#004 一進一退
チュン,チュン,チュン‥‥‥
ベランダの柵に留まりお互いを啄ばむ雀の囀りと窓のレースのカーテン越しにベッドに差し込む朝日の眩しさに樋口ソフィアは目を覚ました。
枕元の時計を確認すると表示は5時30分で,ここまではこの2日間と変わらない。唯一違うのは昨日の寝るまでの記憶はしっかりとあることだ。それだけでも気分の持ちようが違うというもの。本当に清々しい。
今日の支度も昨晩のうちに済ませてあるので,あとは何時もと同じように朝ご飯を食べて学校に向かう。
「おはよう!」
「おはようございます!」
「はい,おはよう。」
久しぶりに顔を合わす友だちや正門前に立つ先生と挨拶を交わしながらわいわいと賑やかに女子生徒たちが女学院内に入り,遊歩道をそれぞれの校舎へ向かって歩いて行く。
「ねぇねぇ,夏休みどうだったのよ?」
「これ,写メ見て,これが新しい彼氏!夏祭りでナンパされたんだけどぉ‥‥‥大会に出られるほどテニスが上手でぇ,スマートで身長も高いしぃ‥‥‥それから,それから‥‥‥」
「いいなぁ,私は花火大会の時に二股掛けてた彼氏に振られちゃったし‥‥‥」
「ほら,そこの3人は学校の入口でそんな会話はしないように!」
女子生徒たちが一昔前の初心で夏休み明けには何処でもありそうなお約束の,他愛もない会話を交わしていて,嬉しそうに自慢げに話す子もいれば,どよーんと沈みダンマリを決めて涙ぐむ子もいる‥‥‥そばで生徒指導の先生に会話を聞かれてツッコミを喰らっている。
「はぁ‥‥‥やっぱり,またなんだ‥‥‥」
聖ウェヌス女学院の正門まで来た樋口ソフィアは深い溜息を付く。この2日間とまるっきり同じ光景を見てしまう。もう自分がどうかしてしまったとしか言いようがない。こうなると誰かにこの事を話したところで信用してもらえないどころか頭がおかしい娘と思われるのが関の山だろうと感じている。
樋口ソフィアはこの場から逃げ出したくなる気持ちを抑えながら,大きく溜め息を着くと同時に背中をポンッと叩かれた。
「ソフィアちゃん,おはよう!」
『ここもまた一緒か‥‥‥』
思わず樋口ソフィアはうんざりとした気持ちになった。
「あっ,いや‥‥‥うん,おはよう。」
「何かあったの?」
「別に何にも‥‥‥」
樋口ソフィアの背後から声を掛けてきたのは長尾智恵だった。考え込んでいた樋口ソフィアは思わず長尾智恵の声にふといつもと違う感じで応えていた。長尾智恵もそう感じて,樋口ソフィアの顔を覗き込むようにして聞き返していた。
ここまでも昨日と一緒なのかと樋口ソフィアはさらに憂鬱になる。
「もしかして,今日って‥‥‥始業式‥‥‥だよね?」
「うん,そうだけど‥‥‥どうしたの?何かあったの?」
「いや‥‥‥」
陰鬱となる樋口ソフィアの問いに戸惑いながら長尾智恵は答える。長尾智恵は樋口ソフィアのいつもと違う様子を敏感に捉えていた。
『また今日も始業式なんだ。』
樋口ソフィアはますます憂鬱な気持ちに堕ちていく。そして,樋口ソフィアに考え込む余裕を与えず,背中をポンッと軽く叩かれた。2人の後ろから声を掛けてきたのは水原光莉だった。そして,水原光莉は長尾智恵ではなく樋口ソフィアの左腕と取り腕を組んで来た。
「さっ,いいから早く教室に行こうよ!」
「えっ?水原さん?」
水原光莉は組んだ腕を外して,今度は樋口ソフィアの制服の袖を引っ張る。
「えっ,ねぇ,本当に何か間違ってない?」
「何が?」
あからさまに戸惑う樋口ソフィアは水原光莉に尋ねてみるが,そんな事は我関せずの水原光莉は樋口ソフィアをグイグイと引っ張り,連れていく。見るからにその力は女子高生のものとは思えない力強さだった。
『光莉,いったいどうしたんだろう‥‥‥?』
長尾智恵はそんな光景を見ながら,いつもと違う雰囲気に何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くしてしまった。
「おはよう,智恵。‥‥‥って,どうしたの?」
「あ,いや大丈夫だよ。心配させてごめんね。」
「あれ?下駄箱の所に居るの光莉じゃない?その隣にいるのは‥‥‥えっ,ソフィア‥‥‥ちゃん?」
