#032 発憤忘食
4人は小一時間ほど談笑すると,齋藤由里と安田晶良は少し早いけどと言ってそれぞれの部活動の控室に,加地美鳥は気分転換に本を読みたいと図書館に,樋口ソフィアは加地美鳥に誘われたが断り一人でフラフラする事にした。
「じゃあ,またね。」
解散した後,樋口ソフィアは3人の姿が見えなくなるまで見送り,踵を返してウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂へと歩を進めた。
『やっぱりここには絶対何かあるよね‥‥‥』
礼拝堂を見上げるとその上には雲一つない晴れ渡った果てしなく広がる夏空があり,晩夏とは言え強い陽光を受けて礼拝堂の壁は白く映えて,そのコントラストに魅了される。
『そういえば‥‥‥』
樋口ソフィアはポケットに手を入れるとメダルの破片を取り出した。
『このメダルを拾った場所に何かあるかも‥‥‥』
メダルを拾った時にも調べたが時間が時間で暗くなり始めていたから何も見つけられなかった。でもこれだけ明るければ何か見つかるかも‥‥‥と考えて礼拝堂の裏手に回った。
『確か‥‥‥この辺だったよね‥‥‥』
現場まで来ると周囲を見回す。シラカシの生垣の根元を中心に手で落ち葉や土を退かしながら探っていく。苔の生えた石ころ,古びた硬貨,何が書いてあるか読めない紙,色んな物が出て来たが,正直手掛かりになるような物はなかった。
このメダルだけが破片でここに落ちていたのか?それにこのメダルの所に連れて来たあの小動物はいったい何だったのか?そもそもこのメダルは何なのか?
その答えはおろかヒントも分からず仕舞いでどれくらいの時間が経ったのか既に空は夕闇に包まれつつあった。
『暗くなってきたし,今日はもう帰ろうかな?』
ガサッ‥‥‥ガサッ,ガサッ‥‥‥
シラカシの生垣‥‥‥茂みの向こうから今まで何もいなかったはずのところから気配がした。
何か居るのを樋口ソフィアはビンビンに感じている。何かが居るであろう場所に視線を向けながら少しずつ後退りをする。
パキッ‥‥‥
小枝を踏んでしまった。思わずビクッと驚いてしまったが,視線は外していない。相変わらず気配はするもののそれが何なのか‥‥‥姿は現さない。それが樋口ソフィアの恐怖心を煽る。
「もしかしたら‥‥‥」
樋口ソフィアはこの春まで欧米を中心に両親に付いて海外を転々としてきて居たが,ようやく母親の故郷である日本に初めて来た。
「Enma is time‥‥‥」
日本では逢魔が時と言われて,薄暗くなる夕暮れ時に妖怪や幽霊などに怪しいものに出会いやすくなるとか,著しく不吉になるとか言われている時間‥‥‥単に暗くなるのではなく,昏くなる事が,現世と常世,すなわちこの世とあの世を繋いでしまうと考えられ,神隠しなどもこの時間に発生しやすいという伝承すらあると樋口ソフィアは聞いていた。
その事を思い出し,バッと振り返ると急いで礼拝堂の入口へと走り出す。何度も足元の悪い地面に転びそうになりながらも何とか回避して礼拝堂の扉の前に立つ。
そして,加地美鳥がしていたように扉に向かい左手を差し出し掌を広げて翳して目を瞑り,彼女が幾度となく見て来た礼拝堂の中の風景がイメージとして頭に思い浮かんだ。
樋口ソフィアがゆっくりと瞼を開けるとその瞳にはウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の祭壇と聖母マリア像が映っていた。
「やっぱり‥‥‥」
そう呟いた瞬間,ピカッと礼拝堂内を強くて冷たさを感じる光が包み,樋口ソフィアは目が眩んでしまった。
「ほう‥‥‥自力でここへ来るとはな‥‥‥」
まるで威圧するかのようにドスの利いた低い声が礼拝堂中に響いた。
「誰っ?」
いや,本当は誰と訊く必要はなかった。何故ならそれが誰かを樋口ソフィアは知っているからだ。
その名はヤルダバオト‥‥‥樋口ソフィアに友達を作ると言い,メダルの破片に宿り,夢枕に立った存在だ。
未だに目がチカチカしていて瞼を開く事は出来ない。
「ヤルダバオト‥‥‥ですよね?」
「分かるか?」
「はい。」
「ここに来る方法が分かったようだな‥‥‥」
「確証はなかったですけど,もしかしたらと思って‥‥‥」
