先輩と後輩
――あの空に堕ちていきたかった。
先輩と後輩。少年と少女。
簡潔に言ってしまえば、ただそれだけである。
名前も知らない立場だけの関係。学校の屋上でしか会わない希薄な
その理論を逆に返すと、深く付き合わなくていい気軽さがあり、後輩の立場からすると心地いい。
授業を何となくサボりに屋上に逃げ込むと、必ずいる変な人。
背中の中程までかかる黒髪を靡かせて億劫そうに煙草を吹かす不健康な人。
耳元を伸びた髪で隠しているが、よく見るとピアスの穴がエグい個数空いている怖い人。
けれど、誰よりも自由で、誰よりも綺麗な――初恋の人。
「やあ、後輩」
「どうも、先輩」
クソも覇気のない挨拶、ふにゃりと適当に緩んだ表情。微妙に汚らしさの残った屋上。
堕落の極みとも評せるだろう空気で、今日も夏の空を見る。
本来ならば、学生である二人は教室で授業を受けていなければならないのだが、当然サボタージュである。
授業中、静寂な空気でぼんやりと過ごす時間は正しく至福と言ってもいいし、何より今日は雨じゃない。
少なくとも、後輩はこの時間を学校の授業より数倍大事にしていた。
学校の屋上で二人きり。されど、甘酸っぱいロマンスは欠片もない。
ぐるりと頭を回して、後輩は先輩へと目を向ける。
この関係のいつからだろうか、と。自問自答をしても、明確な回答は脳内で打ち出されず。
軽く溜息をついて、後輩は横にいる先輩に問いかける。
「相変わらず冴えない顔ですね、整形した方がいいですよ」
「はっはっはっ」
「全く感情のこもってない笑い声やめてくださいよ、怖いです」
「面白くないジョークを聞いて道化を振るえる程、私は役者ではないからね」
青空には雲が多めで、絶好の快晴とは到底言い難い。
風こそ気持ちいいが、視界に映る青は白に塞がれがちであるからか、気分もいまいち上がらない。
それでも、後輩はこの一瞬を五十分の授業より大事だとはっきり言えるだろう。
例え、夏の日差しが燦々と照ることになろうとも、だ。
初恋の人と一緒に見る空模様はぶっちぎりで最高だから。
恋に浮かれた馬鹿にとって、それだけでよかった。
「今日もサボり? 出席日数は大丈夫なのかい?」
「そこらへんはちゃんと計算してサボっているので。こう見えても、適度に頭がいいんですよ、僕」
「自分で頭がいいって言う人の言葉は信頼ないねぇ」
「ノートを取ることに集中力捧げてる馬鹿よりはましですよ、まし」
もっとも、俯瞰的な第三者から見ると、両者共に五十歩百歩だ。
勉強か、色恋か。集中力を向けている方向が違うだけでしっかり馬鹿である。
それがわからない程、呆けてはいないはずだが、後輩からするとどうもかっこつけたくなるのはご愛嬌だ。
「……まーた煙草増えてませんか? この前、禁煙宣言しませんでしたっけ」
「そんなの撤回だよ撤回。煙草くらい好きに吸わなきゃやってられないよ、この浮世は」
「なんですか、その言い回し。難しい言葉を覚えてイキるのやめてくださいね」
「君は本当に口が悪いなあ。私じゃなければ泣いちゃうやつだよ、それ」
そう言って、先輩は呆れたように笑う。この人はいつもそうだ。
大抵のことはどうしたこともないと言った風に流してしまう。
後輩自身、先輩の大らかな態度に甘えてしまっているという自覚がある。
「全く、君はその悪い口さえ矯正したらモテると思うんだけどね」
「好きでもない赤の他人大勢に好かれたって何も嬉しくはありませんよ」
「世の人間大多数に喧嘩を売るような言葉だねぇ」
この口の悪さが治らない元凶である先輩は、くるりと指に挟んだ煙草を器用に一回転回してけらけら笑う。
別に、いいのだ。誰彼に好かれるとか、称賛の眼で見られるとか。
ただ一人、下らないと笑い飛ばしてくれる先輩がいれば、それだけで後輩は満足だった。
「まあ、君がどんな人間に好かれようが私にとってはどうでもいい。遠い外国の国際情勢ぐらいに、ね」
