6.アリッサ ―盟約暦1006年、秋、第5週―
※時間が進んで、葬儀の夜(第一章の最後)からの続きになります。
レッドドラゴン城の大塔は地下を含めれば五階層になっている。地下と一階には倉庫、兵士たちの詰め所、地下牢、召使いたちの部屋があり、二階には大広間がある。三階には階段と通路に面して五つの部屋があり、四階はいわゆる屋根裏部屋のようになっていて、そこから梯子を使って屋上に出ることもできた。
アリッサは大塔の三階にある部屋の一つに入ると、後ろ手に扉を閉じて寄りかかった。そこは、アリッサに自室として与えられた部屋である。葬儀の後の夜会は奇襲の報とステンタールの登場によって終わりを告げた。その混乱の中、アリッサは迎賓館を出て部屋まで戻ってきた。
ちょうどエリオと話していた時にステンタールが現れたのは不運としか言いようがない。何を話していたのか、と追及されるのは免れまい。アリッサが正直に話したとしても、もしエリオがステンタールの不信感を煽るような嘘をついたら、彼は信じるかもしれない。
「はぁ……」ため息が、手にした蝋燭の火を揺らした。戸棚にワードロープ、ベッド、机、椅子が一つずつあるだけの狭い部屋だが、それでも蝋燭一本の弱々しい照明では照らせない。アリッサは無言のまま指先を小さく動かした。部屋の天井付近に光の球が現れて室内を明るく照らす。
〈光球〉は初歩的な魔術なので、アリッサには呪文の詠唱も身振り手振りも必要ない。蝋燭の火を吹き消して、燭台を机の上に置くと、椅子にもたれかかる。
こんな事になるなら、酒など飲むのではなかった――と、アリッサは後悔した。酒は思考力と判断力を低下させ、魔術の制御を難しくする。今、敵の魔術師が攻撃を仕掛けてきたらランスベルに頼るしかなくなる。
アルガン帝国の魔術師がランスベルを襲撃した事と、帝国の侵攻にはどんなつながりがあるのか。
エリオの果たす役割は何なのか。ただ捕まるためだけにファランティアへやって来たとは思えない。
そもそも、帝国の狙いは何なのか。魔獣根絶を掲げる帝国にとって獲物になるような魔獣はファランティアにはいない。
(まさか狙いは魔術師……私たち?)
次々と疑問だけが沸き上がってくる。アリッサは立ち上がると、身体を締め付けるコルセットを外して借り物のドレスを脱ぎ、下着姿のままベッドに倒れ込んだ。そして毛布を体に巻き付ける。
(そのためだけに……ありえない、と思いたい……駄目だ。少し休まないと……)
しばらくしてアリッサが目を覚ますと、酒はだいぶ抜けていたが、気分はあまり変わらなかった。部屋の中は暗闇なので再び〈光球〉の呪文で明るくする。窓の戸を押し上げると、外はまだ暗く、夜明けまで時間がありそうだった。冷たい夜風に身震いして窓を閉める。
陶器製の水差しから水を杯に注いで飲むと、ただの水がまるで魔法の薬のように気分を良くしてくれた。それから机の上を適当に片づけて、チョークで魔術円を描く。〈遠目〉の魔術は久しぶりなので、間違いがないか念入りに確認してから、必要なものを取りに部屋を横切って戸棚の前に立った。
一番上の段の右隅に、チョークで書いた魔術円と水晶の欠片を組み合わせた小さな結界がある。アリッサは意を決して、その中に置いてある陶器製のコインを手に取った。
この陶器製のコインは、竜舎を襲撃した魔術師が残した焦点具である。これを利用すれば、逆に相手を探ることも可能だ。しかし相手はまず間違いなく〈選ばれし者〉である。迂闊に手を出したくなかったが、もうそんな事を言っていられる状況ではない。
