象るもの 4
息が苦しい。躰が脳の指令通りに動かなくなってきている。和川は自身の肉体とも戦っていた。
そもそもにおいて、近接戦闘は長時間の戦闘には不向きだった。特に、肉体の限界を強引に突き破る和川の戦闘スタイルは、消費する体力が並みのそれではなく、躰にかかる負担も通常の戦闘をはるかに超える。細胞の一つ一つが悲鳴を上げるかのような感覚で、数分の時間経過と共に本来の自分から遠ざかっていくことを実感しながら、和川奈月は戦っていた。
そこまでしているのだ。正式に協会所属の魔術師になってまだ日の浅い和川が、そこまで。
しかし白髪の魔術師、リオウ=チェルノボグは、余裕というものを失ってはいない。
最速を続ける和川に対し、その最速を上回る速さを、リオウ自身も実現し対処しているからだ。
体力の限界は当然両者共にあるだろう。だが、リオウ=チェルノボグに疲れの色は見えなかった。
もはやリオウは、一切和川に攻撃を繰り出さない。繰り出す必要もない、と感じているのだろうか。
対して、和川は速力を最大にして、怒涛の攻撃を繰り出す。時に拳を、時には蹴りを。頭突きなんかも織り交ぜてはいるのだが、当たる気配は微塵もない。
肉体と肉体がぶつかる音が辺りに響くことはない。聞こえるのは、勢いよく繰り出される攻撃が鋭く空を切り裂く音と、和川の咆吼。そして乱れる荒い呼吸音、ただそれのみとなっている。
「なあ、虚しくならないか」
リオウの声に嘲りが混ざる。
「差は歴然。これだけの差を見せつけられて、無駄な抵抗を続ける意味はないだろう」
「無駄……だと」
「ああ。どう足掻こうと計画に支障はない。順調そのものだ。手足をじたばたさせた所で、世界は変わらない。全てが無駄だ。意味などない。座して死を待て。足掻いた所で、結末は同じだ」
一介の魔術師が対抗するには高すぎる壁。島国が抗うには、深すぎる闇。
無駄だと言われれば、そうなのだろう。結末は、もしかしたら変わらないのかもしれない。
だが、しかし。
和川は攻撃の手だけは止めず、リオウを強く睨みつける。諦めはない。大人的な達観もない。ただ真っ直ぐ、目指す先は一つ。
「お前は、一人の女の子をさらわせた」
嘉多蔵亜里沙をさらった。
「魔術鉱石なんておかしなもんまで使って、でかいことをやろうとしている」
それは紛れもなくテロ行為だ。
「そんな奴を止めない理由があるかよ。この国に住む人達の笑顔と幸せと自由を壊す可能性がほんの少しでもあるなら、俺は止めたい! 止めなきゃならない! 俺は自分が生まれ育ったこの場所を、大好きな人を守る為に魔術師になったんだ。無駄だろうが俺はへこたれたりしねえんだよ!」
その言葉に、リオウは嗤った。
馬鹿げている、子供じみている、と
そして、その真っ白な素肌から、不気味な闇を纏った笑みが掻き消えた。一瞬にして、表情が曇る。
眉根を寄せた、と言っていいだろう。
「……馬鹿を言うな」
そのオーラは悪性を増して、
「この世界はそんなに甘く出来ちゃいない。誰かを救えば、その陰で多くの犠牲が生まれるのがこの世界の常だ。それを理解していないお前が、守るなんて言葉を気軽に口にしていいわけがない」
「なに?」
「守る……それは簡単なことじゃないんだよイエローモンキー。ちっぽけな世界で生き、平和ボケした日本人が、守るなんて重たい言葉を軽々しく言うんじゃない。世界の現実は極寒をゆうに超える。甘くないんだよ世界は。なんでもかんでも守れるのなら世の中はこんな腐っちゃいない。だからこそ、俺はこんな面倒なことまでしたんだ。腐った世界を変えるのは俺だということを教えてやる為に、俺は海を渡った」
何を言っているんだ、と、和川がリオウの言葉を再考する、その前に。
