#041 揣摩臆測
ヤルダバオトは顕現した自分の眷属を呼び出した。
ベルフェゴール,アスモデウス,そしてサタン。
ヤルダバオトが自ら創造した箱庭にはヴェルサイユにマリーアントワネットのために造成された庭園を模した風景が広がっており,その真ん中にはテンプル・ダムールのような四阿。
四阿の中央には光沢のあるパールーホワイトの一本足の丸いティーテーブルが配置され,アイボリーホワイトに上質での淡い色使いの張地のダイニングチェアが4脚囲んでいる。
テーブルの中央には3段のケーキスタンドが立ち,沢山のチョコチップを纏ったスコーンやマーマレードジャムが掛かったマフィン,アーモンドスライスを載せたブラウニーなど様々なスイーツが彩りを加えている。
そしてホスト席の横にはサービスワゴンがあり,純白の陶器のティーポットとティーカップが並んでいた。
「今日の嗜好はアフタヌーンティーパーティーですか。それなら‥‥‥」
筋肉隆々の男性体であったサタンは霧を纏うと銀髪の見目麗しい女性体に変化した。
「この方が愉しめそうですしね。」
それを見たベルフェゴールとアスモデウスも同じように女性体に変化する。
「少しは人間世界の嗜みというものを学んできたようだな。」
そう言うとヤルダバオトも女性体に変化する。
「では‥‥‥アフタヌーンティーパーティーを愉しむ事にしましょうか。」
「はい。」
ホストのヤルダバオトが紅茶を淹れると3人はそれぞれ好みのスイーツを皿に取っていく。
和気藹々とした雰囲気の中,午後の紅茶を愉しむ4人。
「そういえば他の4人の顕現はまだなのでしょうか。」
サタンは澱みのない優雅な所作でティーカップを口に運び,一口浸けるとヤルダバオトに訊いた。
「そうですね。ルシファー,マモン,ベルゼブブはもう顕現できるでしょう。まあ,ここに暴食のベルゼブブが居たらこんな悠長にティータイムはできないでしょうけど。」
「そうかもしれませんが,そのお言葉を彼女が聞いたら悲しむと思いますよ。」
「そうでしたね。失礼しました。」
「やはりレヴィアタンの顕現にはまだ時間が掛かりそうですか?」
「彼女の食べる感情は普通の人間世界になら蔓延っていますが,ことこの聖ウェヌス女学院でとなるとなかなか難しいでしょうね。」
「恋愛や競争‥‥‥幾らでも感情の根源はありますがそれが少ないですから。」
「レヴィアタンの事ですからそこは何とかしてしまうでしょうけど‥‥‥」
「そうでしょうね。」
ヤルダバオトとサタンはもう一口紅茶を口にする。
「ところで‥‥‥」
そこにベルフェゴールが物憂げに発言した。
「どうかしましたか,ベルフェゴール。」
「私たち眷属がヤルダバオト様とヤハウェ様の遊びに直接介入する事など今まで一度もお認めにならなかったのに今回はいったいどうなされたのですか?」
「ああ‥‥‥その件ですか。まあ,貴女は怠惰を司る者ですから面倒臭いのは嫌でしょうけど‥‥‥」
「それも確かにありますが‥‥‥」
ベルフェゴールは苦笑いを浮かべつつもその目は真っ直ぐにヤルダバオトを見つめている。
「すみません。ちょっとおちゃらけ過ぎましたね。実は‥‥‥」
ヤルダバオトはこの場に居る眷属たちだけでなくまだ顕現していない眷属たちにも聞こえるように話し掛けた。
その話を聞き終わった眷属たちは一様に戸惑いを持ち,お互いに顔を見合わせていた。
悪魔と呼ばれる神に近い存在‥‥‥その者たちですら驚愕する内容だった。
「そうならないように‥‥‥そうしないように‥‥‥私たちも対応しなければいけないのです。」
「もしかしてこのような形で集まったのは‥‥‥」
「まあ強いて言えばそういう事です。眷属全員の顕現を待っていて,手遅れになってもいけないですからね。サタン。」
「さすがヤルダバオト様‥‥‥」
「貴女の読みも大したものですよ。」
加地美鳥は100周年記念館の大浴場に来ていた。
脱衣所で着ていた服を脱いでバスタオルで身体の前を隠すと風呂場に移動する。
寝汗を掻いた身体には不快感もあり,洗い場でシャワーを浴び,石鹸を使い綺麗にしていく。
『それにして,どれくらい眠っていたのかな?』
それが1時間なのか,1日なのか,それとももっと長いのか‥‥‥
それほどに自分の記憶が曖昧になっている事を自覚した。
『そういえば,ここ数日おかしい‥‥‥』
その理由は分からない。
彼女自身,演劇の深遠に触れるために‥‥‥と心理学や脳科学をはじめ,精神感応と呼ばれる超能力などの超心理学の研究書なども読み漁った。
だからその中には人間の記憶に関するものも多数あり,自分なりに知識を積み上げてきたのに,まさか自分が記憶の欠如を起こすなどとは思いも寄らず,実は内心ではイライラしていた。
しかし,そのイライラを表には決して出さない。