〈選ばれし者〉とは、九つある魔術分野にそれぞれ一人ずついると言われている特殊能力者の事である。生まれながらにして強大な魔力通路を持っているので、魔術師としてもまさに〈選ばれし者〉と呼ぶにふさわしい才能を持っているが、力の行使に魔術師である必要はない。強大な魔力通路は魔術と同じ原理で発現する特殊能力のためにある。魔術師としての修練の果てに覚醒するようなものではなく、生まれついてのものだと言われている。過去には、自分が〈選ばれし者〉という自覚のないまま生活していた例もある。
だが、この陶器製コインを焦点具に使うというやり方は確実に魔術師のものだ。相手の〈選ばれし者〉は魔術師としての知識を持っている。であれば、こちらが〈遠目〉の呪文で覗き見ている事に気付かれるかもしれない。
竜舎の襲撃があってから、アリッサはランスベルに協力して次の襲撃を警戒していたが、何事もないまま葬儀を終えられた。このまま何もないなら、帝国の魔術師の件はアリッサの胸の内にしまっておいても良いとさえ思っていた。ランスベルがファランティア王国とアルガン帝国という国同士の対立に発展するのを危惧したのと同じ理由によってだ。
だが、アルガン帝国はファランティア王国に侵攻を始めた。戦争状態になれば再び敵の魔術師が動き出す可能性は高い。少しでも敵の情報を得られる機会があるなら活用して対策を講じるべきだとアリッサは決心したのだった。ファランティア王国に恩義を感じているのは事実だが、再び帝国の手が仲間の魔術師に伸びようとしているなら、彼らを守ることは自分の責務だ。
アリッサは陶器製コインを魔術円の中心に置いた。机の前に立って指で印を結び、魔力通路を開いて自身から魔術円へ魔力を注ぎ込む。身振り手振りを加えながら呪文を唱えていくと、目を閉じているにも関わらず、第二の瞼が開くように視界が開けてきた。
〈遠目〉の呪文が成功して見えてきた光景に、アリッサは驚いてびくりと身を揺らした。
そこは、この焦点具を使う魔術師の部屋のはずだった。〈遠目〉の呪文では、視点は移動できないが周囲を見回すことはできる。色々な香草を焚き、薬品を調合したせいで土色に染まった壁。もとは鮮やかな赤だったが、緑色が混じって気味の悪い模様になってしまったタペストリー。天井から吊り下がっている数々の薬草は干からびて茶色の根のようになってしまっている。
たくさんの書物が収められた書架には透明なガラスの扉が付いている。東方製で、この部屋では最も高価な家具だ。天蓋付きのベッドよりも、銀の枝が付いた燭台よりも、金銭的には価値がある。中に収められた書物はいわずもがな。
机の上には見覚えのある道具が乱雑に置かれ、その向こうの窓の外にはアリッサが手入れしていた薬草園が見えた。薬草園は放置されているようで、ほとんど窓を埋め尽くすように植物が茂っている。
時を経てはいるが間違いなく、エルシア大陸のブレア王国にあったサンクトール宮の、アリッサの部屋だ。
違いがあるとすれば、アリッサと夫のウィリアム、そして生まれたばかりの息子アベルが描かれた肖像画が壁から外されているくらいだ。その場所は四角く、元の白い壁の色が残っている。
若いアリッサが九年を過ごしたその部屋は、一二年を過ごしたファランティアの部屋よりも濃密な思い出に溢れている。
アリッサがブレア王国の宮廷魔術師としてサンクトール宮に召し上げられたのは二〇歳の時だ。異例の若さでの抜擢ではあるが、アリッサはすでに〝異例の若さ〟に慣れていた。魔術大学でも、魔術研究院でも、アリッサは常に〝異例の若さ〟で結果を残してきたからだ。
そして宮廷で若き王子ウィリアムと出会い、結婚して、ウィリアムは王に、そしてアリッサは王妃になった。王妃になってからもアリッサは使い慣れたこの部屋を使い続けたいと望んだのだが、庶民であった彼女にはそれがサンクトール宮に騒動を巻き起こすとは想像できなかった。王妃の部屋を中心に、王の部屋やその他諸々の部屋がすべて引っ越しする事になってしまったのだ。アリッサがそれに気付いた時にはもう引っ越しが始まっていて、〝やっぱり止めます〟とは言えない状況となっていた。
