#039 異端邪説
水原光莉を悪戯に追い回していた齋藤由里も湯気の立ち上る湯船の中で自分の居る場所を見失っていた。
一緒に居たはずの本庄真珠,高梨瑠璃,安田晶良の3人の姿も見当たらない。
いったい何が起きたのか‥‥‥齋藤由里の理解の範囲を超えていた。
ゆっくりと周囲を確認しながら湯船の中を進んで行く。直ぐに湯船の端に辿り着いた。
齋藤由里はお湯から上がり,脱衣所に向かった。扉を開けるとそこには誰も居なかった。
風呂場の方から天井に上がった湯気が水滴となり滴り落ちて床を叩く音だけが聞こえてくる。
ロッカーを確認すると自分以外の荷物はなかった。
『もう‥‥‥いつの間にかみんな上がっちゃたのかな?』
でもおかしい‥‥‥4人を見失っていたのは長くてもほんの数分のはず‥‥‥
その間に抜け出して着替えて大浴場から出て行くなんて可能なのか?
だいたい脱衣所と風呂場の間の扉は開ければガラガラと音がする。
今だって開ける時にかなり大きい音がした。気が付かない訳がない。
一先ずバスタオルを身体に巻き,身体を奇麗に拭いていく。
大浴場の入口の扉が開く音が聞こえた。誰かが入って来たのだろう。
齋藤由里は入口の方にじっと視線を向ける。
床には入って来た人物の影が見えて,それが自分の方に近づいてくるのが分かった。
「誰っ!」
齋藤由里は恐怖のあまり思わず大声を張り上げていた。
しかし,その影の持ち主は返事をしない。さらに影が近づいてくる。
『あれ?どれだけ身長があったとしても影がこんなに長くなるなんて事‥‥‥建物の中の照明で出来るっけ?』
身長が数メートルもあるなら分かるが,ここは建物の中で天井までせいぜい3メートル弱。
だとしたらいったい何が入って来たのか?そう考えた時,背筋に何か冷たいものが滴り落ちるような感じがして,ブルブルッと震えていた。
齋藤由里はその場にしゃがみ込んで顔を伏せた。
この脱衣場には身を隠すような所なく,さっき声を上げてしまった以上,向こうには自分の存在を知られてしまっている。
齋藤由里は非常に後悔した。何で声を上げてしまったのだろうと。
そう思いを巡らせている間にも視線の先にはその影は齋藤由里の下へと迫って来ていた。
『この距離だと‥‥‥』
既にその影の頭の部分は視線を落としていた足元に捉えられた。
『もうダメッ‥‥‥』
目の前に影の持ち主が立っている‥‥‥そう考えると顔を上げて確認すればいいだけなのだが,湧き上がる恐怖心がそれをさせてくれない。
影の先端は自分の間合いに入ってきている。自分に覆い被さるような態勢で項でも覗き込んでいるのだろうか?
それは影の持ち主の脚先‥‥‥どちらの脚だろう‥‥‥いやそんな些細な事はどうでもいい‥‥‥十指の乳白色の爪半月は元より爪甲の模様すら見分けが付く。そんな至近距離なのだ。
齋藤由里は瞼を閉じる。何とか恐怖心を抑え込み,意を決して顔をゆっくりと上げていき,目を開いて視界に影の正体を捕える。
『えっ?』
目の前には誰も居ない。直ぐに背後へ振り向くがそこにも誰も居ない。
齋藤由里は立ち上がると脱衣所の中を訝しげにキョロキョロと見回すが,脱衣所には自分1人しか居ない。
ではさっきの影はいったい何だったのか?
