その先には 2
パチパチと音を立てながら、炎は神田川と不知火を包み、十七階建てのビルの屋上から二人を柔らかく地面へと届けた。
「神田川さんを頼む」
不知火は、抱えていた神田川の体を和川に預けた。和川の隣にいる亜里沙の表情は曇り、空きテナントに向かう和川の側を離れず、追い掛けて行く。
空きテナントは別のビルの一階部分にあった。安い賃貸料金で一ヶ月という短い期間だけ貸し出すという、商店街の中にある『一般人向けのお試し店舗』のような所だった。今は誰とも契約していないのだろう。シャッターも下ろされず、一面ガラス張りで横断歩道の目の前に存在していた。
そのガラスを、和川は躊躇なく蹴り割っていた。緊急事態だ。医者に連れて行きたいが、協力関係にある病院は近くにはないし、魔術によって傷ついた人間に、ごく一般的な医療が対処出来るかは分からない。
和川は冷たい床に神田川を寝かせた。
唸るように喉を鳴らす神田川から、嘉多蔵亜里沙は目を離した。人が苦しんでいる姿は胸を締め付けられるものだ。
不知火が追いつき、空きテナントの中に入った。神田川の前で膝を着く。
「とりあえずどこが原因かを探る。和川、亜里沙ちゃんを外へ」
「一人で大丈夫か?」
「なんとかする」大丈夫、とは、言わなかった。
不知火は赤石を神田川にかけようとした。問題個所の探索だ。
しかし。
「やめろ……不知火。魔力を無駄にするな」
神田川が声を絞り出し、不知火の腕を、力の入っていない手で止めた。
「でも」
不知火が反論しかけて、神田川はかぶりを振った。
「事態の解決に……お前の力が必要だ。俺よりも、世界を救え」
咳込みながら話す神田川に、不知火は反論出来なかった。不知火に神田川を救う意思がないという訳ではない。正論だったのだ。一人の命と一国の平和なら、天秤にかけるまでもない。特に、不知火は事件の一端をたった今垣間見た所だ。なおさら、言い返せない。
「事態の収束に、全力を尽くせ」
歯噛みしながら不知火は頷いた。仕方がないんだと自分に言い聞かせながら、納得する以外になかった。
「では、とびきり強い結界を張ります。治療よりは随分魔力も節約できますし、亜里沙ちゃんも守れるかもしれない」
「嘉多蔵嬢と一緒にいろと?」
「はい」
「嫌がるだろうな」
「やむを得ません。ここからは、連れて行くよりよっぽど安全です」
「……まあ、お前を信じる」
「ありがとうございます」
不知火はテナントから出て、話しを聞いていた和川と亜里沙に目を配る。
「そういうことになった。いいかい? 亜里沙ちゃん」
腰を屈め、亜里沙と目線を合わせて、不知火は柔らかな声音で問いかけた。
亜里沙は和川を見上げる。和川は小さく頷いた。そして、亜里沙も力強く頷いた。
「わかった。それが一番いいならそうする」
「ありがとう。明け方までにはなんとか出来るように努力するよ。まあそれまでには、迎えも来るだろうけどね」
首を傾げながらも亜里沙は頷いて、小さな歩幅でテナントに入った。
「結界を張る。しばらくは出られない。不便はあるだろうけど、許してくれ」
一言断ってから、不知火は赤石を掴み、強固な結界をいくつも張った。
「おいおい、そんなに厳重にして大丈夫か? お前以外には外せなくなるんじゃ」
和川が訊くと、
「安心しろ。内側からなら比較的容易に解除出来る」
「そういうことか。ならいいけど」
「助っ人もいることだしね。その辺りは心配していないよ。こんな結界、アレにはなんてことないさ」
○
不知火オーディン大和は、商店街の目と鼻の先の駅の中にある小さな休憩スペースで、現状の報告を、和川と、そして携帯電話で繋いだ中部支部の松来にしていた。通信札でないのは、魔力温存等、理由はいくつかあった。
「まずは、中部支部近くのビルにある魔術鉱石について、あれはどうやら、全ての魔術鉱石に送り込む為の魔力を貯めておく、言わば魔力の貯蔵庫のようです。だから一際儀式場が大きく魔術鉱石も複数配置されている」
『貯蔵庫……ということは、何らかのテロ行為はこの中部支部で行われるってことかな』レスポンスは松来からだった。
「ええ、それなんですが、もしかしたら今回の事件は中部支部圏内でのみ起こっているのかもしれません」
『どうして?』
「探索範囲を広げてみましたが、中部支部圏外に魔術鉱石に類する魔力の痕跡は見つかりませんでした。もっとも、詳しく調べれば何かしらは出てくるのかもしれませんが……ただ、そうなると時間が掛かりますから、今回は簡素に調べたまでです。結果的には予定より大幅に時間は短縮出来たので、もう少し丁寧にしても良かったんですが」
