今、あなたの目に映るものはなんですか?
「っ!」
声なんて、聞いたことがない。
俺は、聖女の声も、勇者の声も知らない。
それに気づいた瞬間、異常に気づいた。
「うわ、わああっっっ!?」
椅子から転げ落ちて必死に聖女から離れる。
否、聖女だったものから逃げる。
聖女は人のものとは思えない整った顔立ちをしていた。
当たり前だ、人じゃない。
聖女は日本人にはありえない輝くような銀色の長髪をしていた。
当たり前だ、人じゃない。
聖女は人と信じられないほど滑らかな白い肌をしていた。
当たり前だ、人じゃない。
聖女の十代後半程度の外見は最初に表に出た三年前から一切変化がない。
当たり前だ。
マネキンが年をとるわけがない。
「ひ……っ!」
肩が重いのも当たり前だ。
俺はずっと、このマネキンを背負って動いていたのだから。
声が聞こえないのも当たり前だ。
勝手に話していると思い込んでいただけなのだから。
入り込んで人形遊びをする子供のように、俺も、職員も、全世界の人がマネキンを人間だと思い込んでいた。
元々勇者も聖女も異世界の存在を証明してはいなかった。
勝手に帰ってきたといっていた、とこっちが勝手に思い込んでいた。
マネキンを並べて、世界中の人間が。
「ぁ、ぁ……ぁぁぁああああっっっ!?」
生理的な嫌悪感、わけのわからないものに対する本能的な恐怖が全身を襲う。
逃げないと。
どうしてそうなったのか、とか、どういう仕組みなのか、とかはどうでもいい。
このマネキンから逃げないと、俺も身投げさせられる!
「――っ!」
椅子を蹴飛ばし、マネキンを背負って走り出す。
できる限りあの聖女から逃げて、逃げて、逃げないと!
庁舎を出ても全力で駆け続ける。
周囲の人の奇異の目も気にならない。今は逃げないといけない。
「っ」
バランスを崩しかけ、マネキンを背負い直す。
両手が後ろに回っているせいで走りにくいのだ。
――申し訳ありません
聖女の声が聞こえた。
「気にすることはないですよ」
そう応えてもう一度足を前に――
「うわあぁぁああぁぁああぁっっっ!?」
なんで!?
背負ったモノを投げ捨てる。
なんで、どうしてこんなモノを背負っていた!?
「あああぁぁぁああぁぁああぁぁっっ!!」
皮を剥がす勢いで背中を掻く。
手が届かない部分もどうにかしようと地面をのたうち回って背中を擦りつけた。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!
痛みも血も気にならない。
ただただ、あのマネキンが触れていた部分を剥がそうと腕も地面に擦りつける。
「ぁ……ぅ……ぁあぁ」
逃げないと。
逃げないと逃げないと。
逃げないと逃げないと逃げないと。
走って逃げてもダメだ。マネキンを背負ってしまう。
もっと遠くに、もっと早く、絶対にアレがついてこれない場所まで。
車道を行き交う車のライトがマネキンの顔を照らした。
目が合ったような錯覚がした。
「ひっ……」
転ぶように駆け出す。
離れないと、アレからできる限り遠くまで!
人気のない道を走り、光に向かって走り出す。
歩道を抜け、そのまま車道へ出る。
「あぁあ……ぁあ……あひっ」
一周回ったせいかひきつった笑みが浮かんだ。口の端から涎が垂れているのが自分でもわかる。
そうだ、いい考えがある。一番遠くに逃げよう。それでいい。
トラックが来ているけど、何も問題はない。
トラックに轢かれれば異世界に行ける───