『そういえば‥‥‥みんなはどこに行ったんだろう?』
不意に齋藤由里は背後から伸びてきた腕によってバストを鷲掴みにされた。
「えっ?」
視線を胸に落とすと自分のバストを揉みしだく2つの掌が映る。
「痛いっ!」
どんなに大きな声を上げてもその手は止めようとはしない。齋藤由里は一生懸命に後ろを確認しようと左に右にと振り向こうとするが,首が思うように回らない。
そもそもこの距離なら背中に相手の気配や体の当たる感触があってもいいはず‥‥‥でもそのような感じは一切ない。
それはもう恐怖でしかない。さっきの影といい,バストを触る手といい,相手はこの世の者ではないだろうと確信したが,その確信がより恐怖を増幅させる。
痛いだけだった感触に何か今までに感じた事のないものが徐々にこみ上げてきた。
「あっ!」
思わず嗚咽を洩らしてしまう。
精神的には恐怖を覚えながらも肉体的には快楽を感じている。
「もしかして私ってドM?」
こんな状況だというのに冗談めいた事すら考える余裕が出来ていた。
一方的にグイグイと強く揉みしだくだけだったその手は強弱を着けたり,バストの先端を指と指の間に挟み込み指を交互にずらしてみたり‥‥‥と動作にバリエーションが生まれていた。
その度に齋藤由里の口からは喘ぎ声が洩れる。
だからと言ってその快感に溺れているわけではない。
気持ちは至って冷静だった。
肉体が刺激に対して意識に関係なくしてしまう反応‥‥‥反射のような現象を起こしているだけだと感じられる。
その状況が精神と肉体をまるで別の人格にしてしまっているような感覚に陥っている。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
そんな事を考えていた時だった。齋藤由里の耳元に聞き取れないくらいの微かな声というか音波ようなものが通り過ぎたのを感じた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
また同じものが耳を掠めた。
「いったい‥‥‥」
誰?と言うべきなのか,何?と問うべきなのか‥‥‥迷っていた。
もしかすると,自分のバストを揉む手の持ち主かとも思ったが,その姿は見えない。
そんな異常性すら感じなくなっていて,齋藤由里はそれがおかしいとも思えなくなるほど精神が麻痺していた。
いや,齋藤由里を構成しているものが肉体はおろか精神にも依存していない。
まるで齋藤由里の肉体と精神とは別に齋藤由里という存在があって,その別の存在‥‥‥第3の齋藤由里を構成するものが本体になってしまっているのではないか‥‥‥そう錯覚させるに足るものがあった。
「これって‥‥‥私?」
普通に言えば幽体離脱なのだろうか?それともドッペルゲンガーなのだろうか?
いつの間にか目の前に自分と同じ身長,同じ髪の色と長さ,そして見覚えのある特長的な黒子‥‥‥そんな背中があった。
そして,自分の手はその背中からその人物の前に手を回して背後から抱きついている格好になっていて,バストに触れていた。
その感触には覚えがある。それは自分のバストなのだと理解した。
齋藤由里の手には揉んでいる感触とバストには揉まれている感触があった。
だから幽体離脱でもドッペルゲンガーでもない‥‥‥自分の理解の範疇を超えた存在なのだろうと冷静に分析していた。
「あれっ‥‥‥でも‥‥‥」
最初から揉まれている感触はあったが,つい今までは揉んでいる感触はなかった事に気が付いた。
それよりも目の前に居なかった女性が今は居るという事実。
さっき耳元を掠めた何かに気を取られた隙にこんな事態になったのだろうか。
そして,揉んでいる感触があるのに自分の意志で揉んでいる訳ではないという事。
自分が‥‥‥自分なのに‥‥‥自分では‥‥‥ない。
それが錯覚させるに足るものの正体だと思った。
目の前で背中を向けている彼女は頻りに首を左右に振ってキョロキョロと後ろを見ようとしている。
「これって‥‥‥」
齋藤由里の頭の中に一つの仮説が思い浮かんだ。
つい今し方自分がバストを揉まれて取った行動に似ている‥‥‥いやそのものだと感じた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
また三度,耳元に聞き取れないくらいの微かな声らしきものが聞こえた。
ふとその音に気を取られた瞬間‥‥‥
目の前には1人しかいなかった彼女が2人に増えていた。
そして齋藤由里の‥‥‥掌の皮膚には二重に触れている感触とバストの表面には二重に触られている感触があった。
テレビの二重音声放送のように二ヵ国語が同時に聞こえてくる‥‥‥それが聴覚ではなく,触覚に現れた‥‥‥そんな感じだった。
「もしかして,このまま彼女が無限に増殖を繰り返すのかな‥‥‥」
こんな異様な状況だというのに齋藤由里の理性は保たれている。
今までだったらパニックを起こしていただろう。
でも何でこんなに落ち着いていられるのか自分自身でもよく分かってはいない。
いや,ここのところの異常事態続きで気持ちが麻痺してしまっているのかもしれない。
『でもどうやってこの状況から抜け出そう‥‥‥』
齋藤由里にはこの状況を抜け出す手段は正直言って分からない。
何故,この状況に陥ったのか‥‥‥原因は水原光莉を悪戯に追い掛け回した事だとするなら彼女がこの状況を生み出したと考えるべきなのか?
