#019 背水之陣
今日も学長室では聖ウェヌス女学院高等部学長である馬場佐南がヤルダバオトの件もあって,休日出勤して対応に追われていた。
「暫く休みは返上ね。」
そう呟き,一旦手を止めて椅子から立ち上がり,ティーカップを手に窓際に立ち,菩提樹の遊歩道を眺めながらカップを口に運び喉を潤した。
先日の職員会議において,長尾智恵の幼馴染である,陸上部の本庄真珠,水泳部の水原光莉,体操部の高梨瑠璃,演劇部の加地美鳥,音楽部の千坂紅音,弓道部の安田晶良,剣道部の齋藤由里,それに加えてこの春に編入してきた樋口ソフィア‥‥‥今この8人は聖ウェヌス女学院高等部において秘匿された監視対象となっており,その中でも前者の3人は最重要監視対象に指定された。それはヤルダバオトの眷属の何れかに憑依されたと考えられ,既に身体的な影響が出始めており,精神的な影響も出る可能性があるためだ。
聖ウェヌス女学院高等部の学長である馬場佐南は今日の部活動報告が挙がってきた段階で更なる影響が認められた場合,彼女たちを女学院100周年記念館内の宿泊施設に強化合宿を理由に隔離する決意をしていた。
既に学院の敷地内には簡易結界を構成し,ある程度の影響を抑える効果はあると思われる。しかし,本人への直接的な結界を作る事は眷属悪魔の抵抗による弊害が出る事もあり,そして学外に出られては手の打ちようがなくなり,そこで何かしらの眷属悪魔若しくはヤルダバオト本体の接触が持たれたらより大きな影響を及ぼす可能性が高い。
『私の時はもう少し楽に解決できたけれど‥‥‥』
馬場学長自身も聖ウェヌス女学院に初等部から入学し,大学まで通った。そして,高等部の時に今回と同じようにヤルダバオトの事件に遭遇した。
この一件を解決に導き,当時の学長から大学に進学して教員免許を取得するように勧められた。実際には勧められたというよりは強制に近かったが,馬場佐南自身まだ将来の希望も曖昧だった事もあり,その要望を受け入れて大学に進学し,教員免許を取得する事にした。
そして大学卒業後,当時の学長の推薦もあり,高等部の教師として赴任した。
『今回のはかなり複雑で面倒な状況になりそうね。でもこの一件を解決してくれて,長尾さんにその気があれば,将来の高等部の学長候補になるわけだし‥‥‥』
聖ウェヌス女学院ではこうして歴代の高等部学長の後継者が選定されてきた。
馬場学長もそうであったように‥‥‥
コン,コン,コン‥‥‥
学長室の扉が叩かれた。
「どうぞ。お入りください。」
「失礼します。」
馬場学長はその扉を叩く音を聞いて誰が来たのを気付いている。
学長室に入室してきたのは陸上部顧問の秋山先生だった。
馬場学長はソファに座るように促して秋山先生が座るや否や問い掛けた。
「本庄さんはどんな様子でしたか?」
「はい。やはり身体能力の抑制や制御ができていない感じです。」
「精神面に関してはどうですか?」
「そこにはまだ表立って変化は感じませんでした。」
秋山先生は腰を下ろしつつ受け答えをし,馬場学長に今日の練習での事を事細かに説明した。秋山先生は馬場学長が今置かれている状況に珍しく少し焦っているのかなと感じた。
「なるほど。やはり抑えきれなくなっていますか。」
馬場学長の言葉に秋山先生は身体的なものと勘違いしたようだったが,馬場学長は既に本庄真珠の無意識の部分で眷属悪魔の影響が出ていると判断した。
「それで本庄さんはまだ帰宅させてませんよね?」
「はい。学長の指示通りに。私が戻るまでは帰らないように伝えています。」
秋山先生は本庄真珠に記録が伸びた事で今後は学校の部活動だけでなく,一陸上選手としての展望について話し合いたいと引き留めていた。
コン,コン,コン‥‥‥
また学長室の扉が叩かれた。
「どうぞ。お入りください。」
「はい。失礼します。」
次に学長室に入室してきたのは水泳部顧問の穴山先生だった。
先ほど秋山先生の時と同じように座るように促し,今度は座るのを待ってから問い掛けた。穴山先生も秋山先生と同じように受け答えをしたのだが‥‥‥