「そこまで言われると何かムカつきますが、まあ流します。確かにどうでもいいですし」
「そうだろそうだろ」
「そうですそうです」
やはり、いい。適度に晴れた空の下で先輩と二人きり。
かといって面倒くさいロマンスはない。嫉妬や恋情はちょっと今は重すぎる。
中身のない会話を適当にするぐらいがちょうどいい。
「それはともかくとしてだな、君は勘違いしているようだが、私がタバコを吸うのだって立派な理由があるんだよ」
「しょうもない非行じゃないんですか?」
「あのねぇ。私はこれでも品行方正優等生なんだよ」
「授業はサボるし煙草は吹かすし耳はピアス穴たくさんなのに」
「正論で先輩を追い詰めるのはやめてくれ。後輩ならもっと立てるべき所があると思うんだけど」
「下半身のアレですか」
「安易な下ネタかい、私だから軽く受け流してるけど、普通なら一発アウトだよ?」
こんな時間がずっと続けばいいのに。
この瞬間だけを切り取れたらいいのに。
たられば、だ。仮定を何重にも重ねた青臭い願い事だ。
「ああ、話が逸れたね。私が煙草を吸う理由は――――」
けれど、いつかは終わってしまう時間である。
「――――死にたいからさ」
それは思っているよりもずっと早く来るのかもしれない。
明日か、明後日か。一週間後か、一ヶ月後か。
先輩の一存次第で幾らでも決まってしまう。
「まあ、とはいってもちょっとした衝動程度のものだけどね」
「…………」
「どうしたんだい、後輩。そんな呆けた顔をして」
「いや、だって」
「そこまで驚くことでもないだろうに。人間生きていて死にたい〜ってなることなんて結構な頻度であるだろうに」
笑みを見せる先輩はいつもどおりだ。何の変哲もないだらけた態度に短くなった煙草。
ただ 一瞬だけ。その横顔にほんの少しだけ疲弊が見えたのは気のせいだろうか。
「そんな顔をしないでくれよ。深刻という程でもないから君が気負う必要はない」
終わらない、終わらせない、終わりたくない。
いつかはなくなる。先輩が卒業したら、この屋上で気ままに過ごす時間はなくなってしまう。
永遠に続くことはありえない。わかりきった答えだ、再確認するまでもなかった。
「まあ、そうだな。君の口の悪さで例えると、だ。“クソッタレな長い人生より、好きに生きる短い人生の方がいい”」
「それじゃあ、先輩は人生がつまらなくなったら」
「死ぬだろうね。面白くもない人生なんて価値がないからなぁ。だって、そうだろ?
つまらない、苦しい、そんな不純物ばっかりで溢れた人生を過ごすとかマゾなのかよって思わない?」
「でも、先輩は生きている」
「君とこうやって下らない言葉をぶつけ合うのが思いの外楽しいからね」
「先輩の中で僕は一応生きる理由にはなっているんですね」
顔には出さないが、ちょっとだけ嬉しい。
自分が彼女の生きる理由の一つになれるぐらいには重みになっていたことが、柄でもなく嬉しかったのだ。
こんなのキャラじゃないとは自覚しているが、仕方がない。
「そんな訳で煙草は遠回りの自殺さ。人生短くしようと頑張って努力してる象徴だね」
「長く生きたくないんですか?」
「生きたいと思うかい? 生きた分だけ身体も精神もボロボロになっていく。
先々の幸せなんて保証はされていない上にいつなくなるかわかったものじゃない。
後輩、私は幸福なまま死にたい。不幸に落とされるよりも早く、死にたいんだ」
「それなら! それ、なら……!」
だから、今の自分はきっとキャラ崩壊だ。
今からこっ恥ずかしい、後々顔を赤くして悶え苦しむくらい青臭い言葉をぶつける自身のことを考えると頭が痛くなる。
「僕が、飽きさせない。卒業までとかケチくさいことなんて言わない。長くて最高な人生送れるように、懸けます。
好きに生きて楽しい、それでいて長い人生を保証します」
できることならば、もう二度と言いたくない。
こんな言葉、告白みたいじゃないか。間違ってはいないけれど、自覚してしまったらもうおしまいだ。