それは動機としては薄いし,そもそもこんな事を仕掛けられる力があるとは思えない。
『だとしたら‥‥‥』
齋藤由里は違和感を覚えた。
その刹那,先程までとは違うはっきりとした音声が直接頭の中に問い掛けてくるのを感じた。
「‥‥‥由里よ‥‥‥齋藤由里よ‥‥‥」
「‥‥‥誰ですか?」
「私はベルフェゴール。其方の怠惰と好色の感情を喰らう者よ。」
「‥‥‥感情を‥‥‥喰らう‥‥‥?」
「そうだ。漸く顕現できるまでの力を得た。其方たちのおかげよのう。」
齋藤由里はベルフェゴールと聞いて即座に相手が悪魔と呼ばれる存在だと理解した。
そしてこの現象の原因が水原光莉ではなくベルフェゴールだとも察した。
『そういえばこの悪魔は感情を喰らうと言っていたけど,だとしたら余計な感情を表に出さない方がいいのかな?』
極力ポーカーフェイスを装い,これ以上感情を食われないようにしようと用心する。
「どうした?妙に身構えておるようだが,感情を喰われるのを恐れておるのかな。」
ベルフェゴールの発言に齋藤由里は不用意にドキッとしてしまった。そして,この驚きの感情を喰われたのかと不安になった。
「安心せよ。私が喰らうのはあくまでも怠惰と好色の感情だ。それ以外には興味はない。まあ,私以外には驚きの感情が好きな者もおるがな。」
齋藤由里はフーッと深呼吸した。
「それでそのベルフェゴールさんは私に何の用があるのですか?」
「ほほう‥‥‥なかなか落ち着いておるな。重畳。重畳。一つは其方のおかげで顕現できた事の挨拶だな。あとは其方を守護する事だ。」
「守護‥‥‥ですか。」
「そうだ。守護だ。詳しい事は言えぬが其方を危機から回避させるのが私の使命だな。」
「私は悪魔に守ってもらうのですか?‥‥‥それは正直‥‥‥」
「其方たち人類は我々の存在というものを誤解しておる。」
「誤解‥‥‥ですか。」
「そうだ。例えば,其方はどう考えておる?」
「そうですね。学校で習った言葉でいえば‥‥‥神を誹謗中傷して,人間を誘惑する存在‥‥‥ですか?」
「では神とは?」
「人智を超えた絶対的な存在‥‥‥ですね。」
「人智を超えた絶対的な存在が神なのであれば,我々も人智を超えた絶対的な存在であるぞ。」
「でも‥‥‥それは‥‥‥」
そこから齋藤由里とベルフェゴールの間でまるで禅問答のようなやり取りが続いた。
ベルフェゴールが問い掛ければ齋藤由里がそれに答える。
しかし,齋藤由里は次第に自分の答えに疑問を持つようになった。
「それでベルフェゴールさんは私をどうしたいのですか?」
齋藤由里は苛立ちの感情を露わにし語気を強めて問い掛けた。
「最初にも言ったであろう。私は其方を危機から回避させるのが使命だと。」
「だったら私の危機とは何なんですか?」
「詳しい事は言えぬ。言えば其方の危機が増すからの。」
「それでは話になりませんね。こんな押し問答していても意味がないので解放してもらえませんか?」
ベルフェゴールの背後にもう一つの存在が現れるのを齋藤由里は感じた。
「どうしたのだ,ベルフェゴール。なかなか美味の感情を見つけたから来てみたのだが‥‥‥」
「おお,これはサタンではないか。齋藤由里の怒りの感情に引き寄せられたか?」
「うむ。私も漸く顕現できる力を得たのでな。」
齋藤由里はたじろいだ。目の前に現れた者はサタンと呼ばれた。サタンと云えば神の御使いでありながら堕落して悪魔の長となった者。そんな者を前にして落ち着いていられるわけがない。