白い闇が周囲を支配するかのような空間で、一つの衝撃が破裂する。
それは爆炎。凶器と化した灼熱。破壊的な音。真紅の炎。光となって、屋上一帯を染め上げた。
篝火のような優しさはない。非情な悪魔が顔色一つ変えずに全てを蹂躙するかのような得体の知れない恐怖と、巨大な龍が無造作に吐き出した息のような荒々しさがあった。
バチバチと空気に弾けるその炎は、和川の皮膚へと強烈な熱を放射する。焼けてしまいそうだった。しかし、現状から想像できるような苦痛の表情が、和川には見えない。
当然だ。この魔術は、和川奈月に対して発動されたものではない。
そして、この炎を発動したのは、
「ったく、相変わらず無茶がお似合いだね。君は」
「遅ぇよ……、ばーか」
「慌てて来てやったのに、ばかはないんじゃないか?」
「だったらもうちょっと早く来いよ。大和」
和川が最も信頼する仲間、不知火オーディン大和。
リオウの魔術攻撃により深い傷を負った不知火は、顔に大量の汗を見せながらも、その金の髪を揺らして戦場に舞い戻った。
「ぐっ……っ!!」
苦しみの色を声に乗せ発する。その主は、白髪の魔術師、リオウ=チェルノボグ。
「お、おい、大和? ちょっとコレやりすぎじゃないか?」
やや狼狽する和川に、しかし不知火は表情を変えない。
「何を言っているんだい和川奈月。これでやり過ぎになるのなら、どれだけ楽なことか」
「?」
「来るぞ」
不知火の声と同時、
『〈衝撃〉』
炎の奥、かすかに聞こえる声。
刹那、大魔術廃絶部の屋上の一部を焼く炎が、一瞬の轟音と共に弾け飛んだ。
「!?」
「まぁ、これで終わるとは思ってないよ」
焼け焦げたコンクリートの中心に、白髪の魔術師はいる。
よれた衣服には大きな黒い穴がいくつもあき、間からは日の光を拒み続けたかのような真っ白な肉体を覗かせる。
「やってくれるじゃないか……、少年……」
絞り出したような声、という程苦しそうなものでもなかった。炎から抜け出した途端リオウの苦痛は終わったかのように、不知火には見えた。
「先程から醸し出しているその余裕で、見事なまでに僕の存在を忘れてくれていたおかげさ。おかげで傷は大方塞げたし、魔術の準備は滞りなく進められた」
「『〈紅〉』か。遠距離魔術の中で威力スピード共に優秀な魔術だが、それでも威力に欠ける。俺を殺す気ならば時間をかけてでも高威力の魔術を発動すべきだったと思うが?」
炎の中にあった苦しみが一転、飄々と話すリオウには違和感しかないが、圧倒的速さで魔術を放ち、〈紅〉を受ける前には一度も攻撃を食らわなかったような奴だ。今更この程度では驚かない。
そして、白眼視するリオウに対し、不知火はやはり表情を変えず、いや、僅かに口角を上げてこう答えた。
「殺す? いいや、悪いが、僕達に君を殺すという意思は最初からない」
「……何?」
「僕達の目的はあくまで、この国になんらかの魔術を仕掛けようとしている敵を止める、まあつまりは逮捕だよ。殺してしまっては目的も何も分かったものじゃない。ただそれだけだ」
リオウは呆れるように嘆息した。
「平和ボケもここまでくると狂気だな」
「なんとでも言うがいいさ。それが僕達のやり方だ」
「……いい加減にしてくれ」
夜は深く、リオウ=チェルノボグはやはり闇だった。
「こんな奴らがいるから、この世界は変わらない」
リオウの声からは余裕が消え、怒りが顔を覗かせる。
「俺のこの計画は貴様たちのような腑抜けた魔術師の為にあるのだと再確認した。せっかくだ。小休憩といこう。話してやる。この計画と、そしてお前達の絶望を。その上で抗ってみろ……その気が起きるかは、別だがな」
リオウの口から語られる計画とは……。




