魔術師 2
和川奈月は近距離戦闘においては実に優秀な魔術師だ。拳は早く、蹴りは鋭く、なにより体術センスが並みではない。しかしそれも天性のものというよりは、純粋に努力の賜物と言えるだろう。
不知火は、彼の血の滲むような努力を目の当たりにしてきていたおかげで、それが理解できる。和川奈月の体術については全てが努力の結晶だ。あらゆる動作から繰り出される攻撃は全て、不知火や、師匠ともいうべき存在によってつくりあげられた、言わば共同作業の産物。故に理解が深く、故にその努力を認められる。
そして故に、最善のアシストを行える。
不知火はやけに冷静だった。戦闘序盤の恐怖が嘘のようだ。心穏やかに、静かに戦況を見つめれば、先程は見つけられなかった最善が見えてくる。
和川の攻撃を軽々避けるリオウに向けて、不知火は魔術を放った。威力はないが速さと正確性を重要視して発動された魔術、〈石火〉。手のひらから火を纏った石が生み出され、それは魔力によって射出されリオウへと向かっていく。
「どういうつもりだ」
リオウは苛立ちを見せる。
〈石火〉はリオウに向けられて放たれたが、リオウに当てる為に撃たれた訳ではなかった。リオウが避けられる位置に、そしてリオウに当たらない所に、実に正確に投石されたのだ。
リオウにはそれが分かり、そしてそれが苛立ちを生んだ。
不知火の考えはこうだ。
(当てる必要はない。ただ正確な所に撃ち、リオウ=チェルノボグの攻撃が和川奈月に向かないようにすればいい)
不知火は、和川がダメージを受けることを想定しているのではない。
和川が明確な隙を作れば、リオウの魔術は不知火自身に向くだろう。和川と違い不知火は手負いだ。治療を施したとはいえ満身創痍はそう易々と改善するものではない。だからこそ、和川は盾であり、和川の隙は不知火の死を意味する。
(当てようとするよりもまず、和川奈月のアシストに徹する。和川の抵抗を邪魔することなくリオウの行動を制限することが第一)
不知火オーディン大和は正確に、素早く、それだけを遂行する。
――しかし、不知火の思惑は和川には分からない。実戦の経験値の少ない和川にとってみれば、不知火の意図などまるで理解できない。ただ分かるのは、敵の攻撃が不知火に向かないようにしなければならないことだけ。
「どこ見てんだシラガ!」
叫びながら和川は最速の拳を振るう。リオウに届かなくとも幾度も放つ。時間がない。息を乱しながらも撃つ。撃つ。撃つ。
――リオウは避けていた。だが、避け切れないと感じる瞬間が増えてきた。避けられないことはないが、先程よりは神経を使う。厄介な投石が自分の動きを阻害する形で何度も邪魔をしてくるからだ。
リオウ自身防御魔術は施しているが、低威力な攻撃だからと構わず、強引に突っ切る場面ではない。
魔術師リオウ=チェルノボグの勝利条件はたった一つ。時間が来るまで耐えることだけ。そうすれば相手は勝手に力尽き、ゲームセットだ。
だが、白髪の魔術師の脳裡に数時間前のことがよぎった。
――この黒髪の魔術師は、何故、傷つかなかったんだ?