『つまり、この異常事態、テロ行為と思われるものは中部支部を限定的に狙われた』
「その可能性がやや高い、程度の、あくまで憶測です」
なるほど、と松来は唸った。同時に、ため息も吐いた。
『今はまだ本部と通信札が通じない。それ以外の通信機器は、今日と明日は本部へは繋がらない。それ以外の支部も、この時間ではもう機能してないだろうね、いつもなら別だけど……。そうなるとテロリストには、たった数人の中部支部だけで解決しなくちゃならない。応援もたぶん、期待できないだろうしね』
「敵の目的自体は分かりませんが、間違いなく、通信札の妨害は行われていると思います。中部支部でのみテロが起こっているということは、通信札の混線は考えられません。中部支部内では通信は一切問題ない。すると、中部支部圏外に通信する時のみ妨害されるのか、そもそも、なんらかの仕掛けが通信札にされている可能性も」
「なんでだよ」
携帯を和川にも聞こえる状態にしてあったことがようやく活き、和川が口を挟む。
「そういう魔術もあるからだよ。例えば、通信札を限られた範囲の外では使えないようにするものとか、特定の相手との通信を遮断してしまうとか、ね。もちろん、そんな繊細な魔術は簡単じゃないし、そもそも膨大な魔力が必要になる。でも」
『貯蔵庫があれば、不可能ではない、か』
「周到と言って差し支えない準備を敵はしているようですから。通信札の妨害をしている所を見るに、今日という日を選んだのも偶然ではないでしょう」
『だろうね。そうとしか考えられない』
「そして、もう一つ……僕らがいたビル。番場さんが向かったタワー。そして中部支部近くのビル。三か所以外にあと二ヶ所、魔術鉱石が配置されています。一つは隣県、猫川市のタワーマンション屋上。そして、問題はもう一つの方なんですが、」
『問題……場所がかい?』
「場所もですが、状況までも問題と言えるでしょう。今回のテロに類する事件の中核はそこと言ってもいい」
迂遠な言い回しに痺れを切らすのが早いのは、他でもない和川だ。
「もったいぶるなよ」
「そうだね、言わせてもらうよ。五か所目の魔術鉱石の配置場所をね」
――和川は目を見開いた。
「マジ、かよ……」
『それはまた、意外なところで』
驚愕が二人の魔術師を襲っている中、「ところで、」と、不知火は自ら流れを断ち、
「ここまでで魔力を消費し過ぎたみたいだ……すまないが和川、何か簡単な食事を下に併設されているコンビニで買ってきてくれないか。ゼリー飲料でいい。大量に買ってきてくれ」
「あ、ああ。いいけど……今?」
「頼むよ」
和川を買い物に行かせると、つまりはパシらせると、不知火は「さて」と携帯の向こうの松来に聞こえない程度の声で言った。
「松来さん。作戦会議です。不器用な彼に聞かれるとやや面倒なので、買い物に言っている間に、手短に――」
○
「――そういうことなので、よろしくお願いします。……ああ、和川、すまないね」
和川がコンビニから戻って来ると、不知火は晴れやかな顔で買い物袋を受け取って、早速食事を始めた。十秒でチャージ出来ることでおなじみのパウチに入ったゼリー飲料だ。袋の中には十個ほど入っていたが、二つ掴んで一気に飲み干してしまう。触れ込み通り十秒だった。
「で、俺達はどうすればいいんだ。すぐにでも行くべきか?」
和川が焦りを見せながら問う。
「そうだね。でも、下準備はしていきたい。相当な厄介がそこには詰まっていそうだからね」
『ちょっと待ってくれ』
松来が間に入る。
『不知火くんが言ったことが本当なら、君達を二人で行かせることは出来ない。江成くんも笹見ちゃんも、そして僕も、呼べる人間は全員呼ぶべきだ』
忠告ではなく制止。不知火も「もっともです」と言わざるを得ない。和川は何のことだか分からないが、余程の危険がそこに待っていることだけは理解できる。
「ですが、相手の目的はまだ推測の域を出ません。何をしでかすのかも分からないのに、『彼』一人に人員をつぎ込んでしまえば、不測の事態に対応できる人間がいなくなります」
『たった二人で乗り込んでなんとか出来る相手だとでも思っているんですか』
「いいえ。だからこそです。笹見には番場さんの所に向かってもらって、番場さんを救助してもらいましょう。江成さんには魔力貯蔵庫に待機してもらって、何かあった時にはすぐに対処出来るよう準備して頂きたい。そして、先程も言いましたが、松来さんには情報を集約する係りを今まで通り担ってもらう必要があります」