膝がガクガクと震え出し,額からは冷や汗が溢れ出してくる。ダラダラと流れてきて眼に入り,その塩分で痛みも伴った。
「この娘,サタンと聞いて驚いておるようだの。」
「そのようだな。」
齋藤由里はもう逃げ出す事も解放される事もままならない。そう悟った。
「あまり私の依り代に恐怖を与えられても困るのだが‥‥‥」
サタンがそう言うと恐怖心というか,威圧感というか,齋藤由里を苛んでいたものが消え,身体の震えも額から溢れていた汗もスッと引いたのを感じた。
齋藤由里はフーッと一呼吸した。
「それでサタンさんは何をしに?」
「私か‥‥‥私は其方の怒りの感情を喰らうために引き寄せられた。私は憤怒を司る者だからな。現に其方のベルフェゴールに抱いていた怒りの感情はもうないだろ。」
「えっ?!」
サタンに言われて気が付いた。先ほどまでの取り留めようないベルフェゴールへの怒り。それがすっかり成りを潜めている。
「しかし,これはサタンさんが現れた事による恐怖で相殺されたからのような‥‥‥」
「それは違う。私が怒りの感情を喰った事で其方は私に対する恐怖の感情が出たのだ。だいたい其方たちは私らが罪悪と呼ばれる感情を植え付けていると思っておるのだろ。」
「ええ,まあ‥‥‥」
「でもな,誤解をしておる。」
「誤解?」
「そうだ。私らは其方たち人間に発生した悪感情を喰っているだけだ。最近はその悪感情の量が異常に増加しており,私らが喰っても追いつかなくなっておる。しかもその質たるや感情としては純粋ではないから喰った後の処理も大変なのだ。時間が掛かる。」
「サタン,お主は言い方が回りくどい。齋藤由里。其方に理解しやすいように私が話してやろう。」
ベルフェゴールが話に割って入って来た。
「昔,人類で言えば今から400年前くらい,日本で言えば戦国時代と呼ばれる頃ならどんなに大きな悪感情が生まれてもその伝播は人伝でせいぜい数千人から数万人規模だった。だから私らもその処理には手間が掛からぬ。ところがだ。ここ百年でその悪感情の伝播が媒体を利用したものに変化してきた。新聞,放送,さらにはインターネットと呼ばれるものだ。それによって規模は数万人のレベルが数百万人,数千万人と大きくなってしまった。しかも伝播速度も上がり,様々な形で感情が残されて繰り返されるようになった。そうなってしまうと私らでも処理しきれない。その最たるものが先の世界大戦だった。」
「それって‥‥‥」
「其方たちも歴史とかいう勉強で習っただろう。」
「はい‥‥‥」
「現在はもっと酷い状態なのだ。だから何とかしようと動き始めておる。それが其方たちが悪魔と呼ぶ者の役割なのだ。」
しかし齋藤由里は俄かに信じられなかった。
だからと言って絶対的な存在たる悪魔に対して否定を唱えたところで無駄だろうとも考えた。
「しかし,私らは主も含めて消耗が激しく,純粋で無垢な悪感情を喰らう事で回復を狙う事にしたのだ。その贄に選ばれたのが其方たちだ。」
「‥‥‥と言われましても‥‥‥」
「それにな,其方たちは‥‥‥」
「ベルフェゴールよ,それを言うのはまだ早いぞ。」
「そうだな,サタン。」
ベルフェゴールが何か言いそうになったのを小声でサタンが止めたが,齋藤由里はその前の発言に気を取られていたためにその事には気が付かなった。
「ともかくだ。其方から見れば私らは悪魔と呼ばれる存在かも知れないが,神と同じ絶対的な存在である事は覚えておいて欲しい。」
「はい。」
ベルフェゴールとサタンはそう言うとスーッと姿を眩ました。