長尾智恵の後ろから声を掛けてきたのは加地美鳥だった。茫然自失となって立ち尽くす長尾智恵を心配して加地美鳥は両手で肩を掴んで揺すってくる。長尾智恵は我に返り返事をしたが,今度は加地美鳥が目の前に起きているあり得ない光景に驚愕している。
「正直,光莉ってソフィアちゃんの事どうでもいいって感じで口も利かなかったのにね。何かあったの?」
「さぁ,私にもさっぱり‥‥‥とりあえず,光莉とは帰りに話しをすればいいかな‥‥‥」
加地美鳥と長尾智恵の会話を割くように予鈴のチャイムが鳴る。急いで教室に入ると長尾智恵は水原光莉に話し掛けようとしたが,その前に本庄真珠に掴まり,その直後,担任の山県先生が現れて教室移動をクラスの生徒全員に促した。仕方がないので委員長である長尾智恵はクラスメイトを廊下に並ばせてウェヌス・ウィクトリクス講堂に向かうように指示をする。確認でチラ見をすると列の後ろの方で水原光莉の隣には本庄真珠が居て話し掛けている。その様子は普段と変わらず,その光景に安心した長尾智恵は気持ちを切り替えて始業式に向かった。
ウェヌス・ウィクトリクス講堂での始業式が終わって,生徒たちは各自の教室に戻り,ホームルームが始まった。1年A組では担任の山県先生が席替えや新学期のカリキュラムの説明など諸々の伝達を淡々と進めていく。
座席は長尾智恵は窓側に近い前寄り,水原光莉は廊下側の真ん中辺り,加地美鳥は教壇の正面で一番後ろ,樋口ソフィアは教壇の正面一番前になった。
樋口ソフィアは今朝の水原光莉の急変した態度に加えて,自分にだけ始業式の日が3日も続くというのがどうにも腑に落ちず山県先生の話に身が入らない。
長尾智恵は水原光莉の今朝の態度が気になってはいたが,先ほどの本庄真珠との様子で若干不安を拭えており,クラス委員という立場と元来の真面目さから先生の話には集中するようにしていた。
そんな対照的な2人に我関せずと水原光莉は至極普通に先生の話に耳を傾けている。
『今朝の智恵への態度を見ると光莉と何かあったのかな?』
そんな長尾智恵,水原光莉,樋口ソフィアの様子が加地美鳥は気になって仕方がなく,考えを巡らせながら3人を見続けて,あまり山県先生の話に身が入らないでいた。
「‥‥‥では,これでホームルームを終わります。委員長お願いします。」
「起立!礼!」
長尾智恵の合図でクラスメイトたちは立ち上がり,一礼する。ホームルームが終わり,礼を直り,長尾智恵は水原光莉と話をしなきゃと席を見たが,そこにはすでに水原光莉の姿はなかった。
「あれ?光莉はもう練習に行っちゃったのかな?」
そうすると加地美鳥が長尾智恵に声を掛けてきた。
「私はこの後,部活動あるけど智恵は何か用事がある?」
「いや,私は特にはないけど‥‥‥」
「私の部活動が終わるまで待っててくれる?」
「うん,いいけど‥‥‥」
「じゃ,絶対に待っててね。待ち合わせは玄関ホールね。今日は新学期の顔合わせだけだから1時間もあれば終わるから。」
「うん,分かった。」
そう言い残すと加地美鳥は教室を出て行った。
「さてと,どうしようかな。ソフィアちゃんもいないし,今日は生徒会の活動はもうないけど,生徒会室に顔を出しておこうかな。」
水原光莉と話のできなかった長尾智恵は樋口ソフィアと話ししてみようかと思っていたが,彼女も既に教室には居なくなっており,加地美鳥との待ち合わせまで生徒会室で時間を潰すことにした。
屋内温水プールでは水原光莉の所属する水泳部がウォーミングアップを始めていた。今日は秋の大会に向けて出場する選手がタイムを取ることになっている。準備運動の終わった水原光莉たち競泳選手はまず軽く流して泳いだ。それが済むとそれぞれ競技のタイムを計る。水原光莉の種目は200m個人メドレーだ。
「On Your Mark‥‥‥」
「ビーッ!」
一瞬の静寂を破り笛の音を合図にスタートを切りプールに飛び込む少女たち。その中,先頭を泳ぐ水原光莉は2番手の選手をグングンと引き離していく。その異様とも云えるスピードに周囲で見ていた水泳部の部員をはじめ,顧問の穴山先生は目を丸くする。ここは25mの短水路プールなので折り返しが多く加速しやすいのを加味してもそのタイムは標準記録を上回っている。水原光莉はバタフライが苦手だったのでそこでタイムが落ちると思われたが,さらに加速する水原光莉の泳ぎに見ていた水泳部の部員たちは大歓声を上げる。ゴール板にタッチした水原光莉が顔を上げた一瞬,その場は静寂に包まれる。