『危険を目の前にして見過ごせと?』
いいえ、と不知火はきっぱり否定する。
「まず、増援はまだ期待できません。しかし、まあ、十中八九誰かさんは戻ってきますから。彼女をどこでもいい、ビルでもタワーでも……そうですね、江成さんの所に向かっても諸々時間を食うだけ、という危険性があるので、神田川さんのいる所まで誘導してください。リスクはありますが、通信札からの居場所の情報がないと厳しいでしょうし、それを手掛かりに上手くお願いします。
加えるならば、それさえどうにかなれば、江成さんや、他の皆さんにも僕らの所へ来て頂きたい。ああ、松来さんは駄目ですよ。今回松来さんは、言わば、作戦本部みたいなものなんですから」
松来へのフォローや、納得させるだけの言葉は用意した。
駅の休憩スペースに、和川と不知火の二人だけ。
しかし、声は小さく響く。
『じゃあ……不知火くんと和川くんの二人だけで……戦う気なんだね』
間髪をいれず、不知火は答える。
「ええ。事態を終息に向かわせるにはそれしかない、そう判断しました」
『先遣隊ということかい』
「いえ。片が付くならそれがいいかと」
『無茶は許さないよ』
「無茶でどうにかなるなら迷わずしますよ」
まるでそう答えることが分かっていたかのように、松来の声は、ため息から始まった。
『――でしょうね……全く、あの人の部下なだけはある』
「それは松来さんもでしょう?」
『自虐も込めていましたよ……』
「それはそれは、お気の毒に」
『一番頼りになる人間が今はいませんからね……では、不知火くんに任せます』
「あのぉ、忘れてるかも知れませんけど俺もいますからね」
弱々しく和川は言う。
『はは、忘れてなんかいませんよ。和川くん。……絶対、生きて帰ってきてください』
「はいっす! 死ぬつもりで魔術師になったんじゃないですから!」
『頼もしい限りですが……ホントに大丈夫ですかね、不知火くん』
「無知は彼の良い所だと、今だけは胸を張って言えますよ」
「は? それはどういう……」
確かにそうかもね、と笑った松来は、最後にこう言い残す。「頑張って、耐えてくださいね」と。そして、電話は切られた。
その先に危険が待っていることは承知の上で、しかし若き魔術師の覚悟は一人前だ。
松来には届かないと分かっていながら、
「分かってますよ。絶対に、勝ちます!」
夜の駅に、和川の声が響き渡った。
○
時刻は既に二十二時を回っている。冬の寒さは昼間とは比べ物にならない。駅を出た二人を待っていたのは、
「雪」和川が呟いた。「昨日までならテンション上がってたのに、そんな気分じゃないや」
「当たり前だ。笑顔で雪の粒を追い掛け始めようものなら骨の一本でも折っていたよ」
「物騒な」
「そういう状況だということさ」
二人して上を見上げ、遠くから舞い落ちてくる小さな雪に僅かに視線を預けた。しかしそれも、数分と持たず止んでしまう。
だが、かじかむ手、冷える首筋、白い息、思わずすくめる肩、震える膝。体を強張らせるのには十分な寒さだ。
「体は温めておけよ和川奈月。いざという時動かないでは困る」
手を息で温めながら不知火は言う。
「どうせこっからひとっ走りだろ? 嫌でも熱くなる」
「それもそうだね……でも、体力は使いすぎるなよ。持久戦になる」
「分かってるって。……だったらさ」
和川は、不知火の手元を指さす。正確には、不知火が指でひっかけているコンビニの袋を指さした。
「ゼリー、寄越せよ」
「すまない。さっき全て飲んでしまった」
「十個? 全部?」
「ああ。全部」
「お前どういう根性してたらそんな惨いこと出来んだよ。まあいい。買って来る、金返せ」
と手を差し出すが、
「そうだね。事件が終わったら返すよ。生憎今は手持ちがないんだ」
「嘘つけ! お前昼にジュース買いに行かせた時『金ならある』とかほざいてただろ」
「ジュースを買うくらいならあったんだよ。でも、滝公園の遊園地に入る時、一応大人三人分の入場料は置いてきたからね。もう一文無しさ」
「つまり……」
「買えないね。君に手持ちがないなら」
「貧乏学生に余剰資金があるとでも?」
ないだろうから、水分補給は近所の公園で済ますことになりそうだ。不服を吐き出そうと、和川は貴重な唾液を吐き捨てようとして、もったいないと飲み込んだ。
次回は、この事件に関わっているのは彼らだけではない!……といった感じになると思います。