「告白みたいな言葉だね」
案の定、先輩からは予想通りの指摘が飛んでくる。
友人が見たらゲラゲラと笑われるであろう直球の告白。
けれど、ここで言わなければずっと後悔する。
やらないで悔やむよりはせめて、やって悔やみたい。
「…………でも、悪くはないかな」
「へ?」
「何を呆けた言葉を出してるんだい? 存外に私もロマンスとかそういったものには興味があるんだ」
先輩は煙草を吹かしながら感慨深そうに言葉を紡ぐ。
浮かべている表情は嬉々としていて、口元はだらしなく緩んでいる。
「君がそこまで言うなら見せてほしいな。私の人生を楽しくしてくれるように」
そして、先輩は勢いのままに後輩へと唇を重ねた。
後輩の眼が見開かれ、ただただ動揺する。
突然過ぎて、何が起こったか理解するまでに数秒間かかってしまった。
今となっては、口元に広がった仄かな温度だけが確かに残っている。
「これは先行投資だ。期待しているよ、後輩」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべ、先輩はひらひらと手を振って屋上から立ち去っていった。
残されたのは尚も呆然とする後輩だけ。未だ表情が驚愕から戻らない。
最後の最後まで底意地が悪く、人に希望を持たせるのだけは一流だ。
――そうして、先輩は逃げるように死んでいった。
漫画のように、アニメのように、劇的な物語なんてない。
交通事故。見通しの悪い交差点で先輩は自動車に撥ねられて死んだ。
何の前触れもなく、ただ偶然が重なっただけの終わり。
人は、死ぬ。そんな当たり前の事実を、後輩は押し付けられた。
(実感、湧かないんだよねぇ。頭はわかっているはずなのに、心が追いついてこない)
葬式にも行った、冷たくなった先輩を見た。
いつも浮かべていたシニカルな笑顔もない無表情の彼女。
青白く、温かみのない肌色は、彼女が死人だっていうことを嫌でも認識させられる。
先輩がいなくなった後も、後輩は平常通りに日常を続けた。
人一人が死んだ程度で世界は変わらない。特に、他者との交流が乏しい先輩な尚更だ。
そんなものだ、と。割り切れる冷静な自分が嫌だ。
葬式でも流れなかった涙は目元に溜まっていない。
こんなにも薄情だったのかと自問自答しても明確な回答は得れず。
今もこうして未練がましく屋上でサボタージュという訳だ。
当然、一緒に授業をサボっていた先輩は死んでしまったので、一人きりだ。
この屋上に、初恋の残滓だけはまだ残っている気がするのはきっと、感傷である。
(情けない奴。どれだけ想おうが、もう取り戻せないのに)
無造作に制服のポケットに手を突っ込んで取り出したのは、先輩がいつもつけていた銀色のピアス。
少女がつけるのには似合わないごつい形状は、不思議と先輩にだけは似合っていた。
遺品として譲り受けたそれを、後輩は強く握り締める。
強く、強く、手の皮に痕が付くくらいに強く――想う。
「――――まだ、だ」
自然と口から漏れ出した言葉は胸の内から出た本心だ。
この青春を、この刹那を、この初恋を、全部取り戻す。
そうできたらいいのに、と。叶いもしないたらればを何度も言葉に出して繰り返した。
あの日くれたものに対して、まだ何も返せていないのだ。借りっぱなしは癪に障る。
後輩は言い訳染みた徒然なる思考を重ね、もう一度囁くように吐き出した。
「まだ、だ」
そして、掌で転がしていたピアスを耳に寄せて押し込んだ。
予め開けておいた穴に通して、そのままそっと手を離す。
痛みでさえ、愛おしく感じてしまうのはきっと、狂っているからなのだろう。
もう離さないし、逃しはしない。例え、何があろうとも。
「何にも、終わっちゃいない」
最後に嗄声で呻くように呟いて。後輩は屋上をあとにした。
心の中で轟く想いを抱えたまま、中途半端に終ってしまった初恋を秘めたまま。
後輩は、この冷めきった世界から抜け出した。