ゴールでタイムを取っていた記録係の水泳部の部員はそのストップウォッチに計時された数値を見て絶句する。
「うぉあぁぁぁぁ!」
しかしその刹那,光景を見ていた水泳部の部員たちは思わずまさに声にもならない叫びとも云える大声を上げた。
そして,穴山先生は記録係の水泳部の部員が手にしているストップウォッチを奪い取り,その画面を覗きこむ。
そこにあった数値は非公式な記録とはいえ高校生記録どころか,女子水泳の日本記録にも匹敵するものだった。水原光莉は優秀なスイマーではあるが,いくら何でも女子水泳の記録を出せるほどの実力はまだない。それは中学生の時から見て来ているからよく知っている。
穴山先生は何が起きたのか理解できないでいる。ドーピングでもしたのならあり得るが,学校の練習でそんな事しても仕方がないし,彼女がそんな事を絶対にするわけないと思っている。
だからと言って計り間違いもないだろう。あの泳ぎを見ていれば,そんなことは思えない。
「全員練習を止めて!みなさん,一旦休憩ね!」
穴山先生は水泳部の部員たちにそう声を掛けると,直ぐに馬場学長のいる学長室へと向かった。
「光莉,おめでとう!」
「水原さん,すごいじゃん!」
「うん,ありがとう!みんな,ありがとう!」
水泳部の部員たちは水原光莉の周りに集まってお祝いの声を掛ける。水原光莉はその輪の中心であまりの喜びに我を忘れそうな心地になっていた。
校舎の玄関ホールで長尾智恵は加地美鳥を待っていた。もちろん水原光莉が来れば引き留めて話をしたかったのもある。しかし,長尾智恵は少し前に屋内プールで起きていた事などは知る術もない。
「お待たせぇ,かなり待たせちゃった?」
「ううん,さっき来たばかりだよ。」
加地美鳥がのほほんと声を掛けてきて長尾智恵と合流し,2人で玄関ホールからグラウンドの見える外へと出てきた。
「やっぱり,居なさそう‥‥‥」
長尾智恵はプールの方をじっと眺めたが,もう練習が済んでいるのかプールサイドには誰一人の姿も見えない。
遊歩道まで出てきた加地美鳥はようやく本題を切り出す。
「ねぇ,光莉と何かあったの?」
「えっ?別に何もないと思うんだけど‥‥‥」
長尾智恵は加地美鳥の問いに戸惑っていた。
「でも今朝の様子は明らかにおかしいよね。智恵はソフィアの事を気に掛けていたけど,入学式での事を考えたら光莉がソフィアに自分から近づくなんて事もないだろうし。だとしたら光莉の態度は智恵への当てつけとしか思えないから。」
確かに加地美鳥の言う通りだ。当てつけでない限りあんな行動はあり得ない。でも当てつけをされなければならないような事もなかったはずだ。
「私も気が付かないところで光莉に何かしちゃったのかな?」
「どちらにしても私が間に入るから光莉と明日ちゃんと話をしよっ!ねっ。」
何が起きたのか長尾智恵には理解ができていないが,それでも加地美鳥は長尾智恵と光莉がいつもの2人に戻ってほしいから,そのためには何でもするつもりでいた。
「あれ?そういえば,美鳥ってそんなペンダント着けていたっけ?」
朝は気が付かなかったが,長尾智恵は目に入った加地美鳥の胸元のペンダントの事を訊いていた。
「あっ。これ!これはね‥‥‥」
登校時,加地美鳥は制服の中にペンダントを隠していた。持ち物検査でもあって取り上げられたら目も当てられない。何より帰りに長尾智恵に見てもらいたかったからさっき待ち合わせ前に着用したのだった。
「昨日の夜,お祖母さんからもらったの,誕生日のお祝いに。」
「でも美鳥の誕生日って5月だよね?」
「うちのお祖母さん,春先から入院していたから昨日ようやくもらったの。誕生石のエメラルドのなんだぁ。」
「いいね。私もそんなの欲しいな!」
加地美鳥の話では昨日は春先に病気で入院していた同居している祖母の退院と快気祝いに家で食事をしたそうだ。そこに顔見知りの芸能事務所のマネージャーが勧誘にやってきて,空気を読まずに長居をして,あまりにしつこいものだから「もうあんな事務所に関わるな!」と父親が激怒したとか。
