#001 晴天霹靂
学校法人 聖ウェヌス女学院。
この女学院は創立130年を迎えた現在では世界中の数多ある様々な宗教の研究と教育を目的とした4年制の女子大学と2年制の短期女子大学を頂点として,女子高等部・女子中等部・女子初等部で構成される完全一貫教育制を敷く学校法人となっている。
聖ウェヌス女学院の敷地の中央を南北に貫くのはドイツのベルリンにあるウンター・デン・リンデンを思い浮かばせる菩提樹の植えられた緑豊かな遊歩道。その遊歩道の中央は幅10mに及ぶ石畳の遊歩道が整備され両脇の菩提樹の下にはベンチも設置されている。
その遊歩道の南端に聖ウェヌス女学院の顔とも云える正門があり,こちらはフランスはパリのカルーゼル凱旋門に似た門となっており,中央の大きなアーチと左右に小さなアーチがある。中央のアーチを潜るとそのまま菩提樹に挟まれた石畳の遊歩道へと繋がっている。
遊歩道の菩提樹の外側にはさらに幅2mの舗装道があり,道の左側には初等部校舎の区画と高等部校舎の区画,さらに聖ウェヌス女学院の研究の礎となる教会や神社,寺院などの宗教関連の施設の区画,テニスコートやサッカーの練習場,馬場,多目的グラウンドの区画と並んでいる。
そして道の右側に目を向けると中等部校舎の区画,大学・短大校舎の区画と続き,図書館・研究棟,カフェテリア,購買部などの入る食堂棟,さらに100周年の記念に建てられた会議場やクラブなどの合宿用の宿泊施設などが入った記念館の区画が並んでいる。
それぞれの区画の境には躑躅の植え垣に挟まれた形で玉砂利の小路が存在する。
その中で高等部の区画は東京ドーム約5つ分の広さの敷地に,遊歩道に沿って南側にはグラスグリーンの下地にカーマイン色に塗られた1周100mのラバーペイントのトラックの目新しいグラウンドがあり,北側には築70年になろうかという東京駅のような雰囲気を持つ4階建て赤煉瓦作りの校舎が建っている。
そして,グラウンドと校舎の奥には体育館と屋内プール,ウェヌス・ウィクトリクス講堂がある。この講堂はデンマークの国会議事堂であるクリスチャンスボー城のフォルムに似た装いで,始業式や終業式などの高等部の学校行事が行われている。
高等部の区画のすぐ北側には宗教施設の区画があり,高等部に一番近い場所には礼拝堂が聳え立つ。その名はウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂と呼ばれている。
このウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂はシラカシの植え込みに囲まれており,高校の校舎よりも倍くらいの高さがあって,オフホワイトを基調とした中世のゴシック建築でドイツのザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂,別名ケルン大聖堂を模した学校内のランドマークともいえる存在になっている。
遊歩道では晩夏とはいえツクツクボウシやヒグラシなどのセミたちが騒々しいくらいに大合唱をしているが,打って変わり静寂に包まれているウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の中では1人の女子生徒が聖母マリア像の掲げられた祭壇の前で眼を瞑り厳かにお祈りを捧げていた。
夏休みの最後の日の黄昏時で外はまだまだ蒸し暑さが残っているが,ウェヌス・ウェルコルディア礼拝堂内は建物周囲の樹々の木陰と西日の差し込みにくい構造のお蔭で外と比べると涼しかった。
それでもステンドグラスの窓から乱反射するように差し込む斜陽を受けて彼女のミディアムブロンドの髪はキラキラと映えていた。
白く透き通るような肌と宝石のようなエメラルドブルーの瞳と均整の取れた体つきは何かスポーツをやっていてもおかしくはないほど。
お祈りを捧げているその女子生徒の名前は樋口ソフィア。
樋口ソフィアは聖ウェヌス女学院高等部の1年生で,この春にドイツから帰国してきた特待の編入生である。
学業の成績は学年でも十指に入るくらい優秀で頭の回転が早い方なのだが,内気で無口な性格と入学式の日にあったとある事件が原因で,もう4カ月が経ったというのにクラスメイトにも馴染めずまったく友だちが居ない。
別に樋口ソフィアが日本語ができないというわけでもないし,学校の特性から英会話ができる生徒だっている事はいるのだが‥‥‥
