたい気がしていた。
「ほう。こういう展開を見せるのか‥‥‥これは想定外だな。」