「ほら智恵も会ったことあるでしょ‥‥‥そのマネージャーさん普段ならあんな事はしないと思うんだけどね。本当にどうしちゃったのかな?」
おかげで祖母の退院のお祝いの和やかな雰囲気も滅茶苦茶にされてしまったそうだ。
そんな長尾智恵たちの様子を教室の窓からじっと見つめる人影があった。
「よし,次はあの娘だな‥‥‥」
そう呟くとその人影はスーッと教室の闇へと吸い込まれて消えた。
同時刻 ――――― 千坂紅音はピアノの前に座り,一人演奏に集中していた。音楽部の練習は音楽室とは別にある部室で行われる。音楽部は学院内で行われるコンサートやリサイタル,クリスマスの賛美歌などの学内活動と学院外で催される学生音楽コンクールがある。千坂紅音は弾き語りを最も得意としており,その実力はプロダクションやレコード会社からも勧誘があるほどだが,まだ学生という身分であること,聖ウェヌス女学院高等部の学校規則もあり,オファーを一切断っている。
アマチュアの最高峰であるコンクールにおいて,中学の時は声楽部門で優勝はしたので,高校ではピアノ部門で優勝するのが目標で,今はピアノ曲の最高難度と言われる曲の一つ「ベートーベン作曲ピアノソナタ第23番『熱情』作品57」をコンクール本選で披露しようと練習を積み重ねている。さすがに高校生では無理では思われる曲だが,春にエントリーした時点で高校3年間のうちにこの曲でコンクール優勝を目指すことに決めていた。
まあ,まだ今のところ演奏に成功したことはないのだが。
「この曲を完璧とまでは言えなくても最後まで満足のいく演奏は無理なのかな?」
どうしてもネガティブな気持ちが頭を擡げてくる。
樋口ソフィアはウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂に来ていた。
昨日はすっかり礼拝するのを忘れて帰ってしまった。この聖ウェヌス女学院に編入してから約半年,土日祝日も含めて毎日お祈りを欠かしていなかったのに。2学期を迎えてこの3日間,樋口ソフィアの周囲はおかしな事ばかりが起きている。毎日続く始業式の日‥‥‥しかも樋口ソフィア以外は繰り返されるその日を誰も気が付いていない節がある。まるで友だちができる気配すらなかったというか,声を掛けてもらえる事すらなかったのが,この2日で本庄真珠と水原光莉に話し掛けられた。と言ってもまだ朝の登校時だけだけど‥何で急に彼女たちから声を掛けてくるようになったのかな?そこは未だに分からない。休み時間や放課後にも彼女たちと話をしたいけど,全然タイミング合わないし。でも独りでないというのは嬉しいことでもある。
お祈りを済ませたソフィアはウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂を出たところで振り向いて見上げた。
「そういえば,この前御祈りしていて‥‥‥誰かに話し掛けられてからだよね‥」
その時,誰に声を掛けられたのか正体は未だに分からない。でもその声の主は友だちを作ってくれると言っていた。確かに本庄真珠と水原光莉は少なくとも友だちへの一歩を踏み出した。ただそれが関わっているのか,始業式の日という同じ1日を繰り返し体験もしている。早く繰り返される始業式の日という状況は何としてでも解決したい。迎えるであろう明日という日が始業式の翌日になるのか?それともまた始業式の日なのか?もうそれは日が明けないと分からない。この強烈な不安はどうしても拭えない。
「今の私って,夢を見ているだけなのかな?」
頬を抓ってみるが,痛い。やはり現実のようだ。
「病院で診てもらおうかな?でもこの状況を何と説明したらいいのやら‥‥‥睡眠障害とか?過眠症とか?それで記憶が曖昧になっていると言うのが一番かな?」
帰宅した樋口ソフィアは一先ず始業式の日が明けて,授業が始まる事を期待して鞄に明日の授業の準備を済ませた。
「今日も早く寝てしまおう‥‥‥」
頭痛がするとかではないけれども,樋口ソフィアは置かれている状況から現実逃避しようと布団に潜り込み,何もかもを忘れて眠りにつく事にした。実は彼女の体に起きている異変にまだ気づいてはいなかった。