それは加地美鳥のポリシーでもあり,特に幼馴染たちの前では守るべき絶対領域でもあった。
「ふーっ‥‥‥」
湯船に漬かり深呼吸をした。
『でも本当,どうしちゃったんだろう‥‥‥私‥‥‥』
天井を見上げて物思いに耽る。
肺にこれでもかと思い切り空気を吸い込み,瞼を閉じた。
咽返り大きく息を吐く。
そしてゆっくりと瞼を開く。
目の前に広がる光景に違和感を感じる。
そこは確かに今まで居た大浴場であるのに間違いはない。
それでも何かが違う。
そう魂に訴えかけてくる何かを感じた。
湯煙の向こう‥‥‥湯船の遥か彼方‥‥‥彼岸から近づいて来る黒い影が見えた。
『湯船の彼方‥‥‥いや大浴場でもそこまで広くはないのに‥‥‥これが違和感の正体‥‥‥』
加地美鳥は湯船から上がろうとする。
『えっ?身体が動かない?』
金縛りではない。
重力が掛かりお湯に縛られているかのような感覚に襲われていつの間にか身動き一つ取れなくなっていた。
まるで徐々に近づいて来る黒い影が自分を逃がさないとばかりに。
誰かを呼ぼうと声を上げたいのにそれすら叶わない。
未だ嘗て経験したことのない恐怖に怯える。
指先すら動かす事を許されない。
額からは熱さで流すのとは違う脂汗がボタボタと垂れて,体内の水分を全て失ってしまうかと云わんばかりに意識が朦朧となって来る。
『これは本当にマズい‥‥‥』
このままでは黒い影に自分を支配されてしまう。加地美鳥は直感した。
『こういう時は‥‥‥』
精神力で負けてはいけない。
グッと目を見開き,近づいて来る黒い影をジッと見据える。
深呼吸を繰り返して,支配されつつあった恐怖から心を解放させ,気持ちを落ち着ける。
その時,加地美鳥は異様な事に気が付いた。
気配は明らかに自分に近づいて来ているのに何故か黒い影の大きさが変わらない。
遠近法を無視している‥‥‥物理法則が通じない。
それに気が付いた時,自分ひとりで打ち勝てる相手ではないのだろうか‥‥‥そう思えてきた。
お湯の中に居るはずなのに背中に冷たいものが走り身震いが止まらない。
視線を外したらもっと拙い事になる。
精神的に追い込まれているが,肉体はそう訴えてきている。
でもその黒い影は目の前に居た。
視線を外してはいない。意識を思考に向けている隙を突かれた。
黒い影は上半身や下半身の区別は出来るが,顔には目も鼻も口も見当たらない。
それなのに加地美鳥はその顔が自分を覗き込んでいる感じがした。
「其方が加地美鳥だな。」
「は,はい‥‥‥」
黒い影の無い筈の口から言葉が発せられる。
いや‥‥‥音ではなく頭の中に直接訴えかけてくる感じだった。
「私はルシファー。其方の傲慢の感情を喰らう者だ。」
「私が傲慢‥‥‥なのですか‥‥‥」
「そうだ。そして其方のその感情のお陰で間もなく完全に顕現できそうだ。」
加地美鳥には思い当たる節はなかった。何で自分が傲慢と云われなければいけないのかと。
しかし,それは彼女が気が付いていないだけで深層意識に存在する感情の種。
その種が芽を出し,根を張り,茎を伸ばし,葉を拡げ,花を咲かせていく。
ルシファーはそうなるのを見抜いていた。
加地美鳥をメインターゲットととして感情を喰らおうとする。
「本当に私は傲慢なのですか‥‥‥」
「ああ。そうだ。」
悪魔たるルシファーに間髪入れずに断言されてしまうと,如何に精神支配というものに興味を持ち極めようとしている加地美鳥も否定する事が出来ない。
「そう‥‥‥なんだ‥‥‥」
彼女の中にあるのは純然たる女優としての演技への飽くなき探究心‥‥‥
そのために必要な学問の習得と実践のための治験‥‥‥
全ては演技に対する純粋な想い。
それでもルシファーにとってはその純粋な想いが強すぎるためにその気持ちが引っ繰り返った時に起こる反動というものを幾星霜もの歳月の中で体験してきている。
それが時にルシファーでも喰らいきれないほどの感情になる事があるのも知っている。
彼らは人間から悪魔として畏怖される対象ではある。
だがその実は人類に芽生えた悪感情を喰らう存在。
神に近い存在だとしても必ずしも全知全能,全てにおいて万能な存在でもない。
自分に対応しきれない状況になるのは避けたいし避けなければならない。
だから加地美鳥に宿る彼女も自覚していない澱んだ感情をルシファーは危険視していた。
「其方の感情はあまりにも純粋で膨大すぎる。それが故に私でも喰らいきれなくなっている。」
ルシファーは加地美鳥にそう語り掛けたかったが,完全に顕現できていない今の状況でその話をするのは得策ではないと思っている。
『今少しもう少し彼女から傲慢の感情を喰らい完全に顕現できた時に話すべきだな‥‥‥』
加地美鳥はルシファーの表情が読めず,ただ押し黙り自分を見ているのかも分からないために戸惑っていた。