「そうですか。そのストロークが縮むというのは大きな事なのですか?」
「そうですね。現代の水泳は科学的な解析が進んでいます。そのため,選手一人ひとり,その体躯に一番効率のいい泳ぎ方を覚えさせます。それに狂いが出ているという事です。」
「なるほど。身体能力に大きな影響が出ていると見ていいわけですね。」
「はい。そうです。あと少し気持ちにも抑えが効かない感じに見えました。」
「それは?」
「今までならあり得なかったのですが,例の箝口令の件に対して怒りの感情を出しました。」
「であれば,既に精神面にも影響は出ていますね。」
「そうだと思います。」
「水原さんは帰宅させていませんね?」
「はい,大丈夫です。」
あとは高梨瑠璃の報告を待つだけだが,馬場学長の中では一先ず3人を学内に引き留めて,合宿という形で対処した方がいいだろうと判断を下していた。
コン,コン,コン‥‥‥
「どうぞ。お入りください。」
「すみません。失礼します。」
最後に学長室に入室してきたのは体操部顧問の甘利先生だった。
馬場学長は甘利先生も今までの2人と同じようにソファに掛けさせて話を聞く。
話を聞いて,高梨瑠璃に関しては本庄真珠に近いという印象だったが,既に気持ちは固まっていた。
「では,先生方。あの3人は今日より100年記念館の宿泊施設にて暮らしてもらう事とします。親御さんには私の方から連絡いたします。先生方は至急3人を連れて宿泊施設の各部屋の方に案内してください。着替えや日用品についてはこちらで用意しているので心配ないですと伝えておいてください。では,お願いします。」
「はい。分かりました。」
そう答えると3人の先生は席を立ち,学長室から退室していった。
それを馬場学長は見送ってソファから立ち上がり,机の椅子へと移った。
椅子に凭れ掛かるように座ると大きく溜め息を吐いて顔を上げて天井を見上げる。
『これで事態は動きました。あとヤルダバオトがどう動くのか‥‥‥』
馬場学長の中では3人を隔離しておけば,これ以上の影響は出にくいだろうと見ている。実際に自分の時もそうであったように。しかし,それは一時的な処置であって,絶対的な効果はないのも知っている。
『あとはいつまで時間稼ぎが出来るかどうか‥‥‥』
馬場学長は机に向き直ると電話を手に取った。
陸上部の部室に戻った秋山先生は陸上部員たちの中に本庄真珠の姿を探した。
「本庄さん?本庄さんは何処にいますか?」
「本庄さんなら先ほど外に行きましたけど‥‥‥」
秋山先生の問い掛けに陸上部員の一人が答えた。
「何処に行くとか言ってましたか?」
「さぁ,特に言っていませんでしたが‥‥‥」
秋山先生は焦った。本庄真珠に学校の外に出られてはまずい。
慌てて部室から飛び出すと部室の扉に手を掛けようとしていた本庄真珠が驚いた顔で突っ立っていた。
「先生,どうしたんですか?私びっくりしちゃいましたよ!」
「本庄さん,何処に行ってたんですか?戻ったらいないから心配しましたよ。」
「ちょっとお手洗いに‥‥‥」
「ああ,そうだったのね。」
秋山先生は本庄真珠を取り逃がしたと焦っていた気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸をする。
「取り敢えず,馬場学長から許可が出ましたので,本庄さんは陸上部の強化選手として暫く学院の宿泊施設で寝泊まりして合宿生活してもらいます。」
「えっ!?本当ですか?」
「あなたのご両親には馬場学長から連絡してもらっていますし,明日からは大学の陸上部と同じカリキュラムで指導してみようという話になりました。」
「凄いじゃない!おめでとう!真珠!」
秋山先生の話に周囲の陸上部員たちが湧き上がり,本庄真珠は歓喜の声に包まれた。
『一先ず,これで大丈夫ね‥‥‥』
歓喜の輪の中心で喜びを抑えきれない本庄真珠の様子を見ながら秋山先生は一安心をしつつも気を抜けない状況に精神一到の気迫で臨む決意をした。