その時の騒動を思い出すと笑みが浮かんだが、直後にそれは凍り付く。
ブレア王国は魔術師の国とも呼ばれ、魔術師を組織的に育成していた。魔術大学や魔術研究院だけでなく、個人の魔術師が弟子を取って育成する昔ながらのやり方も支援していた。そのため、アルガン帝国の拡大が始まり、各地で魔術師が弾圧されるようになるとブレア王国に逃げ込む魔術師は多かった。だから帝国の標的になるのは必然だったと言えよう。
ブレア王国で学んだ魔術師の多くは、魔術は人間の幸福のためにこそ使われるべきだという理念を持っていたが、それゆえに自滅したと今のアリッサは知っている。
アルガン帝国と国境線が接して小規模な戦闘が始まったにも関わらず、ブレア王国では帝国の兵士、つまり人間に対して魔術による攻撃の是非が議論されていたのだ。当時のアリッサは、魔術を戦闘に使うべきではないという立場であった。
ただし、ここで議論されていたのは火の玉を投げつけたり、冷気の光線を投射したり、電撃を放つ程度のものではない。その程度なら弓や剣を使うのと同じ事だからだ。ブレア王国には研究の過程で発見された、それを攻撃に転用した場合、簡単に大量の人間を殺せる〝禁呪〟とされているものがあった。
その頃のブレア王国と、今のファランティア王国は少し似ているとアリッサは思う。アルガン帝国の強さは一つの思想の下に一致団結した迷いの無い動きにある。それに対してブレア王国もファランティア王国も、様々な立場や考え方を許容しすぎている。非常時においてさえも。
そして当時のアリッサと、敵の魔術師を殺せなかったランスベルも似ている。戦うべき時に力を使うことを躊躇い、守るべきものが何かを見失った。それがより酷い結果を生むのだ。
アリッサの場合は、都が火の海に沈んでブレア王国が滅亡するという結果を生んだ。それだけでなく、ウィリアムとアベルを人質に取られ、アリッサは帝国の魔術師に協力する事になってしまった。
魔術師狩りをやらされていた頃に一度だけ、ブレア王国の都を訪れた事がある。かつて賑やかだったそこは建物の残骸が残っているだけの廃墟であり、かろうじて形が残っているのはサンクトール宮くらいだった。それ以上、見ていることができなくて逃げるように立ち去ったが、もしサンクトール宮の中まで調べていたら、今まさに見ているようにアリッサの部屋が残っているのを見つけられたのだろう。
アリッサは思い出深い自分の部屋が見知らぬ他人に使われている事に気持ち悪さと怒りを感じた。だが、〈遠目〉では視るだけで手の出しようがない。
(ウィル、アベル……いや、今は敵の手がかりを探さないと……)
アリッサが部屋を探っていると、扉が開いて一人の魔術師が入ってきた。目深に被ったフードを背中に落としてローブを脱ぎ、ベッドの上に投げる。ローブの下から現れたのはまだ若い男性だった。目元を隠しているマスクの紐を解いて外す。
目が合ってしまうと、相手に〈遠目〉を気付かれてしまう危険性は高まる。それでもアリッサは危険を冒して相手の顔を見ようとした。
その時、魔術師はアリッサに気付いて振り向いた。そしてサッと手を伸ばす。自分の部屋を見た時以上の衝撃を受け、アリッサは驚きのあまり〈遠目〉を中断してしまった。
そして身動きできないでいるアリッサの眼前で、机の上の魔術円からゆっくりと指が生えてきた。まるで水面下から手を伸ばしてきたように。その手は陶器製のコインを掴み、ぐっと握り込むと、そのまま机の下に潜って消えた。
このような芸当は、どんな魔術師にもできる事ではない。アリッサの見た魔術師が〈選ばれし者〉なのは間違いなかった。しかしアリッサが衝撃を受けたのは、そんな事に対してではない。
振り向いた魔術師の顔には、幼い頃に別れた息子、アベルの面影があったのだ。