樋口ソフィアも戸惑っていた。
机に向かい,窓の外を眺めながら物思いに耽るかのように。
いや本当は既に答えは出ているのかもしれない。
『いつまでも逃げている場合でないのかもしれない‥‥‥』
それはこの異常な状況を打破するためには馬場学長や山県先生と面と向かい話をした方がいいのではないのか‥‥‥そういう思考に傾いていた。
今までは面と向かうなんて発想は出来なかった。
聖ウェヌス女学院に編入して約半年,人見知りの上に入学式の日の一件で極度の人間不信に陥ってしまったためにクラスでも友人が出来ず,教職員に対しても身構えてしまい,極力他人との交流を避けてきた。
最近でこそ人間不信も少しずつ緩和してきて,本庄真珠たちクラスメイトとも会話ができるようになった。
そう思っていた。でもそれ自体に違和感も感じている。何か誰かに因って仕組まれたものではないかと。
しかし今はそんな事を言っている場合ではないのも分かっている。
が,いきなり態度を豹変させると,返って何かあるのでは?と疑われないかという心配もある。
樋口ソフィアはそんな堂々巡りのような葛藤をしていた。
『それに先生たちがどういう状況におかれてるのか分からないし‥‥‥』
さらに彼女の決断を迷わさせているもう一つ原因。
自分のように教員にも自我があって意識を保っているのか?それとも違うのか?
それに因って自分の置かれている状況が好転する事も暗転する事もあり得る。
彼女の性格からしたら暗転すると判断するのが今までであった。
『まあ明日,学院に行けば大丈夫だよね。』
元来ネガティブな思考しか持たない彼女から何故こんな楽観的な考えが出てきたのかを本人にも理解できていない。
それに彼女は気が付いていない。
本当は馬場学長たちとも今まで接触する機会が幾度となくあったのにそれを全て反故にして逃げてしまった事を‥‥‥
そして今となっては自分からは教員と接触する手段を持ち合わせていない事を‥‥‥
樋口ソフィアは椅子から立ち上がるとベッドに移動して仰向けに倒れ込むと天井のライトを漫然と眺めてみる。
『この世界がヤルダバオトの創った世界だというのなら‥‥‥』
樋口ソフィアの頭をふと疑問が過った。
『ここが精神世界なら‥‥‥私の気持ちの持ちようで‥‥‥私が強く念じれば‥‥‥自分の意のままに行動も出来るのでは?』
だからと言って今すぐに試す気にはなれない。
そこで何か問題が起きても自分の手で解決できると思えないからだった。
『そういえば記憶が飛んだ時も‥‥‥』
しかし樋口ソフィアには検証できる可能性のある事象があった。
それは以前2回ほど真夜中に眠っている間に自分の意識のない時に夢遊病のように外を出歩いていた。
『あの時って,私には意識がなかった。外部から干渉を受けて行動させられていたのでは?』
それが事実ならば納得も出来る。
そしてその外部からの干渉したのはヤルダバオトという可能性が高い。
というそれしか考えられない。
干渉を受けたのであれば神に近いと呼ばれる存在に人間が勝てるとは思えない。
ましてや睡眠中は意識を手放しているのだから操られてもおかしくはない。
それは今の樋口ソフィアが現実の肉体を持った存在でもないからだ。
まさか他人に心を読まれるような事はないと感じているが,無防備な状態だから何が起きても‥‥‥ヤルダバオトに何かされても抗う術もないだろうとも思っている。
『でもヤルダバオトの話が本当ならわざわざ私を使って何をしていたんだろう?』
樋口ソフィアの思考はますます深みに嵌って抜け出せなくなっていた。
安田晶良と高梨瑠璃は大浴場から一旦それぞれの自室に戻った。
安田晶良は本庄真珠にメッセージを送ったが一向に既読にならない。
仕方なく高梨瑠璃に相談すると彼女も同じだと言ってきた。
困り果てた2人はもう一度直接話をしようと本庄真珠の部屋の扉を叩いていた。
しかし,まるで部屋に誰も居ないかのように反応がない。
「いくら怒っていても真珠らしくはないよね。」
「そうだね。居留守まで使うとも思えないし‥‥‥」
何でこんな事になったんだろう‥‥‥と安田晶良は思っていた。
『私が何か悪い事をしたの?心配していただけなのに‥‥‥』
色々と思い返していくうちに安田晶良の心の中には悶々したどこにもぶつけようにもない鬱積とした思いが湧いてきた。
「瑠璃,ごめん。私,部屋に戻る。」
安田晶良は踵を返すと廊下を駆け出して行った。
「晶良,急にどうしたんだろ‥‥‥」
高梨瑠璃は呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。
「そろそろ‥‥‥いいかもな‥‥‥」
その様子を見ていた影はそう言い残すと姿を消した。