「それならば‥‥‥」
パチンッ‥‥‥
指の鳴る音がしたと思って樋口ソフィアは恐る恐る目を開く。
そこは確かに自分の想像していたウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の中であったが夕闇が迫る黄昏時だったはずの情景ではなく,光が溢れる真っ白な世界‥‥‥まるで天国に居るかのような雰囲気だった。見上げると頭上に浮かぶヤルダバオトの姿があった。
伝承や文献では悪魔とか魔物の類と言われているはずの存在には魔と云うよりも神や天使の如き神神しさすら樋口ソフィアは感じていた。
「ソフィア‥‥‥そなたには話しておかなければいけない事がある‥‥‥」
さっきまでの威圧感が無くなり,ヤルダバオトはフワッと樋口ソフィアの前に降り立つと優しく語り始めた。
「ここは我の創造した空間だ。入れるのは我の恩恵を受けたものだけ‥‥‥すなわち,そなたは我の恩恵を受けておる。それはそのメダイの破片だ。そして,この空間は‥‥‥」
パチンッ‥‥‥
ヤルダバオトが指を鳴らすと,そこは今までの天国のような空間ではなく,真っ暗闇‥‥‥錆びた鉄のような暗赤色の空間がバッと広がり,神神しさは禍禍しさに変化した。
「はぁ,はぁ,はぁ‥‥‥」
樋口ソフィアの背筋には悪寒が走り,今にも精神破壊を起こしてしまいそうになるが,何とか抑え込んでいる状態だった。
パチンッ‥‥‥
ヤルダバオトが再度指を鳴らすとそこは元の真っ白な空間に戻った。樋口ソフィアには先ほどまでの不安に駆られるような精神状態が一変し,安心感に包まれていた。
「このようにこの空間は我の意志で如何ようにも出来る。」
「はぁ‥‥‥」
樋口ソフィアはヤルダバオトがその気になれば自分の事をどうにでも出来るという事を知った。
「しかし,あの精神攻撃にも耐えられるようになっているとはな。」
「えっ?!」
「普通の人間なら今ので良ければ気を失うか,下手すれば死ぬ事もあるからな。」
「そんな‥‥‥」
「いやいや‥‥‥実に愉しみな逸材じゃよ。」
ヤルダバオトはまるで子供のようにニコッと微笑むと話を続けた。
「我には7体の眷属が居る。この眷属は人間界では俗に悪魔と云われ忌み嫌われておるが,その実は人間に巣食い増幅した悪意を食らう者だ。現在はな,そなたのクラスメイト‥‥‥本庄真珠,水原光莉,高梨瑠璃,加地美鳥,千坂紅音,齋藤由里,安田晶良の7名に附いておる。」
「憑いている?」
樋口ソフィアには「憑いている」と感じたが,ヤルダバオトは「附いておる」と意味で言っていた。「ついている」という言葉をヤルダバオトは善い意味で発したが,樋口ソフィアは悪い意味で捉えていた。その微妙な言葉の機微が後に樋口ソフィアの誤解を招く事になるものとは思ってもみなかったが‥‥‥
それもヤルダバオトにとっては遊びの一つで大した事ではないと捉えていた。
「彼らは7人に巣食う悪意を喰らっているが,その根源までも喰らい尽くすところまでいっていない。それほど意識の深い所にまで侵食しており,それを喰らい尽くすには手間と時間が掛かっておる。」
「その悪意の根源とは‥‥‥?」
「それはパンドーラの甕じゃ。」
「パンドーラの甕?それって?」
「そうじゃ,人間界ではギリシャ神話と呼ばれる中にあるパンドラの箱とも云われる逸話じゃな。その甕にあった特に強い悪感情が七つの罪源と称される。そなたもその名は聞いた事あるじゃろ。」
「はい。」
「その悪感情を喰らう者が我の眷属なのだ。眷属は悪意を喰らおうとしているのだが,人間からはそうは見えていない。眷属が出て来たから悪感情が生まれると考えておる。そして人間は眷属たちを悪魔と呼んでおる。それは致し方のない事と我々は考えておる。それが役目であるのだからな。我は眷属が喰らった悪感情を集め,溜め込み,浄化していく。それが今回は溜まるのが思いのほか早かった。そのためにメダイが二つに割れた。その片方をそなたが拾ったものだ。そして,そなたがどうやったかは知らぬが溜まっていた悪感情を綺麗に浄化してくれた。」
「私が浄化した?!」
「そうじゃよ。」
「私は汚れていたから綺麗にしなきゃと洗っただけなのですが‥‥‥」
「それだけか?」
「はい。」