見た所、強力な防御魔術を掛けられた様子はない。仮にそうだったとしても、〈衝撃〉の連続に全くの無傷はあり得ないだろう。
その正体が、知りたくなった。
知的好奇心ではない。万が一の保険だ。
リオウは入念な準備を欠かさない男だ。そして、何かあった時の為の対策もしていた。面倒だが多くの魔術師も雇った。プロの便利屋は一人か二人。あとはならず者、つまり、何かあってもすぐに無慈悲に切り捨てられるよう、自分とは一切関係のない人間だけをランダムに選び雇った。そこまでする男だ。目の前の黒髪が何者か分からない今、未知の危険がある可能性も捨てきれない。ならば、それを放っておくのは最善か。
いいや違う。
保険はあればあるだけ安心だろう。そこに掛け金がかかろうが、万が一を考えるならば。
「その危険、確かめさせてもらう!」
リオウは一気に攻勢に転じた。金髪による厄介な邪魔も全て魔術で弾いた。速さにおいて優秀な〈石火〉を、その点で劣る筈の〈衝撃〉で消し飛ばす。
その間も乱れるように向かって来る黒髪の少年の拳に対しても、リオウは往なし、自身の攻撃を確実に当てるタイミングを探る。
敵も人間。隙などいくらでもある。例え妨害があろうと関係はない。守りに入っていた先程とは違い、攻撃的になったリオウはそう簡単に止められない。
その一瞬はすぐにやってきた。
時間にして二秒。不知火の攻撃が介在しない瞬間があった。そしてその二秒は、和川の攻撃を易々と避けられるものとも重なった。つまりそれは、リオウがその力を最大限発揮することの出来る二秒。
和川にとっては、致命的な二秒。刀身を数千本も向けられたような感覚が、その瞬間和川奈月を襲う――そして。
『白雪を散らせ――〈衝撃波〉――』
それは、詠唱を伴った〈衝撃〉だった。
地響きのような重く分厚い音は、三尺玉の花火が耳元で爆ぜたような圧で、大魔術廃絶部の屋上を跋扈した。
だがその影響が、建物そのものや、不知火に襲うことはない、
その巨大な衝撃は圧縮に圧縮を重ね、高密度の砲弾となって襲いかかったのだ。
そう。和川奈月。ただその一人に向けて――
爆音の余韻が残る中、白髪の魔術師の表情は濁る。
「ふざけるな」
リオウ=チェルノボグは吐き捨てた。いや、激昂と言えるのかもしれない。
無理もない。
殺してしまってはここまでの計画が無駄になる為、殺傷能力は抑えた。とはいえ、その威力は先程までの魔術とは比べ物にならない。死なない程度だったとしても、人の躰というのは相応の外傷を負うものではないのか。
にもかかわらず、この屋上で、一人の男は立ちあがった。
息を乱し、躰を震わせながら、しかし――
無血、無傷のままで。
「どういうことだ……何故立ちあがることが出来る……」
リオウーチェルノボグの声は震えていた。恐怖ではない。未知への畏怖でもない。単純な怒りとも違う感情のようにリオウは感じていた。
和川奈月はその場で立ちあがった。最終ラウンドを戦い抜いたボクサーのようではあったが、それすらもリオウは信じられない。
少なくとも、地面に伏すだけの威力はあった筈だ。威力を抑えたとはいえ、この魔術はボクサーのパンチとは比べ物にもならないなのだから。
和川はそのふらつく足に強引に力を込め、雄叫びを上げながら曲がった背筋を伸ばした。歯を食いしばりながら、顔中から噴き出す汗を長袖ワイシャツの袖でガシガシと拭き、大きく息を吐いてから叫ぶ。
「効かねえ! テメェの攻撃は、全っ然! 俺には効かねえ!」
構わず出続ける汗を、和川は頭を振って飛ばした。
リオウは、怒りとそれ以外のいくつもの感情が綯い交ぜになったようだった。数多くの戦場を経験してきた彼であっても、この光景だけは信じ難かった。いや、絶対に不可能という訳ではないだろう。自分の実力以上の魔術師と対峙した時には、この攻撃が軽々と往なされた経験もないわけではない。