『‥‥‥今日で夏休みも終わり‥‥‥明日から新学期が始まるというのに未だに友だちができていません‥‥‥』
そんな悩みを吐露したくて,夏休みに入り初日からずっと毎日この時間になるとお祈りを捧げに来ていた。
お祈りを終えるとゆっくりと立ち上がり,一礼をすると出口の扉の方へと歩み出した。
が,先ほどまでと違う雰囲気を感じて樋口ソフィアはふと窓の外を見ると,ウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂に入った時は目映く綺麗な夕焼け空だったのに,すでに漆黒の暗闇が外を包み支配していた。
『あれ?そんなに長い時間‥‥‥お祈りしていなかったはずだよね‥‥‥?』
樋口ソフィアは外の様子を不可解に思い,制服のスカートのポケットからスマホを取り出した。目をやると時間はまだ17時前を差している。
これほど暗くなるにはまだ時間が早い。窓に近づいて,空の様子を覗き見ると暗雲が渦を巻くように低く垂れ込めており,間髪を入れずにバタバタと打ちつけるように大粒の雨が降り始め,ゴロゴロと雷鳴が轟いた。
「きゃあぁぁぁぁ!!」
薄暗い闇を劈く轟雷の恐怖から樋口ソフィアは悲鳴とともにその場にしゃがみ込み頭を抱えて蹲ってしまった。そして再び暗雲の中を走った一閃の稲妻はウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の屋根にある十字架へと落ち,その雷光はウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂内全体を目を眩ますほどに照らし出した。
「うわああああああっ!?」
樋口ソフィアのものとは違う低く大きな断末魔にも似た呻き声がウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の中に響き渡った。
俯いていた樋口ソフィアはビクッと身体を震わせてゆっくりと顔を上げて,キョロキョロと辺りを見回す。
しかし,俯いていた間にさらに暗さを増したウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の中は樋口ソフィアの目では何も見ることができなくなっていた。
『私以外には誰も居なかったはずなのに‥‥‥それとも‥‥‥誰か隠れていたの‥‥‥?』
あんな悩みをもしかしたら誰かに聴かれてたのかと思うと恥ずかしくて顔だけでなく耳まで真っ赤になった。と思う。
それほど顔が火照っているのが自身でも分かった。ようやく目が慣れて来て,ゆっくりと視線を泳がすと聖母マリア像の方にから靄のような淡い光があり,顔を向けるとそれは祭壇の下から光っているように見えた。立ち上がれなかったので,そろりそろりと四つん這いで進む。どうも腰が抜けてしまったようだ。
何とか祭壇の下まで辿りつくと青白く光るモノを見つけた。それは何なのかはまるで不明だが,恐る恐る手を伸ばし触ってみようとする。
どの指だか分からなかったが発光する表面に触れた刹那,体の中に電気が走るのを感じた‥‥‥と同時にふと気を失ってしまった。
同時刻 ――――― 高等部にあるグラウンドのトラックでは真っ赤に燃えるような夕焼けを背負い,ランニングに打ち込む陸上部の部員たちがいた。
その集団の中には樋口ソフィアのクラスメイトの本庄真珠の姿があった。オーシャングレージュのショートヘアで,陸上をやっているだけあってユニフォームの上からでも分かる小柄ながらも引き締まった身體は狩猟豹と呼ばれるチーターのようでもある。
彼女は聖ウェヌス女学院の中でもトップクラスの短距離走選手である。
本来は女性に使う言葉ではないのだが,ボーイッシュな彼女には眉目秀麗という形容がよく似合う。
中性的な美しさ,それはこの学校において女性同士の恋愛を助長するのにも疑いはない。
『もう中学生の時のようなことは失敗は失くすんだ‥‥‥次の大会こそは‥‥‥絶対に優勝するんだ!』
非公式の200mの持ちタイムは高校生としては破格で地方大会はもちろん全国大会でも通用するはずの実力者の彼女。ではあるもののメンタルの弱さからか,中学生の時には練習の時とは違い大会になると緊張してしまい,なかなか記録が伸ばせず歯痒い成績しか残せていない。
高校生になって生まれ変わってみせるという気負い‥‥‥本庄真珠は額から流れる汗さえも気にすることなく,努力を惜しまず今日も一心不乱に走り続けていた。