「それほどの力を持っておるとはな‥‥‥驚きじゃ。」
ヤルダバオトは樋口ソフィアがメダルを重曹を使い擦って洗い綺麗にしようとしたという話に正直呆気にとられた。それだけで綺麗になる訳がない。悪感情が溜まり汚れていたのであって,物理的な酸化の汚れではないからだ。樋口ソフィアにはヤルダバオトにも知らない力があるのか‥‥‥そこで彼女の中を見透かそうとしたが何も見えなかった。
「時にその悪感情が強すぎたり,大きくなり過ぎてバランスを失うと‥‥‥どうなると思う。」
「まさか‥‥‥戦争とか‥‥‥」
「そうだ。戦争もそうだし,さらには自然界へも影響を及ぼし,俗に言う自然災害にもなる。」
「それは‥‥‥地震や台風みたいな?」
「いや,そんな小規模の話ではない。それこそ人類を一瞬で滅亡させかねないような災害じゃな。地球の地殻全面を破壊に導くような隕石の落下やマグニチュード12クラスの地球を真っ二つにしてしまうような破壊エネルギーじゃな。」
「そんな事が‥‥‥」
「そうじゃ。今までは起きていない‥‥‥いや‥‥‥そなたたちもよく知っているであろう恐竜と呼ばれる生物の大絶滅を。」
「はい。理科の授業で聞いた事はありますが‥‥‥それが起きると?」
「我々はな‥‥‥この創造された世界を壊したくはない。そのためにこの世界のバランスを崩さないように手を打ってきた。が,どうもそれが崩れ掛かっておる。それを修正するために本来ならば我々は我々の娯楽の一環として様々な遊びをしてきた。」
「遊び‥‥‥ですか。」
樋口ソフィアは正直どこまで本気の話なのかと思い苦笑いしてしまった。
「ところがだ,そのバランスを崩しかねない感情は悪感情ではなかったのじゃ。明らかに新たに生まれた感情であったのじゃ。」
「その感情とはいったい‥‥‥」
「それはそなたたちに自分たちの力で見つけて欲しい。ただ,それだけでは厳しいだろうから我々も微力ながら力を貸すが,あくまでも人間界の,人類の問題であるから人間たちで解決しなければならないのじゃ。」
「分かりました。やってみます。」
「そなたには試練を受けてもらう事になるのじゃが‥‥‥というよりも既に試練は始まっているのじゃがな。」
「えっ?その試練とは何ですか?」
「それは追々分かるじゃろ。今ここで話す事は出来ぬ。あとな,今そなたは意識不明で眠っておる。」
「へっ?!それはどういう事ですか?」
「先ほども言ったであろう。ここは我が創造した世界じゃと。この礼拝堂の中の事ではない‥‥‥今そなたが居るこの世界自体が我々の創造した世界じゃ。」
「すみません。意味が分からないのですが‥‥‥」
「ここはある意味,精神世界じゃ。だから物理的な法則が通用しない。それはそなたも実感しているじゃろ。」
樋口ソフィアはそう言われてみればそうだと思った。確かに時間を何度も繰り返したり,時間の感覚がおかしくなったり,それこそ自分が居たはずの場所とまるで違う所に居たり‥‥‥
「だとしたら私は今どうなっているんですか?」
「だから意識不明で眠っておる。身体には何の外傷も後遺症も残らないようにしているがな。本当なら死んでもおかしくない状況だが我々がそなたたちの持つ悪感情を吸い出し,それをパワーに変換して治療しておるのじゃ。だからそれが終わるまではこの世界で生活してもらうぞ。治療が済めば,向こうに帰してやるのじゃが,その時に試練を受けてもらう‥‥‥我々の娯楽に付き合ってもらうという事じゃ。」
「命に別状はない‥‥‥という事ですね。」
「そうじゃ。あと,この事は既に長尾智恵は自力で気付いておる。だが他のクラスメイトは気が付いておらぬので,他言無用じゃ。この事を言えばショックを受けて向こうの身体が死ぬなど悪影響が出ると思え。」
「分かりました。喋りません。」
「ではな。」
ヤルダバオトはまた空中へと浮遊する。そして光を纏うと強い光を発して別の空間に吸い込まれるように消滅した。樋口ソフィアはその光の眩しさに目の前を手で翳し指の隙間からその姿が消えるまで見ていた。
ヤルダバオトが居なくなると樋口ソフィアは礼拝堂の入口の前に立っていた。空間が閉じた事で外に出されたのであろう。外は真っ暗になっていた。