だが、この少年にそれだけの実力があるだろうか。そもそも、往なされた感覚はリオウにはない。防がれた、とも違う。当たったことは間違いないのだ。なのに、目の前の黒髪の少年には、まるで短距離走を終えたばかりのような『余裕』があった。五分もすれば息切れも治まって、楽しく友人との会話でも始めそうな異様さがあった。
「何者だ……お前は一体何なんだ」
思わず、リオウは訊ねてしまっていた。不意にやって来た異常事態に、感情のコントロールが上手くいっていない証拠だ。
「何故傷がつかない。何故血を流さない。何故立っていられる。……何なんだお前は」
冷淡な反応を見せつけてやりたいのに、それが出来ない。リオウには妙な汗が流れた。目の前の男に関しての可能性は、とうに浮かんでいたからだ。
「どうだい。その説明、僕がしてあげようか」
戦闘中、やや離れた所からリオウの邪魔をしていた金髪の魔術師、不知火オーディン大和が割って入る。
「いいや。説明の必要はないのかも知れないね。その様子だと、思い当たるものはもう頭にあるのかな」
不知火は不知火で息を乱す。魔術発動の連続で、既に尽きかけている魔力をさらに削ったからだろう。
「まさか、そんなものはあり得ない。きっとそう思っているんだろうね。リオウ=チェルノボグ、いいことを教えてやろう。君は亜里沙ちゃんのことを調べ上げ、そのご両親のことまで知っていたね。そこは素直に驚いたよ。僕もまさか、亜里沙ちゃんという存在まで今回の君のテロ計画に含まれているとは思わなかった。……けどね。君はもっと、今回の件を対処することになるであろう魔術師を徹底的に調べておくべきだった。極東アジアの取るに足らない魔術師だと侮ったのかな。驕りも甚だしい。日本魔術協会に、君が侮っていい魔術師なんて一人もいないことを教えてあげようか?」
そこまで言って、不知火は徐に歩き出し、和川奈月の隣で立ち止まる。
「彼、すなわち和川奈月という、僕らの秘密兵器をね」
リオウの手が、指が、ほんの僅かに動いた。魔術師、リオウ=チェルノボグの中には、現状を実現し得る存在について、一つ、思い当たるものがあったのだ。信じたくはないが、不知火の口振りと、目の前で起こっていることを踏まえて判断するならば、それはもう、頭ごなしに否定していいものではなくなっていた。
「まさか……貴様……」
リオウにはもう僅かな声の震えを隠せなかった。溢れる感情を必死に殺そうとしてもどうにもならない。
「ふざけるな。こんな所に、そんなものが、ある筈がないだろう!」
乱された心をねじ伏せるように拳を握り、リオウは喉をいじめるように叫んだ。
「貴様が、あの『神の守護者』の持ち主だとでも言うつもりか!」
不知火は短く、「ああ」と答えた。
リオウは小さく何度も首を振る。ありえない。ありえない。そう呟きながら、二歩、後ずさりをした。数分前のリオウからは考えられない、人間味のある弱さを見せた瞬間だった。
「何をそんなに怯える必要があるんだい? 君は嘉多蔵亜里沙を希少な存在だと言ったじゃないか。希少とはいえあるんだよ世界には。そして、信じ難いものが、現に、ここにね」
リオウはそれでも信じない。偽りだと叫びながら、不知火の言葉の一切を否定する。
『神の守護者』
それは、伝説と呼ばれる存在だった。
「信じられないのも分かるが、和川奈月のこの姿を見れば分かるんじゃないかな。君もそう思ったということは、『神の守護者』がなんなのか、知っているということだろうしね」
――神の守護者とは、魔術師の間で語り継がれる、とある力のことを言った。
世界には、稀に、ある特殊な力、特殊な体質の人間が現れるという。
魔術によって傷つかず、魔術の効果を受けず、魔術という名の全てを拒絶し遮断する。
対魔術において圧倒的かつ絶対的な耐性を持ち、対魔術最強の盾と呼ばれ、それ故に、この名で広く、魔術師の世界に知れ渡ることになった。
神を守りし存在、最強の守護者――〈神の守護者〉――と。
ではチートかと言うと、きっとそうではないわけで……。
 