樋口ソフィアは遊歩道をトボトボと歩き出す。ヤルダバオトと居た時は冷静沈着に話を聴いていたが,こうして独りぼっちになるとその話の壮大さに自分が何を出来るのだろうという不安が心の中を占めていくのがヒシヒシと分かる。
『誰にもこの話をしてはいけない。』
そのプレッシャーが彼女を押し潰そうと圧し掛かってくるのを感じる。
あのヤルダバオトの発する神神しさと禍禍しさ,それは紛れもなく神でもあり魔でもある至高の者。そう認識するしかない。自分たち人間が勝手な考えで,こっちが神なら,そっちは悪だと決めつけていただけ‥‥‥彼らはどちらの性質も持っているのだと。
『そういえば長尾智恵は自力で気が付いたと言っていたっけ‥‥‥あの子って凄いんだな‥‥‥』
樋口ソフィアはメダイの破片を取り出して,顔の前に掲げて眺める。無意識に長尾智恵には敵わないのではないかと感じている。彼女はこの破片があったおかげでヤルダバオトに話を聞けたから気付けたと思っている。それに今置かれている状況に長尾智恵が気付いているのならは彼女にも誰かが憑いているのだろう。
『だとすれば試練の相手は長尾智恵‥‥‥彼女なんだろうな‥‥‥勝てるのかな,私‥‥‥』
現時点では正直独りでは勝てる自信はない。
でも樋口ソフィアには長尾智恵の幼馴染7人が眷属として附いている‥‥‥それがどの程度のアドバンテージを生むのかは分からないけど,長尾智恵に与える精神的ショックを期待していた。
加地美鳥は久しぶりに図書館へ来ていた。中等部で演劇部に入部した頃は自分の演技力に結び付けばという探究から基礎的な心理学をはじめ,実験心理学や臨床心理学の分野の書籍や文献にまで手を出した。
聖ウェヌス女学院には宗教や哲学の分野の蔵書は当然で,附属総合病院の精神科や心療内科の診療に関する論文なども多く,彼女の研究を満たすのには充分だった。
それらの知識を基に観察,実験,調査の対象は身近な幼馴染の7人から始まり,家族やクラスメイト,教職員にまで及んでいた。
既にその好奇心は演劇部での演技に対するものだけではなく,舞台芸術としてのメンタルマジックにも向いて,対象の心理を読み解き,誘導はおろか支配する事にまで興味を持つようになっていた。
そして始業式からの数日間は彼女自身には理由が分からなかったが,その好奇心を擽り満足させてくれていた。
「はぁ‥‥‥はぁ‥‥‥はぁ‥‥‥」
図書館の心理学の書架で本を読み耽る加地美鳥の表情はチークを入れたように紅潮して,息遣いも過呼吸の様にも荒く,まるで愉悦に浸り情欲的な興奮を感じているようでもあった。
「うーん‥‥‥この棚の本は全部読み尽くしたかな?新刊も見当たらないし‥‥‥」
加地美鳥は心理学の蔵書を中学1年生から読み始めて3年間掛かったが読破した。
「そろそろ新しい分野の本に手を付けたいけど‥‥‥何にしようかな?」
書架に並ぶ蔵書のタイトルを検索するように見ながらウロウロと歩き回った。
哲学,歴史,社会科学,自然科学,技術工学,産業,芸術美術,言語,文学‥‥‥専門誌や官公報などの刊行物に至るまで。
その中で1冊の本を手に取った。
「ナショナル・ソーシャリズムの考察‥‥‥これって確か昔フランスの政治家が提唱したっていうファシズム繋がる国家社会主義思想についての本なのかな?」
歴史の授業では詳しく教材になる事はないが,加地美鳥の中ではカリスマ性を持つ演説者が自ら発する言葉の力やパフォーマンスで,聴衆を虜にして思想の支配までも行ったというイメージを持っていた。
それはまさに彼女が標榜する舞台芸術たるメンタルマジックを極めた最終形態ではないかと思っていた。
「面白そう‥‥‥次はこれかな。」
パラパラとページを捲り斜め読みしていく。
正直,本を読んだいるだけではカリスマ性が身に付く事がないのは分かっている。如何に実践を重ねて検証するかが重要だという事。そして現在はその基礎となる知識の探究こそが彼女にまず必要なのだと。
彼女自身が別に独裁者になろうとか,戦争をしたいのではない。ただ,突き詰めるあまり周囲が見えなくなるほどの暴走が危ういという事に彼女はまだ気が付いていなかった。
最初は斜め読みのつもりがページを捲るたびに視覚を通じて頭脳に入って来る情報が知識の糧となる満足感に加地美鳥を恍惚の境地へと至らせていた。




